サンオーレそではま海水浴場の国際認証「ブルーフラッグ」の取得に向けて、ビーチクリーンを実施

海水浴場の国際認証「ブルーフラッグ」取得を目指しているサンオーレそではま海水浴場。認証取得に向けて8月20日に町民有志らがビーチクリーン活動を実施しました。ゴミから見える志津川湾の「今」についてお伝えします。

そもそもブルーフラッグってなに?

ブルーフラッグとは「きれいで安全で誰もが楽しめる優しいビーチ」をコンセプトに、1985年にフランスで誕生しました。フランスの海岸沿いの自治体が実施した下水処理と海水浴場の水質への取り組みに対してブルーフラッグ認証が授与されたのが、始まりです。1987年にFEEE(現:FEE)により、ヨーロッパ議会にブルーフラッグのコンセプトが紹介され、ブルーフラッグプログラムとして開始されました。

ブルーフラッグ認証プログラムは、SDGsの17ゴール全てに関連しており、FEE(国際環境教育基金)・UNEP(国連環境計画)・UNWTO(国連世界観光機関)などの連携のもと、世界各国でブルーフラッグプログラムを推進しています。

日本における認証機関は、一般社団法人JARTAが実施しており、2016年4月に、神奈川県鎌倉市「由比ヶ浜海水浴場」と福井県高浜町「若狭和田海水浴場」がアジア初の認証取得、2022年4月現在の認証ビーチは6か所あります。

この国際認証取得には、①水質 ②環境教育と情報 ③環境マネジメント ④安全性・サービスの4分野、33項目の認証基準を達成することが必要です。取得後は、毎年の審査を通じて、ビーチの持続可能な発展を目指しています。

サンオーレそではまがある志津川湾は2018年にラムサール条約に登録。豊かな自然環境を持続させるだけではなく、環境教育の場としての活用を検討してきました。町の目指す方向性と合致する国際認証の取得により、町の大切な資源である志津川湾を未来に繋いでいく狙いがあります。

ゴミを集めるだけではなく、それを分類して志津川湾の今を探る

そんな「ブルーフラッグ認証」の取得に向けて、志津川湾ビーチクリーン活動が8月20日(土)に開催されました。早朝にも関わらず、親子連れなど町民有志約20名が参加。

今回のクリーン活動では、30分間海水浴場周辺のゴミを集め、その後、みなさんが集めたゴミを分類毎に仕分け、ワークショップ「ゴミから見える志津川湾の今」を行いました。

天然由来のもの、人口由来のものを分類したうえで、さらに細分化していきます
写真一面に写るのはたった30分の清掃で拾った、私たちの暮らしから排出されたゴミ
特別講師は、一般社団法人サスティナビリティセンター 代表理事 太齋彰浩さん

今回のクリーン活動では、ペットボトルや缶といったゴミの定番に加え、志津川湾ならではのゴミも発見されました。

みなさん、下の写真のものが何に使われているかご存知ですか?

正解は、牡蠣養殖に使われているスペーサーと呼ばれるものです。

南三陸町の特産の一つである牡蠣。その牡蠣養殖では、ホタテの殻の中心に穴を開けたものを針金で束ねます。束ねるときに、殻同士がくっつかないように殻と殻の間にこのスペーサーを入れるのです。このスペーサーは、殻を束ねたものが脱落して流れ出してしまったか、浜に寄せておいたものが流れ出してしまったかはさておき、結果、ゴミとしてサンオーレそではま海水浴場に流れ着きました。

これは、漁業資材使用者だけでなく、その資材を使わざるを得ない背景を考える必要が我々の責任としてあるのではないでしょうか?

さて、こちらの丸が二つ付いている物体の正体をみなさんは、ご存知でしょうか?ヒントは、夏の海水浴場のアクティビティと関係があります。

正解は、シュノーケルとマスク(ゴーグル)部分をつなぎ合わせる「シュノーケルキーパー」です。

落ちている不思議なものの正体が判明すると、スッキリしますね。

学びと並行することで持続可能な取り組みへ!

このように、ただゴミを拾うだけでなく、「これはなんの部品なのか」「なぜ同じものがたくさん流れ着くのか」など疑問を解消できるワークショップがあることで、「じゃあどうしたらいいか」という考えるきっかけとなります。

そのきっかけをもとに、「じゃあなぜ生分解性プラスチックにしないのか」そして、「仕入れで値段が上がれば、売値もその分高くなる。今まで100円だったものを200円になっても、みんないつも通り買ってくれるのだろうか。やっぱそれは難しいのか」と、一人一人、考えを膨らませることが持続可能なビーチを作り上げるうえで、とても重要になってきます。

ブルーフラッグ取得はあくまで手段に過ぎません。その過程を通して、町民や観光客が持続可能なビーチのあり方を考え、行動していくことが未来へと繋がっていくのです。今後もビーチクリーン活動は継続して実施していくとのこと。ぜひ多くの方のご参加をお待ちしています。

養殖銀鮭でASC認証取得を目指す!地域おこし協力隊 吉岡優泰さん

今年度に入り、南三陸町では新たに県内外から男女5名の地域おこし協力隊が着任しました。そのうち、最年少の20歳で地域おこし協力隊になったのが京都府出身の吉岡優泰(まさひろ)さんです。吉岡さんが目指すのは養殖銀鮭でASC国際認証を取得すること。子どもの頃から将来は漁業に携わりたいと夢見ていた吉岡さん。その夢を実現すべく、この町で一歩ずつ歩き出した吉岡さんにお話を伺いました。

南三陸は銀鮭養殖の発祥の地

南三陸町(旧志津川町)は銀鮭養殖発祥の地です。1975年に試験的に養殖が始まり、その後、全国へと展開。現在も南三陸町を中心とした宮城県が国内での養殖の中心となっており、国内で流通している銀鮭の約9割が宮城県産です。南三陸町の銀鮭の特徴は生のままおいしく食べられること。配合飼料による徹底した品質管理をしているため、寄生虫の感染確率が極めて低く、生でも安心して食べられます。こだわりのエサで育った銀鮭は、臭みが無く、脂が程よくのってとろける食感。旬の時期には町内の飲食店でも銀鮭を使ったメニューが並び、地域の人や観光客に喜ばれています。

旬は4月から7月にかけて。漁の終盤を迎えた7月下旬、この日の水揚げ量は65トン以上!
選別作業のようす。大きいものだと1匹5キロもの重さ。

子どもの頃から漁師が夢だった

この銀鮭でASC認証を取得しようというプロジェクトに挑むのが吉岡優泰さんです。吉岡さんは子どもの頃から釣りが大好きで、いつかは漁師のように海や魚に携わる職業につきたいという夢を持っていたそうです。高校卒業後、夢を叶えるために漁協職員を養成する全国漁業協同組合学校(千葉県柏市)に入学。在学中は北海道から長崎まで、全国各地の現場に足を運び、さまざまな漁業を学んできました。南三陸町は吉岡さんの研修の受け入れ先のひとつ。町で銀鮭の養殖について学び、その縁がきっかけとなって今回の地域おこし協力隊につながりました。今後は宮城県漁業協同組合志津川支所に所属し、養殖銀鮭のASC認証取得に向けて尽力します。

まずは現場を知ることからと、毎日漁師と一緒に漁に出ている吉岡さん

ミッションは養殖銀鮭でASC国際認証を取得すること

ASC認証は、国際機関であるASC(Aquaculture Stewardship Council:水産養殖管理協議会)により、自然や資源保護に配慮しつつ、安全で持続可能な養殖事業を営んでいることを認める国際認証制度です。銀鮭養殖発祥の地として、養殖の継続、発展のためASC認証を取得し、銀鮭のさらなるブランド化、販路拡大や販売価格の向上を目指し、すでにASC認証を取得している牡蠣と合わせてPRを行うことで、町の水産業の活性化につなげるのが狙いです。協力隊として、吉岡さんは今後、認証に必要な調査や書類の作成、海外機関とのやり取りなど幅広く活動します。

そんな吉岡さんに、ASC認証取得に向けての意気込みなどを聞きました。

吉岡優泰さんにインタビュー

―南三陸に移住を決めたきっかけ

「学校でいろんな漁業を学ぶうちに養殖に興味を持ちました。去年の夏、南三陸で1週間、銀鮭の養殖を学ばせてもらったときに、改めて養殖業の魅力と地域の人の温かさ、恵まれた自然環境に惹かれました。そして南三陸で漁業に携わりたいと漁協の支所長・阿部富士夫さんに直談判したんです。その時、ちょうど銀鮭でASC認証の取得を目指していて、そのための地域おこし協力隊を募集していると聞きました。ASC認証について自分で調べるうちに、これは挑戦してみる価値がある、ぜひやってみたい!と思うようになり、応募しました。」

―力を入れて取り組みたいことは?

「もちろん養殖銀鮭でASC認証を取ることです。そして、多くの人にASC認証を知ってもらい、ブランド価値をあげることです。今、自分で調べただけでも認証取得まではかなり厳しい道のりです。せっかく大変な思いをして認証を取得しても消費者や社会がその価値に気づいていなければ、意味がありません。取得後に販路拡大や販売価格向上につながるよう、ASC認証の認知度を上げる取り組みにも力を入れていきたいです。」

―先輩方に囲まれてプロジェクトを引っ張っていくのは大変では?

「プレッシャーしかありません(笑)でも、やりたいと思ったのも、やると決めたのも自分なので、ひたすら頑張るしかないです。幸い、漁協の先輩や上司、漁師のみなさんが優しくしてくれるし、絶対無理だっていう人は一人もいません。頑張れよって応援してくれています。」

―休みの日は何をして過ごしている?

漁があるときは夜中の1時半に起きて3時に漁港に着いて、漁に出て、仕事が終わるのがだいたい午前10時。慣れるまでは家に帰ると爆睡でした。日曜日は休みなので、休みの日くらいのんびり寝たいと思うのですが、大好きな釣りに誘われるとついつい早起きして行っちゃうんですよね。(笑)先日も上司に誘われて、ヒラメ釣りに行ってきました!釣った魚をこれまではさばくことしかできず、料理らしい料理もできなかったんですが、最近では煮魚や揚げ物を覚えて、魚料理のスキルを磨いています。

認証取得の先に目指すもの

南三陸に移住してから毎日のように漁場に出て、先輩漁師に教わりながら銀鮭漁をしてきた吉岡さん。7月で漁はひと段落、今後について聞くと「とにかくやることが山積み。養殖場の水質調査、エサの作り方やエサに含まれる魚の産地や捕り方、稚魚の育て方や尾数管理、漁師の労働環境などおびただしい数の厳しい条件をクリアする必要があります。これまで半世紀近く続いた養殖の歴史、そのやり方を大きく変えなくてはならないことも出てくるかもしれません。超えるべき壁がいくつなのか、それがどれくらいの高さなのか、これからわかっていくんだと思いますが、絶対に中途半端には終わらせません。どんなに時間がかかっても、諦めずに目の前の壁を超えてみせます!」と力強く答えてくれました。

さらに、吉岡さんは認証取得後の夢について、

「僕がこの難しいプロジェクトに挑戦しようと思った理由のひとつに、ASC認証が日本の水産物への風評被害を払拭してくれると確信しているからです。福島第一原子力発電所の廃炉作業に伴う処理水をめぐっては、いくら日本の基準で大丈夫といっても、海外からはまだまだ慎重の声が聞かれます。でも世界基準で大丈夫って言われたら、少しは変わるんじゃないかって。世界が認めた銀鮭になれば輸出も夢じゃないかもって思っています。海外のホテルで南三陸の銀鮭が出されたら、なんか、いいじゃないですか。」

と笑顔で話してくれました。中途半端が嫌いで、何年かかっても絶対やり遂げる!と並々ならぬ強い意志を見せてくれた吉岡さん、今後の活躍に期待がかかります。

 

※地域おこし協力隊

地域おこし協力隊は、地方自治体から委嘱を受け、地域の魅力発信や特産品の開発、住民の生活支援など、さまざまな方向から地域を活性化させる活動に取り組む都市部からの移住者です。南三陸町では隊員が地域の生活になじむことができるよう、また起業・事業継承に向けたノウハウを学びながら活動に取り組めるよう、町内で活動している事業者・団体が隊員を雇用する形をとっています。

 

液肥を使った農作物のブランド化を目指す 地域おこし協力隊 太田和慶さん

南三陸町の地域おこし協力隊の委嘱状交付式が7月1日、町役場で行われ、新たに県内外から20~40代の男女4名が着任しました。そのうち、町内初の夫婦そろって地域おこし協力隊になったのが太田和慶、裕さん夫妻です。今回は農業で地域活性化を目指す夫の太田和慶さんをインタビューを交えながらご紹介します。

南三陸町で循環型の農業に挑戦したい

太田和慶さんは山形県出身の33歳。大学卒業後、長野県や岩手県で主に有機農業に従事してきました。自身の長年の夢だった循環型農業を実現するため、東北沿岸沿いで農地を探していたところ、南三陸町にたどり着いたそうです。これまで培った経験や知識でこの町の農業を盛り上げたい!自分のやりたい農業を実現したい!と地域おこし協力隊に。

7月1日佐藤仁町長から委嘱状を受け取る太田さん

今後はバイオマス事業に携わる有限会社山藤運輸(志津川)に所属し、南三陸BIOで製造される液肥や、ホヤ殻など未利用資源を堆肥化し、それらを活用した農作物の生産、ブランド化に尽力します。

ミッションは未利用資源や液肥を活用して地域農業を活性化

生ごみから液肥とバイオガスを製造し、循環型のまちづくりを進める南三陸で、液肥の散布事業を担っているのが太田さんが所属する山藤運輸です。液肥の利用促進や遊休農地や耕作放棄地活用の課題を抱え、農業の担い手を探しているところに、太田さんが手をあげ、今回の地域おこし協力隊の採用につながりました。太田さんに与えられたミッションは地域資源を活用した地域農業の活性化事業。液肥や地域の未利用資源を活用した農作物のブランド化や、地域就農者の受け入れのための環境整備などが主な活動となります。こういった活動を通して、地域農業を活性化し、遊休農地や耕作放棄地の解消を目指します。

液肥で育てている果樹の手入れをする太田さん

農業に熱い思いを持つ太田さんに、移住のきっかけや任期中に叶えたいことなどを伺いました。

太田和慶さんにインタビュー

―移住しようと思ったきっかけは?

「自分がチャレンジしたかった農業がここならできると確信したからです。20歳の頃から循環型農業をやりたいと思っていましたが、それを叶える環境選びにすごく苦労していました。大学卒業後、長野県の農業法人に就職したものの、途中で挫折、農業から離れている時期もありました。体調を崩したときに妻から「好きなことやったら?」と言われ、再び農業をやってみようと決心。岩手県一関市の農業法人で科学的・論理的な有機栽培技術を用いた農業を勉強しました。独立しようと農地を探しているときに、南三陸での循環型農業に出会ったんです。

町民が協力しあって液肥が生まれ、それを畑や田んぼに散布して作物を作っているのを見て、私自身が生涯かけてやりたかった取り組みがこの町にはある、自分がここに来たら、思い描いていた農業のさらに先を目指せるんじゃないかとワクワクしました。

ただ、新しい土地で農業をするには一から農地を探したり、安定した収穫を得るまでには時間がかかったりとけっこうハードルも高いんですよね。だから、山藤運輸の佐藤克哉社長に声かけてもらって、今回の地域おこし協力隊につながったことは本当に嬉しく思ってます。

また、農家の阿部博之さんとの出会いも大きかったです。南三陸町移住定住支援センターを通して紹介してもらったのですが、農業計画を見せたら、私がやりたい農業をくみ取ってくれて、親身に話を聞いてくれました。具体的にアドバイスもいただきながら、今回の地域おこし協力隊につながったんです。阿部さんと話しているとなんだか亡くなった父を思い出すんですよね。阿部さんだけではなく、地域のひとたちが自分のお父さん、お母さんみたいに感じました。こんな環境で農業やりたいなと素直に思いましたね。」

―力を入れて取り組みたいことは?

「液肥を使って作った作物、めぐりんブランドの確立ですね。『めぐりん米』は町のブランド米として商標登録もされていますが、米だけではなく、果樹や野菜も液肥を活用して作っていきたいです。この町のビジョンでもある「いのちめぐるまち」というキーワードにあるように、これまで私が培ってきた技術や知恵をめぐらせて、ブランド化につなげたいです。ブランドを定着させるまでには時間も労力も必要ですが、土台が整って“作れば売れる”という流れができれば、農業をする人も増えると思うので、そのベース作りに力を入れたいです。」

―南三陸町で叶えたいことは?

「農業の学校をつくることです。これまで、土や植物について徹底して勉強してきました。肌感覚ではなく、確実にいい品質のものを科学的な根拠に基づいて生産できる農家を、ここ南三陸から輩出していきたいです。ミッションのひとつに地域就農者への受け入れ態勢の環境整備があります。その学校が“農”に携わりたい人の受け皿になればと思います。」

悩みながらコツコツと前へ

今は、早朝から日が暮れるまで畑で過ごす生活だという太田さん。今後の意気込みについては、「いろんな方とのご縁を大事にして、一緒に悩みながらコツコツと前に進んでいけたらと思っています。何事も楽しんで取り組みたいです。いろいろ町のこと教えてください!」と話していました。太田さんが手がける「めぐりん米」に続くめぐりん野菜、めぐりんフルーツの誕生が待ち遠しいです。

 

※地域おこし協力隊

地域おこし協力隊は、地方自治体から委嘱を受け、地域の魅力発信や特産品の開発、住民の生活支援など、さまざまな方向から地域を活性化させる活動に取り組む都市部からの移住者です。南三陸町では隊員が地域の生活になじむことができるよう、また起業・事業継承に向けたノウハウを学びながら活動に取り組めるよう、町内で活動している事業者・団体が隊員を雇用する形をとっています。今回新たに4名の隊員が加わり、現在、町には10名の隊員が活躍しています。

新たに着任した4名の地域おこし協力隊のみなさん

新たなまちづくりの担い手「地域おこし協力隊」に4名が着任 今後の活躍に期待

南三陸町の地域おこし協力隊の委嘱状交付式が7月1日、町役場で行われました。今回は新たに県内外から20~40代の男女4名が着任。佐藤仁町長がひとりひとりに委嘱状を手渡し、激励の言葉をかけると、隊員からは、それぞれの与えられたミッションに対する決意表明がされました。

新たに着任した4名の隊員をインタビューを交えながら4回に分けてご紹介します。トップバッターは一般社団法人サスティナビリティ―センターの地域おこし協力隊、小林翔吾さんです。

サスティナビリティセンターの地域おこし協力隊 小林翔吾さん

持続可能なまちづくりの仕掛け人に

秋田県出身の小林翔吾さん(40)。これまで、仙台など東北を拠点にアパレル業や介護のコンサルタントなどの仕事を経て、今回、南三陸町の地域おこし協力隊になりました。

佐藤仁町長から委嘱状を受け取る小林さん

今後は一般社団法人サスティナビリティセンターに所属し、持続可能なまちづくりに向けて、10月に行われる学会や環境に配慮した新たな観光イベントを中心に活動します。

ミッションは「観光」×「環境」で地域活性化

小林さんが担うのは「観光」×「環境」によるポスト震災復興の地域活性化事業。具体的には昨年秋に第1回目を終えた、町内をめぐりながら「味わい」「学び」「楽しむ」ことができる環境を意識した観光イベント「里海里山ウィークス」や、持続可能なまちづくりに向けて今年10月に開催を予定している「南三陸いのちめぐるまち学会大会」の企画、運営、プロモーションなどに従事します。

企画運営に加えて、イベントに協賛してくれる地域の人々を増やしたり、南三陸を研究のフィールドとする研究者を誘致するなど、これまで培った知識、経験を活かした活躍が期待されています。

活動の拠点となるサスティナビリティセンターのデスクにはまだ、パソコが1台あるのみ。これから秋のイベントや学会に向けて忙しくなるそう。

そんな小林さんに移住のきっかけや、意気込みなどを伺いました。

小林翔吾さんにインタビュー

―地域おこし協力隊員になろうと思ったきっかけは?

「はじめから地域おこし協力隊になろうと思ったわけではありませんでした。たまたま仕事で南三陸に立ち寄り、入った飲食店で、『食べ物がおいしい』『人が温かい』という印象を受けました。それをきっかけに当時住んでいた仙台から月に1~2回ほど趣味の釣りで訪れるようになりました。たいてい漁港で釣りをしていると、漁師さんに煙たがれたりしますが、ここでは漁師さんが地形の特徴や、あっちのほうが釣れるぞ!と、釣れる場所を教えてくれたりするんです。町に通いながら人の温かさに触れたり、旬のおいしいものを食べたりしているうちに、『この町に住んでみたい!』と思うように。南三陸町移住定住支援センターに相談したところ、地域おこし協力隊の制度を知り、サスティナビリティセンターの取り組みに自分の経験を活かせるのではないかと応募しました。」

―力を入れて取り組みたいことは?

「仕事だけに限らず、町のことを知ることから始めたいです。いい部分だけではなく、町が抱える問題点も全部知った上で、自分に何ができるかを考え、町の魅力を広めたり、問題点を改善したりというのを地域の人たちと一緒に取り組んでいきたいと思っています。南三陸に通っている時、地域の人が魅力的で、おいしい食べ物もたくさんあるのに、訪れる観光客のほとんどは、さんさん商店街でお金を使って終わり、という印象がありました。地域おこし協力隊という道を選んだ理由の一つに、自分がこの町のことをもっと知って、その魅力をほかの地域の人にも伝えて共感してもらいたい、それを仕事にしたいという思いがあったので、与えられたミッションの達成はもちろん、プライベートでも積極的に町に関わっていきたいです。」

―南三陸町で叶えたいことは?

「思い立ったときにすぐに釣りができる環境なので大好きな釣りを思いっきり楽しみたいです。そして、海のことだけでなく、山のことも知りたいと思っています。知る過程でいろんな人との出会いも期待しています。あとは、毎朝6時に防災無線で音楽が流れるので、早起きをして時間を有効に使いたいですね。」

目標は1年で友達100人!?

着任初日にすでに多くの地域の人と出会ったと話す小林さん。今後の意気込みを聞くと「1年で友達100人作りたいです。人とのつながりを大切に、新たな場所で、楽しみながら仕事もプライベートも充実させたいです。」と笑顔で話してくれました。地域の人とどんどんつながって、イベントや学会を成功に導いてほしいですね。

 

※地域おこし協力隊

地方自治体から委嘱を受け、地域の魅力発信や特産品の開発、住民の生活支援など、さまざまな方向から地域を活性化させる活動に取り組む都市部からの移住者。南三陸町では隊員が地域の生活になじむことができるよう、また起業・事業継承に向けたノウハウを学びながら活動に取り組めるよう、町内で活動している事業者・団体が隊員を雇用する形をとっています。

「移住にあたって不安を抱えるみんなに見てほしい!」移住促進の動画とマンガが完成

「拝啓 移住する前の私へ」。南三陸町移住・定住支援センターが昨年制作した「移住動画」と「マンガ」が公開されました。動画とマンガはストーリーが連動しており、二つで一つの作品に。いずれも「移住したい気持ちはあるけど不安」な人にそっと寄り添い、背中を押すような内容に仕上がりました。

「移住」には不安や悩みがつきもの。

「移住するためにはやっぱり不安や悩みがつきもの。仕事や家がどうなるか、コミュニティにうまく馴染めるかどうか…。今現在、町に溶け込んで仲良く過ごしている移住者も少なからず不安があったことだと思います。そんな人たちの姿を追体験するような作品で、一歩踏み出したいけど、なかなかその一歩が踏み出せない人の背中をそっと押すことができるようなものを目指して作ったのが今回の作品です」と話すのは、南三陸町移住・定住支援センター(以下センター)の及川希さん。

そうして公開されたのが南三陸町移住動画「拝啓 移住する前の私へ ~新たなふるさと 南三陸にいる私より~」です。

南三陸町移住動画「拝啓 移住する前の私へ ~新たなふるさと 南三陸にいる私より~」

都心でアパレルの仕事をしていた女性。
役職はあがるも、「自分の代わりはいくらでもいる・・・」と
どこか寂しさを感じている自分がいました。

 南三陸町と出会い、何かと自分のことを気にかけてくれる人のあたたかさや繋がりを通じて
「自分が代えがない存在である」ことに気付いた彼女は、不安を感じながらも移住することを決断。
今では、地域の人と一緒に子育ても・・・。

 そんな彼女が、移住前の自分に宛てた手紙を綴ったショートムービー。
「自分らしく幸せな暮らしを送りたい」「移住することに不安を感じている」
「本当の豊かさって何だろう」・・・そう考える・感じている全ての人に送ります。

 

マンガで移住までのストーリーを追体験

そして、上記動画のスピンオフとして制作されたのがマンガ冊子。

架空の主人公「みなこ」が、実在する南三陸町の人々と出会い、移住という決断に至るまでの心の動きを描いた作品。この町に実際に移り住んでいる方々が多く口にする「この地域の人々に惹かれた」という言葉。その出会いやストーリーをマンガで表現しています。

マンガ内では南三陸町民がたくさん登場!ぜひ見つけてみてください。

地域の人に出会い、惹かれていくなかで、「この町に移住してきたら私にできることはありますかね」と自問自答する主人公の姿が描かれます。

センターの及川さんは「きっと多くの移住者が考えたことがある問いだと思います。でも難しく考えすぎずに、小さなことでも些細なことでも、挑戦していくだけで十分。むしろ、役に立とうと思わなくても、この町での生活を目一杯楽しんでいるだけできっとこの町の力になっているのだと思う」と話します。

コロナ禍で移住相談にも変化が

新型コロナウイルスの感染拡大以降、センターへの移住相談や問い合わせもこれまでから少し変化が見られるといいます。

「一つは、若い世代からの問い合わせが増えたこと。そして二つ目は、全国各地から問い合わせが来るようになったこと。リモートワークや副業(複業)などの浸透も影響しているのかもしれません。それと同時に、ボランティアや復興支援などで何らかの形で南三陸に関わったことがある人ではなく、南三陸と全く接点のなかった人たちの相談が多くなりました」と及川さん。

震災直後から多くの移住者がやってきていた南三陸町。その移住者には震災直後にボランティアや仕事として南三陸に関わり、移住前から地元コミュニティに馴染んでいた人も少なくありません。しかし震災から年を経るほどに、移住をきっかけに南三陸町と接点を持つという移住者も増えてきました。そして今後はその傾向は一層強くなることが予想されます。そうした状況の変化により移住者の抱える不安も変化していることでしょう。

及川さんが特にお気に入りだという1ページ

「今ある不安は伝えていいんだよ」

思っていること、不安などを口に出してみたら意外とあっさりと周りの人が応援してくれたり、一歩を踏み出すきっかけをくれたり。今回制作された動画や漫画が、移住を考えるあなたの背中をそっと押すきっかけになることを期待しています。

移住相談は気軽にセンターまで!

移住に少しでも興味ある方は下記、南三陸町移住・定住支援センターまでお問い合わせください。オンライン相談や実際に南三陸町訪問する視察プログラムのコーディネートも行っています。

HP https://www.minamisanriku-iju.jp/
電話 0226-25-9552

「瓦礫の中で闇市しよう」福興市を支えた全国の商店街の仲間の想い

2022年5月29日(日)。快晴に恵まれた旧仮設魚市場にはコロナ禍で忘れかけていた活気溢れる南三陸町の姿がありました。震災からわずか50日ほどで立ち上がった福興市の記念すべき第100回目。全国の仲間も駆けつけお祝いや出店で花を咲かせていました。福興市を支え続けた全国の仲間にその想いを聞きました。

震災前に築いていたネットワークにより実現した福興市

震災からわずか50日余りでの福興市開催は、全国の商店街と連携した「ぼうさい朝市ネットワーク」の支援により実現しました。「ぼうさい朝市ネットワーク」は、津波などの有事の際にお互いに支援し合うことを目的に始まった取り組み。福興市実行委員会実行委員長の山内正文さんらが震災前に店を構えていた「おさかな通り」の商店主たちは実行委員会を組織し、このネットワークに加盟していました。

工場も店舗も商品も、そして人命までも多くのものを奪っていった東日本大震災。

「ぼうさい朝市ネットワーク」に加盟していた南三陸町の窮状に全国の仲間がいち早く立ち上がっていました。

写真提供:一般社団法人南三陸町観光協会

震災から時間はそう立たないうちに、ネットワーク代表の藤村望洋さんは、避難所となっていた小学校の真っ暗な体育館で親交のあった商店主と膝をつきあわせていました。「もうダメだ。全部流された。何一つなくて残っているのは借金だけだ」と嘆いていたという。それを聞いて立ち上がった藤村さんはこう話したといいます。

「南三陸のなかであなたたち経営者が下を向いて嘆いていたら二度と町は立ち上がれない。明日からでもいいから、瓦礫のなかで闇市しよう。全国からテント持って机持って商品も持って全国から駆けつけるから」。その一言から福興市の歴史は始まったのです。

その藤村さんの呼び掛けに賛同した全国の仲間たち。すべてを奪った東日本大震災からわずか50日ほど、被災地のなかでも例をみない「市」が、町に誕生したのです。

写真提供:一般社団法人南三陸町観光協会

「“市”を“興”して幸“福”になる」と願いを込めて名付けられた「福興市」。まさに南三陸町の復興を牽引する存在となっていきました。その後、毎月末日曜日を基本に開催されること10年。コロナ禍で2年の延期を経て、2022年5月29日(日)に遂に第100回の開催を迎えました。

福興市を支え続けた全国の仲間の想い

第100回の福興市会場には、福興市の原動力となり、支え続けてきた「ぼうさい朝市ネットワーク」のみなさんが集まっていました。そんなみなさんに福興市と関わることになったきっかけや、福興市の魅力を伺いました。

「小売人は1日も早く商いをしなあかん」

味萬 伊東正和さん(神戸市長田区:大正筋商店街)

ー福興市と関わるきっかけやエピソードは?

私が商いをする神戸市長田区は1995年に発生した阪神淡路大震災の火災によって商店街の8割を焼失した経験があります。2005年に志津川でその当時の経験談をお話しする機会がありました。南三陸町とはそれ以来のご縁ですね。震災から1週間した頃にたまたまテレビの生中継で山内正文さんと会話する機会があったんです。そのときにも私どもの経験から「小売人は1日も早く商いをしなあかん。そのために応援するから」と伝えました。

そこから仮設商店街や本設商店街を作るときには私たちの経験、うまくいったことや失敗したことを共有させてもらっていました。

ー福興市の魅力とは?

南三陸に来るたびに元気をもらっているんです。地域の方々のためにも商店街って大切なもの。それを思い起こさせていただいて。最初は長田の経験を共有していたけれど、南三陸の元気を持って帰って商店街の仲間に伝えるようになっていきました。辛いことを経験した同士、お互いを想い助け合うことができる。弱ったときに相手の顔を見たら頑張れる、そんな関係を築けたことが何よりもの魅力ですね。

「2009年の水害で南三陸から温かい支援をいただいたのがきっかけ」

空き缶でもうけてもええ会 千種和英さん(兵庫県佐用町:作用商店街)

ー福興市と関わるきっかけは?

私どもの住む兵庫県佐用町は2009年に水害で20名が亡くなってしまうという大きな被害がありました。その時に南三陸町から物心両面で温かい支援をいただいたんです。それがご縁となって2011年の東日本大震災の被災直後から炊き出しや救援物資を持って南三陸に駆けつけました。そのなかで「福興市という市を開催するよ」という話を聞いて、なにかお手伝いできることがあったらさせてくださいということで、テントとプロパンガスを救援物資で持ってきたのが南三陸町と関わったきっかけでした。

ー福興市の魅力とは?

震災の津波であれだけ痛い目にあってしまった町だけど、海の幸が本当にすごいなと思った。そしてそれを支えている地域の人たちが元気だからこそ、四季を通じておいしいものがあるんだなと感じたのを覚えています。南三陸にはみなさんの元気とおいしいものがたくさんあるのが魅力ですね。

「お互いの安否を確認しあっていた1回目の福興市は忘れられない」

(株)カワイ 河井達志さん(鹿児島県鹿児島市:宇宿商店街振興組合)

ー福興市と関わるきっかけやエピソードは?

鹿児島県鹿児島市の宇宿は1993年8月6日に水害を経験していました。そうしたこともあり「ぼうさい朝市ネットワーク」に加盟していました。そのなかで全国の仲間ができて南三陸町ともつながりができていました。

そのネットワークでもあった南三陸町が大きな被害を受け、第1回目の福興市には私どもも商品を持って駆けつけ、売上金をすべて置いていくという協力をさせていただいたんです。それをきっかけに、及川善祐副実行委員長が宇宿の小学校で防災について講演を実施するなど、強い絆が育まれていきました。やっぱり印象的なのは1回目の福興市。目の前でお客さんが『ああ生きてた!よかった!』と抱き合っている光景が広がっていたのは、言葉にならない想いでした。

ー福興市の魅力とは?

辛い思いをした仲間がお互いの思いを尊重して、協力をする。それぞれのメリットだけではなく、つながりができた、ということが何よりものこと。それが福興市の魅力ですね。

「100回以上は南三陸に来ている。もう第2の故郷です」

壇のさとう 佐藤幸美さん(山形県酒田市:酒田中通り商店街振興組合)

ー福興市と関わるきっかけやエピソードは?

一番最初は3月18日に志津川中学校、志津川小学校に救援物資を持っていったのがきっかけでした。その後の福興市にも関わってそれ以来ずっと関わり続け、100回開催のうち85%以上には参加していますね。第2のふるさとというか、親戚以上にも会うほど。個人で遊びに来たのも含めると100回以上は来ていますね。

印象的な福興市はたくさんあるんですけど、楽しいときばかりじゃなくて、雨だったり雪だったり風だったり厳しい条件のときの福興市は特に印象的ですね。そういう辛いときも友達と楽しく過ごしたり、実行委員の方も頑張っている姿を見るとまた来月来ようって不思議と思わせてくれるんですよね。

ー福興市の魅力とは?

やっぱり人とおいしいものが魅力。どこの地域でもそのように言うと思うけど、自分にあったのが南三陸町だったのかなと思います。私たちの酒田中通り商店街も46年前の酒田大火で全部焼失してしまった商店街。同じ思いをして立ち上がってきたというのもあるのかな。南三陸の明るい性格の人々に会いにきて商人魂を奮い立たせてもらえる、それが魅力ですね。

「誰もを温かく迎え入れてくれる。それが南三陸」

笠岡着物プロジェクト 上一枝さん(岡山県笠岡市)

ー福興市と関わるきっかけやエピソードは?

岡山県笠岡の商店街が「ぼうさい朝市ネットワーク」に加盟していて第1回から商店街として協力していました。私は、2011年7月に商店街の方に連れてきていただいたのが福興市に関わった最初のきっかけでした。冬場を除いて毎月のように岡山から車で福興市に駆けつけ続けた10年でした。

私が着物を趣味にしていて、震災から一年たった5月に「夏祭りに浴衣着せたい」という連絡が及川善祐さんからあったんです。なんとか実現したいと、浴衣の支援を呼びかけたところ九州から北海道まで全国から1000人分くらいの浴衣が届いたんです。その夏に着付けをさせてもらってみんなその浴衣を来て夏祭りに参加してもらったのがすごくうれしくて、たくさんの笑顔をいただきました。

ー福興市の魅力とは?

来ると我が家に戻ったように皆さんが本当に笑顔で迎え入れてくれて、「また来たの?」「よく来たね〜」と言ってくれるのがすごくうれしくて。毎回いろんなメンバーを連れてきて参加しても、本当に皆を迎え入れてくれるということが福興市の一番の魅力だと思います。

「支援ではなく純粋に楽しんでいた」

NPO法人匠の町しもすわあきないプロジェクト 原雅廣さん(長野県下諏訪町:御田町商店街)

ー福興市と関わったきっかけは?

震災のときに「ぼうさい朝市ネットワーク」の藤村望洋さんに連絡をとって「何かできることはないか」と相談させてもらったことがきっかけで関わるようになった。もう何回関わっているか分からないくらいですね。

ー福興市の魅力とは?

南三陸の人ってすごい優しい。来るもの拒まずという感じですよね。私たちはこうして美味しいものをたくさん食べて、たくさんお金を落として帰っていました。支援で来ているというよりは、単純に楽しくて参加させてもらっていました。

福興市に参加する以外でも連絡を取り合っていて、下諏訪でイベントがあるときは水産物を送ってもらったりしている。これからもこうした関係を続けていければうれしいですね。

100回で区切りを迎える福興市。この繋がりはこれからも

福興市のきっかけとなった藤村望洋さんも100回を重ねた福興市で多くの笑顔が飛び交う会場を感慨深げに眺めていました。

「あれだけ凹んでいたのに実に見事にニコニコと明るい笑顔で人柄のよさを生かして100回を積み重ねてきたと思う。これからは“復興”ではなく、新しい町、地域をつくっていくことに大いに期待している」

福興市は100回をもって一区切りを迎えます。しかし福興市を機に繋がった全国の商店街のみなさんとの絆は途絶えることはありません。これまでの多大なるご支援を胸に、感謝の想いを抱き続けながら南三陸町は一歩ずつ歩み続けていきます。

2022年06月30日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

パノラマ

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

パノラマ

パノラマ

パノラマ

パノラマ

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

パノラマ

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将来の夢はシロウオ漁師!?地元小学生が伝統シロウオ漁を見学

5月半ば、南三陸町歌津伊里前川で行われているシロウオ漁が最盛期をむかえ、伝統の漁法「ザワ漁」の様子を地元の小学生が見学しました。

「ザワ」を使った伝統シロウオ漁

春の風物詩としても知られる伊里前川のシロウオ漁は「ザワ」と呼ばれる伝統的な漁法で行われています。川の中に石を組み、潮の満ち引きを利用して、シロウオを仕掛けていたかごに追い込むという漁法です。シロウオが産卵のために海から遡上する春に漁が行われますが、今年は水温が低かった影響で、例年よりも1か月ほど遅れ、5月の中旬に最盛期をむかえました。

シロウオの漁場 石を組んで作るしかけ「ザワ」
「ザワ」の頂点に網かごが取り付けられており、満潮で川を遡上して来たシロウオが入る
体長5cmほどに成長したシロウオ

子どもたちはシロウオに興味津々!

5月18日、総合的な学習の時間でシロウオ漁の見学に訪れたのは伊里前小学校3年生の17人。

明治時代からシロウオ漁を続ける3代目漁師、渡辺千之(73)さんが講師となって、子どもたちにシロウオの生態や漁のやり方などを説明しました。子どもたちはシロウオに興味津々!「シロウオは何年生きられるの?」「何を食べて大きくなるの?」「1日に何匹とれるの?」など様々な質問が飛び交い、渡邊さんの説明を聞きながら熱心にノートをとっていました。

「どうして“ザワ漁”っていうの?」
「積みげた石の間から流れる水の音が「ザワザワ」って聞こえることから「ザワ漁」って呼ばれるようになったんだよ。」

 

渡辺さんの説明を聞いた後、いよいよザワ漁のしかけを見に川の中へ。

石の組み方の工夫や、シロウオが網に入る仕組みについて実際にしかけを見ながら教えてもらいました。

そして、シロウオが入った網を渡邊さんが持ち上げると子どもたちからは大きな歓声が。ぴちぴちと勢いよく跳ねる、体調5cmほどに成長したシロウオを手にとってオスとメスの見分け方などを教わっていました。

産卵期にほんのり頭がピンク色になるのがメス

初めてシロウオを見たという女の子は「シロウオがピチュピチュって動いたのが面白くて、ミミズみたいな感触でした。家に帰ったらしょうゆをつけて食べたいです。」と話していました。

将来はシロウオの漁師になりたい!と話す子どもたち

また、積極的に渡辺さんに質問をしていた男の子は「僕の夢は宇宙飛行士だけど、きょう渡辺さんからシロウオのことを教えてもらって、宇宙飛行士になるかシロウオの漁師になるか迷っています。」と地域に伝わる伝統の漁に興味を持ったようす。

伝統の漁を残すためにできること

毎年、地域の子どもたちに「ザワ漁」について教えている渡辺さんは、「子どもたちが毎年来てくれるのは嬉しい。最盛期は37軒あった漁師も震災後の高台移転や漁師の高齢化もあって辞める人が多く、今では4軒に。こうやって子どもたちにザワ漁を知ってもらうことで、少しでも興味を持ってもらい、そのうちのひとりでも将来、この伝統を引き継いでもらえたら嬉しい。」と話します。続けて「引き継ぐのは漁だけではない。近年、環境の変化などで魚がどんどん捕れなくなってきている。シロウオが毎年、この川に戻って来られるように川の環境を整えること、そして、とりすぎないこと。産卵の時期になったら漁を辞めて、しかけを取り払い、次の年のため稚魚を海へ戻してあげることも大事だ。」と話しました。

漁師の渡邊千之(せんし)さん

「将来シロウオ漁の漁師になりたいっていう男の子が何人もいましたよ」と渡辺さんに伝えると、「やりたいという気持ちを持ってもらえただけでもうれしいね」と満面の笑みを浮かべ、「歩けるうちは漁場に通い、未来の漁師が現れるまでこの伝統の漁を絶やさず守っていきたい」と意気込んでいました。

今年のシロウオ漁は6月いっぱいまで続きます。

ちなみに渡辺さんおすすめの食べ方はかき揚げとにらとシロウオの卵とじだそうです。皆さんも食べる機会があればぜひ!

スナックで移住者の本音をディープに探る「スナックせきらら」開店

昨年度、毎月11日のライブ配信として好評いただいていた「カフェせきらら」がよりディープにリニューアル!「スナック」へと業態変更をして、町で活躍する移住者の本音をより引き出し、深ぼっていく企画となりました。

町で活躍する移住者にスポットをあてる

「ミナミサンリク移住カフェせきらら」は南三陸町移住・定住支援センターと町公式メディア「南三陸なう」が共同企画し、毎月11日にYouTubeLIVEにて座談会を実施、南三陸町に集うさまざまな移住者の姿をお伝えするライブ配信コンテンツとして実施してきました。新型コロナウイルスの感染拡大の影響により延期せざるを得ない月もありましたが全8回実施。

震災後、復興や新たなまちづくりにまい進する南三陸町には全国から多くのUIターン者が訪れています。そんなUIターン者に移住した人たちが南三陸への移住を決めたきっかけや、実際に町で暮らしながら感じている魅力、時には不便さなども率直に話してもらいながら、移住者にとって南三陸町がどんな町なのかを伝え、移住を考えている人の参考にしてもらいたいというのが狙いでした。

「移住者の魅力をよりディープに」リニューアル

今年度は昨年度からの狙いを継続した上で、番組をリニューアル。「カフェ」から「スナック」へと業態変更をして、「スナックせきらら」として、より一層ディープに深掘るコンテンツを目指してお届けします。ママ役には、町民のみなさんにもお馴染みの中村未來さん。いつものナチュラルな装いとは打って変わってバブリーな衣装にも注目です。本企画を協力して推進している南三陸町移住・定住支援センターの上野さんは、スナックの常連客。上野さんがよく知る移住者をママに紹介するという流れで番組がはじまっていきます。

さらにロケ地として、南三陸ホテル観洋さんの協力のもと「クラブ龍宮」を使用。より本格的な雰囲気で撮影した画にも注目してみてください。

カフェとして運営をしてきた昨年からのリニューアルポイントは下記の点にあります

・ゲストを一人に絞ることでトークを深掘り。ゲストの魅力をよりいっそう引き出す
・ママ役とのコミュニケーションからよりディープな話を引き出し、移住の苦労も含めたリアルを知る

ちなみに今年度のスナックせきららは基本的には収録配信を予定。毎月末金曜日の配信を目指して制作をすすめています。

記念すべき第1回ゲストは2014年に埼玉県から移住した中島綾子さん

第1回目のゲストは2014年に移住した埼玉県出身の中島綾子さん。

まるでパワースポットのようにいつもキラキラと輝いている姿が印象的な彼女ですが、じつはその姿は、とても辛い経験を乗り越えてきたからこそのものでした。

「この町の人に自分をいいように変えてもらった。だから恩返しをしなくちゃいけない」

たまたま出会った南三陸という町。そしてそこで出会った人々に大きく人生を動かされた中島さん。高層ビルでヒールをカツカツ鳴らしていた彼女は、長靴を履いて農業に勤しむ姿へと変化していきました。そしてついに、この町で出会った人と結婚。この町でこれからも生きていく覚悟を口にします。

「価値観がガラッと変わった。自分の好きなことをしていいんだってこの町の人に思わせてもらった」

トークのなかでは、特にお世話になった町民や新婚ホヤホヤの結婚生活から出会いのエピソードまで深い話を聞くことができます。そしてさまざまな試練を乗り越え、経験してきた彼女の言葉になんだか救われるような気持ちに。移住に一歩踏み出せない方、何かに迷っている方にぜひご覧いただきたい!きっと彼女の言葉に勇気をもらえる。そんなトークとなっていました。

Big Band Liberty of Musicが3年ぶりの来町!とにかく元気にエネルギッシュに!町を盛り上げる!

2022年5月28日(土)に行われた配信ライブ、そして29日(日)第100回記念福興市でのステージ。震災後、幾度となく南三陸町を盛り上げてきたBig Band Liberty of Music(以下、LOM)の当日の様子やこれまでの思い、今後についてお届けします!

3年ぶりに南三陸を訪れたLiberty of Musicが町を盛り上げる!

これまで幾度となく復興期の南三陸町を訪れ、福興市やさんさん商店街などでの演奏で町民にパワーを与えていただいてきたBig Band Liberty of Music(以下、LOM)。今回は100回記念福興市に合わせて来町。2022年5月28日(土)には、南三陸なうチャンネルにて、福興市の前夜祭として配信ライブが行われました。

震災後、幾度となく南三陸町に訪れ、演奏で町民に元気やパワーを与えてきたLOM。新型コロナウイルスの感染拡大によって遠征ができなかったため、3年ぶりの現地演奏会。当日の配信はアーカイブも残っているのでぜひご覧ください。

誰もが知っている「あまちゃん オープニングテーマ」から始まり、「北の旅人」「みちのくひとり旅」「男と女のラブゲーム」など町の皆さんが喜ぶ、昭和歌謡を一時間たっぷり披露!

宿泊者であり演奏会のお客さんの笑顔はもちろん、LOMの皆さんの笑顔が溢れていて優しい音色とともに穏やかな空気が流れていました。

そして!前夜祭を締めくくる曲は…松平健さんの「マツケンサンバ」!

曲の始まりとともに、登場したのは、なんとっ!前夜祭のMVP、直樹さん!華麗な舞を披露頂きました。ぜひアーカイブ映像でご視聴ください。

日付が変わって、福興市当日。震災後わずか1ヶ月でスタートした福興市の100回記念開催となり多くのお客様が集うなか、LOMは、ステージプログラムの大トリを務めます。

カンカン照りなおかつ風が結構吹いている中での演奏。LOMの単独演奏はもちろん、MIKI Babyさんとのコラボ演奏に、会場の皆さんは聞き惚れていました。

演奏が終了すると、客席からは拍手喝采!

LOMの代表藤本さんは、「拍手で迎えてくれるのが、一番うれしいよね!」と今日一番の笑顔で語っていました。

被災地の雰囲気を一新してくれた音楽の力

LOMは、東日本大震災の3年後(2014年)から南三陸町で活動を始めました。

きっかけは、MARUwDA311(読:まるーだ・さん・いち・いち)が東京で復興支援を行っており、そのご縁で、南三陸でライブをやらないか?という話から、年一回のペースで福興市での演奏やさんさん商店街などでの単独ライブを、これまで8年間続けてきました。

LOMは南三陸で演奏する際に、大切にしていることがあるといいます。

それは、とにかく明るい曲・エネルギッシュな曲を披露すること。被災地での演奏会ではしっとりとした曲やスローテンポの曲が演奏されることも多かったそうですが、LOMではポップな曲やアップテンポの曲、演歌などで聴いている人に楽しんでニコニコしてもらうことを、第一に演目を考えることを活動理念にしています。それは、今回の配信ライブや福興市の会場でも貫かれており、思わず観客が笑顔になってしまうような、演奏がされていました。

そして、LOMが南三陸演奏会を実施するときに、演奏以外に行っている活動があります。それは、“募金活動”。

町内にある、志津川中学校や歌津中学校の吹奏楽部に向けて、毎年募金を集め、手渡しで町の方にお渡しをしています。

その理由をLOMの代表藤本さんに伺ったところ、「僕が、吹奏楽部出身なんですけど、これからの夏コンクールとかは、お金がかかるんですよね。それで、微々たるものですけどよかったら使ってもらえれば」と。また、「誰かに頼むと、望んだ場所にいかない可能性があるんですよね。どこ行っちゃったんだろうってなるので、それよりかは、直接自分が来て渡したよっていう募金した甲斐を実感することのために直接お渡しをしている」と話していました。

町民に演奏を通して笑顔を届け、若い世代に活動支援を行う。

各世代に適した活動を行い、皆さんが楽しんでニコニコしてくれることを大切に、活動していることが見えてきました。

第100回記念福興市にて募金を手渡すLOM代表藤本智之さん(左)と佐藤仁南三陸町長(右)

そして、町民にもお話を伺ったところLOMが南三陸町にもたらした影響も見えてきました。

「震災後、歌うことをしてこなかった。歌う雰囲気ではなかったなか、LOMが南三陸を訪れ、演奏をする。徐々に、みんなで歌えるように変わっていった。震災後、初めて歌ったのがLOMが来てくれたときだったな。LOMは被災地の雰囲気を一新してくれた団体なんだ」と当時を思い起こしながらしんみりと語ってくれました。

かつては、LOMの演奏を背に町民の皆さんが歌詞カードを手にして歌を歌う。そんな光景が広がっていたのです。

福興市が終わっても、LOMと南三陸のつながりは終わらない!

福興市は、2022年5月29日に行われた100回記念 福興市大感謝祭を最後に、幕を閉じます。

今後について代表に伺ったところ、「毎年九月末に来たい」「年一で、無理やり来る!(笑)」と、既に次回に向けて意気込んでいました。

前夜祭も、福興市当日も新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、声を出して歌うことができませんでした。震災後、町民が歌うきっかけになったLOMの醍醐味とも言える“大合唱”。

コロナ終息後、みんなでいっしょに「兄弟船」を歌える日が再び訪れることを心待ちに…今後の、Big Band Liberty of musicの活動に乞うご期待です!