2022年5月29日(日)。快晴に恵まれた旧仮設魚市場にはコロナ禍で忘れかけていた活気溢れる南三陸町の姿がありました。震災からわずか50日ほどで立ち上がった福興市の記念すべき第100回目。全国の仲間も駆けつけお祝いや出店で花を咲かせていました。福興市を支え続けた全国の仲間にその想いを聞きました。
震災前に築いていたネットワークにより実現した福興市
震災からわずか50日余りでの福興市開催は、全国の商店街と連携した「ぼうさい朝市ネットワーク」の支援により実現しました。 「ぼうさい朝市ネットワーク」は、津波などの有事の際にお互いに支援し合うことを目的に始まった取り組み。福興市実行委員会実行委員長の山内正文さんらが震災前に店を構えていた「おさかな通り」の商店主たちは実行委員会を組織し、このネットワークに加盟していました。
工場も店舗も商品も、そして人命までも多くのものを奪っていった東日本大震災。
「ぼうさい朝市ネットワーク」に加盟していた南三陸町の窮状に全国の仲間がいち早く立ち上がっていました。
写真提供:一般社団法人南三陸町観光協会
震災から時間はそう立たないうちに、ネットワーク代表の藤村望洋さんは、避難所となっていた小学校の真っ暗な体育館で親交のあった商店主と膝をつきあわせていました。「もうダメだ。全部流された。何一つなくて残っているのは借金だけだ」と嘆いていたという。それを聞いて立ち上がった藤村さんはこう話したといいます。
「南三陸のなかであなたたち経営者が下を向いて嘆いていたら二度と町は立ち上がれない。明日からでもいいから、瓦礫のなかで闇市しよう。全国からテント持って机持って商品も持って全国から駆けつけるから」。その一言から福興市の歴史は始まったのです。
その藤村さんの呼び掛けに賛同した全国の仲間たち。すべてを奪った東日本大震災からわずか50日ほど、被災地のなかでも例をみない「市」が、町に誕生したのです。
写真提供:一般社団法人南三陸町観光協会
「“市”を“興”して幸“福”になる」と願いを込めて名付けられた「福興市」。まさに南三陸町の復興を牽引する存在となっていきました。その後、毎月末日曜日を基本に開催されること10年。コロナ禍で2年の延期を経て、2022年5月29日(日)に遂に第100回の開催を迎えました。
福興市を支え続けた全国の仲間の想い
第100回の福興市会場には、福興市の原動力となり、支え続けてきた「ぼうさい朝市ネットワーク」のみなさんが集まっていました。そんなみなさんに福興市と関わることになったきっかけや、福興市の魅力を伺いました。
「小売人は1日も早く商いをしなあかん」
味萬 伊東正和さん(神戸市長田区:大正筋商店街)
ー福興市と関わるきっかけやエピソードは?
私が商いをする神戸市長田区は1995年に発生した阪神淡路大震災の火災によって商店街の8割を焼失した経験があります。2005年に志津川でその当時の経験談をお話しする機会がありました。南三陸町とはそれ以来のご縁ですね。 震災から1週間した頃にたまたまテレビの生中継で山内正文さんと会話する機会があったんです。そのときにも私どもの経験から「小売人は1日も早く商いをしなあかん。そのために応援するから」と伝えました。
そこから仮設商店街や本設商店街を作るときには私たちの経験、うまくいったことや失敗したことを共有させてもらっていました。
ー福興市の魅力とは?
南三陸に来るたびに元気をもらっているんです。地域の方々のためにも商店街って大切なもの。それを思い起こさせていただいて。最初は長田の経験を共有していたけれど、南三陸の元気を持って帰って商店街の仲間に伝えるようになっていきました。辛いことを経験した同士、お互いを想い助け合うことができる。弱ったときに相手の顔を見たら頑張れる、そんな関係を築けたことが何よりもの魅力ですね。
「2009年の水害で南三陸から温かい支援をいただいたのがきっかけ」
空き缶でもうけてもええ会 千種和英さん(兵庫県佐用町:作用商店街)
ー福興市と関わるきっかけは?
私どもの住む兵庫県佐用町は2009年に水害で20名が亡くなってしまうという大きな被害がありました。その時に南三陸町から物心両面で温かい支援をいただいたんです。それがご縁となって2011年の東日本大震災の被災直後から炊き出しや救援物資を持って南三陸に駆けつけました。そのなかで「福興市という市を開催するよ」という話を聞いて、なにかお手伝いできることがあったらさせてくださいということで、テントとプロパンガスを救援物資で持ってきたのが南三陸町と関わったきっかけでした。
ー福興市の魅力とは?
震災の津波であれだけ痛い目にあってしまった町だけど、海の幸が本当にすごいなと思った。そしてそれを支えている地域の人たちが元気だからこそ、四季を通じておいしいものがあるんだなと感じたのを覚えています。 南三陸にはみなさんの元気とおいしいものがたくさんあるのが魅力ですね。
「お互いの安否を確認しあっていた1回目の福興市は忘れられない」
(株)カワイ 河井達志さん(鹿児島県鹿児島市:宇宿商店街振興組合)
ー福興市と関わるきっかけやエピソードは?
鹿児島県鹿児島市の宇宿は1993年8月6日に水害を経験していました。そうしたこともあり「ぼうさい朝市ネットワーク」に加盟していました。そのなかで全国の仲間ができて南三陸町ともつながりができていました。
そのネットワークでもあった南三陸町が大きな被害を受け、第1回目の福興市には私どもも商品を持って駆けつけ、売上金をすべて置いていくという協力をさせていただいたんです。それをきっかけに、及川善祐副実行委員長が宇宿の小学校で防災について講演を実施するなど、強い絆が育まれていきました。 やっぱり印象的なのは1回目の福興市。目の前でお客さんが『ああ生きてた!よかった!』と抱き合っている光景が広がっていたのは、言葉にならない想いでした。
ー福興市の魅力とは?
辛い思いをした仲間がお互いの思いを尊重して、協力をする。それぞれのメリットだけではなく、つながりができた、ということが何よりものこと。それが福興市の魅力ですね。
「100回以上は南三陸に来ている。もう第2の故郷です」
壇のさとう 佐藤幸美さん(山形県酒田市:酒田中通り商店街振興組合)
ー福興市と関わるきっかけやエピソードは?
一番最初は3月18日に志津川中学校、志津川小学校に救援物資を持っていったのがきっかけでした。その後の福興市にも関わってそれ以来ずっと関わり続け、100回開催のうち85%以上には参加していますね。 第2のふるさとというか、親戚以上にも会うほど。個人で遊びに来たのも含めると100回以上は来ていますね。
印象的な福興市はたくさんあるんですけど、楽しいときばかりじゃなくて、雨だったり雪だったり風だったり厳しい条件のときの福興市は特に印象的ですね。そういう辛いときも友達と楽しく過ごしたり、実行委員の方も頑張っている姿を見るとまた来月来ようって不思議と思わせてくれるんですよね。
ー福興市の魅力とは?
やっぱり人とおいしいものが魅力。どこの地域でもそのように言うと思うけど、自分にあったのが南三陸町だったのかなと思います。私たちの酒田中通り商店街も46年前の酒田大火で全部焼失してしまった商店街。同じ思いをして立ち上がってきたというのもあるのかな。南三陸の明るい性格の人々に会いにきて商人魂を奮い立たせてもらえる、それが魅力ですね。
「誰もを温かく迎え入れてくれる。それが南三陸」
笠岡着物プロジェクト 上一枝さん(岡山県笠岡市)
ー福興市と関わるきっかけやエピソードは?
岡山県笠岡の商店街が「ぼうさい朝市ネットワーク」に加盟していて第1回から商店街として協力していました。私は、2011年7月に商店街の方に連れてきていただいたのが福興市に関わった最初のきっかけでした。冬場を除いて毎月のように岡山から車で福興市に駆けつけ続けた10年でした。
私が着物を趣味にしていて、震災から一年たった5月に「夏祭りに浴衣着せたい」という連絡が及川善祐さんからあったんです。なんとか実現したいと、浴衣の支援を呼びかけたところ九州から北海道まで全国から1000人分くらいの浴衣が届いたんです。 その夏に着付けをさせてもらってみんなその浴衣を来て夏祭りに参加してもらったのがすごくうれしくて、たくさんの笑顔をいただきました。
ー福興市の魅力とは?
来ると我が家に戻ったように皆さんが本当に笑顔で迎え入れてくれて、「また来たの?」「よく来たね〜」と言ってくれるのがすごくうれしくて。毎回いろんなメンバーを連れてきて参加しても、本当に皆を迎え入れてくれるということが福興市の一番の魅力だと思います。
「支援ではなく純粋に楽しんでいた」
NPO法人匠の町しもすわあきないプロジェクト 原雅廣さん(長野県下諏訪町:御田町商店街)
ー福興市と関わったきっかけは?
震災のときに「ぼうさい朝市ネットワーク」の藤村望洋さんに連絡をとって「何かできることはないか」と相談させてもらったことがきっかけで関わるようになった。もう何回関わっているか分からないくらいですね。
ー福興市の魅力とは?
南三陸の人ってすごい優しい。来るもの拒まずという感じですよね。私たちはこうして美味しいものをたくさん食べて、たくさんお金を落として帰っていました。支援で来ているというよりは、単純に楽しくて参加させてもらっていました。
福興市に参加する以外でも連絡を取り合っていて、下諏訪でイベントがあるときは水産物を送ってもらったりしている。これからもこうした関係を続けていければうれしいですね。
100回で区切りを迎える福興市。この繋がりはこれからも
福興市のきっかけとなった藤村望洋さんも100回を重ねた福興市で多くの笑顔が飛び交う会場を感慨深げに眺めていました。
「あれだけ凹んでいたのに実に見事にニコニコと明るい笑顔で人柄のよさを生かして100回を積み重ねてきたと思う。これからは“復興”ではなく、新しい町、地域をつくっていくことに大いに期待している」
福興市は100回をもって一区切りを迎えます。しかし福興市を機に繋がった全国の商店街のみなさんとの絆は途絶えることはありません。これまでの多大なるご支援を胸に、感謝の想いを抱き続けながら南三陸町は一歩ずつ歩み続けていきます。