子ども達の未来を広げたい!/岡田要平さん

県立志津川高等学校に2017年に設立された、学習支援センター「志翔学舎」。県立高校に町が学習塾を設置することは県内でも初めてで、全国からも注目されています。設立から2年が経過した学習支援センターの様子と、責任者である岡田要平さんのセンターへの想いに迫りました。

全国的にも珍しい運営方式!学習支援センター「志翔学舎」

今年度で開設3年目を迎えた学習支援センター「志翔学舎」。2017年6月に志津川高校の構内に設置され、運営費を町が補助し運営しています。町が県立高校に学習塾を設置することは全国的に見ても珍しく、設置にあたり全国から注目されていました。

運営は東京や仙台を中心に子ども支援や教育支援活動をしているNPO法人キッズドア。主に生徒の学力向上を目的としており、自主学習スペースとして運営しています。またセンター内にはタブレットやパソコンを活用した「ICT学習」も取り入れ、様々な教材を使った学習も可能。スタッフは3名駐在しており、勉強のフォローだけではなく、学習方法の相談などにも対応しています。

震災時アメリカにいて、“何もできなかった”

岡田さんは東日本大震災の時はアメリカで日本語講師の仕事をしていました。テレビや新聞では大きく日本の震災が取り上げられ、街頭では即座に募金活動が始まったと当時のことを振り返る岡田さん。しかしテレビで放送されていることが母国で起きていることだとは思うことが出来なかったと話します。

「当時たくさんの声援や日本のために活動している人がいるのに自分は当事者意識を持つことができず、ずっと負い目を感じていた」と話します。

帰国後、学習塾や児童福祉の仕事を経て、志津川高校学習支援センターの求人を見つけ応募。自分も被災地の役に立てるかもしれないという想いと、一番心動かされたのが「情報格差」というキーワードでした。

その理由は「自分の生い立ちと共通した部分があった」と話します。

北海道の小さな町に生まれ、家業が教会という環境だったこともあり、自分の進路の選択肢が見えてなかったと話します。「自身が感じた進路選択する上での情報の制限が、どの地方にもあるように感じる。これまで自分が歩んで来た経験を昔の自分と似た境遇にいる子ども達に少しでも還元したい」という想いで学習支援センタースタッフになりました。

アメリカで日本語講師をしていた当時の写真

海が近くにある生活への憧れ 移住して2年

もともと北海道の内陸部出身で、高校・大学と奈良県で過ごし、海が近くにある生活を送ってこなかったという岡田さん。そのため海がある生活に小さい時から憧れを持っていたとのこと。東北に訪れることもこれまでなかったそうで、南三陸町に来て「入谷の風景は出身の北海道と似ている」と思ったそうです。

南三陸町ではシェアハウスに住んでおり、他の移住者と仲良く暮らしていると話します。休日は部屋にこもって読書することもあれば、共有スペースに行けば誰かしらいるため、談笑したりして過ごしているとのこと。中でも岡田さんが一番気に入っていることは、「サンオーレそではまでコーヒー片手に読書」で、海のある町の暮らしを満喫しているようです。

学習支援センター「志翔学舎」放課後の様子

「生徒の頑張りが、自分の頑張りに」

学習支援センターの利用人数は少しずつ増加しています。自主学習の場として個人の学力向上を目指しているものの、生徒の居場所的な効果もあります。平日は夕方16時から開所していて、部活動が終わってから閉所する21時まで残って勉強していく生徒も多い。そんな生徒の頑張りを見て「自分も頑張らなきゃ!」と日々の活力にしているそうです。

岡田さんは「勉強が苦手だったり、嫌いだったりすると学生生活の大部分が辛い時間になってしまう。勉強も楽しいかも、と思ってもらえるようにサポートしていきたい」と話していました。単に勉強を教えるだけでなく、勉強の楽しさを伝えてくれるのもこの学習支援センターの魅力なのかもしれません。最後に「やっぱり志高に来てよかったと思ってもらえるように、出来ることをやっていきたい」と意気込んでいました。

自然とともに、寄り添う暮らしを。/中島綾子さん

自然や健康に配慮した食べものや飲み物、地の素材を生かした手作りの工芸品、子どもたちがからだを使って自由に遊びまわれる遊び場に、心地よい音楽や趣向を凝らしたワークショップなど丸一日楽しめるイベントが開催される。春から夏に移ろう、彩り豊かな南三陸の里山で、この土地の恵みをギュッと凝縮した「ひころマルシェ」。2018年から同マルシェの実行委員長を務めている中島綾子さんに、開催に向けた想いを聞きました。

「みんな」で作るマルシェ

今や入谷を象徴するイベントのひとつになっているひころマルシェ。そのスタートは2015年秋のこと。入谷地区の民家の縁側を使ったアートイベント「テクテクめぐる 縁側アート in 南三陸」のサイドイベントとして地元の出店者が中心の9店舗から始まった。

第1回ひころマルシェのようす(写真提供:ひころマルシェ実行委員会)

翌年2016年から春と秋の年に2回の開催を続け、今回2019年の初夏で8回目となる。

中島さんが初めてひころマルシェに参加したのは、2017年初夏に開催された第2回目のときだった。「当時働いていた農業法人で作っていたトマトを、マルシェで出店したのがはじまり」と話す中島さん。「とにかく子どもたちの笑い声がたくさんあって、空気がとてもゆっくりと流れている、なんて心地よい空間なんだろう」と初めて訪れたマルシェの印象を振り返る。

ひころの里という場の雰囲気とそこに集う人々によってもたらされる「ピースフル」な雰囲気を感じていたのは中島さんだけではなかった。初夏と秋の年2回開催を継続しながら、回を重ねるごとに、口コミで出店者も参加者も増え続け、今回は過去最多の55ブースが出店予定となっている。

「マルシェを中心に仲間が増えていく感じ。そして、実行委員会のみんなはもちろん、出店者のみなさんや、お客さんまでも、自分でできることでマルシェに関わってくれている、“みんなで作るマルシェ”となっているんです」と中島さんはその様子を話す。

暮らしのなかで実践できる「オーガニック」

ひころマルシェは「おいしい、たのしい、すこやかな暮らしをこの土地で」というミッションのもと、一貫して「オーガニック志向」のマルシェを目指している。

「“オーガニック”というと、どうしても“無農薬野菜”といったイメージが強いのですが、食べものだけじゃなくて、ゴミのことであったり、環境のことであったり、この町が持続可能な町になるような“考え方”を広げていければと思っています。会場では、出店者のみなさんと協力して、プラスチックやビニールを使わず軽包装での商品の受け渡しや、リサイクル袋、リユース食器や間伐材の器を使用するなど、ひころマルシェから出るゴミをゼロにしたいというゴミゼロチャレンジを実施しています」

世界的に問題になっているプラスチックゴミ。しかし、報道や書籍等の情報ではどうしても遠いところの出来事に感じてしまいがちですが、こうした取り組みに自然と参加することで少しでも身近に感じてもらうことが狙いだという。

「ごみの分別や、環境に配慮した野菜、自分が普段使う食器など、小さなことでもよいので、暮らしのなかで実践できることに、マルシェを通じて気付けてもらえたらいいなと思っています」

間伐材食器や使い捨て箸は、マルシェ内でロケットストーブの燃料になる (写真提供:ひころマルシェ実行委員会)

「小商い」にチャレンジできる場に

さらに実行委員会では「大きな事業者だけでなく、小商いを始めたばかりの人もチャレンジできる場にしたい」という想いも強く持っているという。

そのため事務局では出店に必要な許可や手順など出店者の相談役を担い、初めてでも安心して出店できるよう意識したり、マルシェ内ではこどもが自由に遊びまわれる遊び場や、みんなが子どもと遊んでくれるなど、子連れでも安心して出店できるような環境になっている。

「お客さんとしてマルシェに来てくれていた方が出店してみたり。若いお母さんや主婦の出店者も多くなっています。イベント出店は初めて挑戦します、という方もいらっしゃいますね」と中島さんは声を弾ませる。

(写真提供:ひころマルシェ実行委員会)
マルシェ内には子どもが自由に遊べる環境が整っている(写真提供:ひころマルシェ実行委員会)

また、南三陸のみならず、登米市や気仙沼市など近隣市町村、仙台などの都市圏、岩手や青森、東京など県をまたいだ遠方からも出店する人がいることで多様な出店者が集う場に。マルシェをきっかけに出店者同士のつながりが育まれる場ともなっている。

「出店者同士でつながってほかのイベントにも誘ってもらったり、マルシェでの出会いから仙台の店舗に卸先として販路が開拓されたり、『商売の幅が広がった』という声もいただくことがあります。本当にすごく小さくですが、町の経済に少しでも貢献できているのかなと思ってうれしくなりますよね」

(写真提供:ひころマルシェ実行委員会)

この町で気付いた「豊かさ」の意味

2014年2月に東京から南三陸町に移住した中島さん。都会の真ん中でバリバリとキャリアを積み重ねていたが、この町に移住すると、四季折々に変化を見せる海、里、森といった自然、そして力強く生きる人の魅力に取りつかれた。

「何かしたい」と思って町に来たが、今では「町が大好きで住んでいる」と話し、「人も好きだし、自然も好きだし、毎日ワクワクしている」と目を細める。

「東京にいるときは、お金が価値基準の中心だったけど、こっちでは全然そんなことない。都会にはない“豊かさ”を実感しているんです。そしてこの豊かさを守っているのは人で、その人の想いとか暮らしぶりを見ていると本当に尊敬するんです。自分もその一員になれたらいいなって思っています」

日々、季節の移り変わりを体感しながら、自然とともに、自然に寄り添った暮らしを送る。季節のものを食べて、季節の行事に参加して、あまりせかせかせずにゆっくりとした南三陸時間を過ごしたい――。

中島さんの語った夢は、「ひころマルシェ」という一日に、きっと具現化されているのだろう。

(写真提供:ひころマルシェ実行委員会)

ひころマルシェ2019初夏

2019年6月9日(日)
10:00~15:00
ひころの里野外会場 (南三陸町入谷字桜沢422)

イベント詳細はこちら

さらなる復活の兆し“復活潮騒祭り”/埼玉工業大学「出会いのM3ゼミ」ボランティア参加

超大型連休となった今年のゴールデンウィーク。町内ではさまざまなイベントが開催されました。中でも震災前ゴールデンウィーク一番の賑わいを見せた潮騒祭り。震災がありながらも地元有志によって復活を遂げ、今年で6回目を迎えました。復活した潮騒祭りの様子とボランティアに来ていた埼玉工業大学「M3ゼミ」の活動の様子をお届けします。

復活!ゴールデンウィーク恒例「潮騒祭り」

5月に入った途端、快晴の日が続いたGW。そんな中、3日〜5日に開催された「復活潮騒祭り」。震災前から旧志津川町(現南三陸町)と旧北上町(現石巻市)の水産業者などによって開催されて来たこの祭りのメインは、もちろん朝水揚げされたばかりの新鮮な海産物。漁師が自ら育てた自慢の海産物を浜値で提供していました。

しかし震災があり、一時は中断。2014年に南三陸町と石巻市の地元有志によって復活を遂げ、今年で6回を迎えました。会場設営にかかる経費は出店者が出し合い、テントや音響機材などはレンタルや持ち寄ることで行っています。今年は南三陸町・石巻市から12店舗が出店。会場には多くの観光客が訪れ、これからが旬であるホヤの詰め放題や海藻類、ホタテなどが販売され活気立っていました。

今年は不良のため高騰していたわかめも地価より安く販売されていた

埼玉の郷土料理「煮ぼうとう」の販売に挑戦!

海産物を販売するお店が並ぶ中「埼玉工業大学」の看板が!2年前から毎年南三陸町を訪れさまざまなボランティア活動をしている埼玉工業大学「M3ゼミ」の学生たち。ちょうど1年前にも訪れ、植樹祭とお花見会のボランティアを実施しています。「何事も楽しくなければ続かない」をゼミのモットーに掲げ、学生が主体となり、訪れる度に町内で様々なボランティア活動をしています。

今回は復活潮騒祭りで2日間の営業に臨んだ学生たち。埼玉県深谷市の“郷土料理煮ぼうとう”の販売とバスソルト作りに挑戦しました。初日は思うように売れず苦戦。宣伝方法や商品の見せ方を見直し、工夫することで100食ほど仕入れた“煮ぼうとう”も2日間で完売。店の前では試食も提供され、物珍しさに足を止めて試食をして行く人も多くいました。

新1万円札に描かれる渋沢栄一の好物であったと言われる「煮ぼうとう」。「山梨名物ほうとう」とは違い、醤油ベースでカボチャは入れないのが特徴
子ども達に人気だった、バスソルト作り体験

イベント時間に驚き!肌で感じた地域性

南三陸町を訪れるのが4回目という3代目ゼミ長の黒島大雅さん。現3年の黒島さんは1年生のときに初めて南三陸町を訪れました。群馬県出身で、東日本大震災当時もそんなに揺れることなく被害もほとんどなかったため、南三陸町もそこまで大きな被害ではないと思っていたそうです。宿泊先の震災を振り返るビデオを見て、自分が体験した状況よりも深刻だと感じ、考えを改めるきっかけとなりました。「お金を落とすことが復興」と言い、さんさん商店街で人一倍買い物をして帰ったと初めて訪れたときを振り返ります。

そんな黒島さんは一言でもお客さんと言葉を交わすことを心掛けていました。言葉を交わすことで、震災当時のことや復興への想いを聞くことができるためです。「少しずつでも知ることで次の活動に繋げていきたい」と話し、何より今回の活動で「地域性の違いを感じた」と言う黒島さん。「味付けの違いはもちろんだが、イベントの開始時間が早く、お客さんも早くから来るのには驚いた」と話します。他の学生たちも違いを感じており、バスボム作り体験を担当していた学生は、「子ども達がすごく素直で、明るく、雰囲気も何か違う」と話していました。

「教育は教えないこと」実践での学び

「学内でも課外活動をメインとしたゼミは他にない」と話す、M3ゼミ担当教員の松浦宏昭准教授。松浦先生は恩師から「教育は教えないこと」だと教わったそうです。松浦先生もその教えを大切にしており、学生が自ら考え行動することで新たな学びに繋がると考えています。学生主体のこのゼミ活動はそういった松浦先生の考えがあって実現。「大学近郊での地域連携は盛んだが、他地域との繋がりを図っていきたい。別の地域で活動することで、その地域の特性や価値観を学ぶことができる」と話し、今回の活動だけでも学生たちは地域性や価値観の違いを、身を持って感じているようでした。

ゼミ長黒島さんは「戻ってからはこの繋がりを絶やさないようまずは新入生をしっかり集めたい」と話します。継続的な活動により、ますます繋がりが増え、できることも増えているという埼玉工業大学「M3ゼミ」の活動。今年度は冬にもう一度訪れたいと話しており、これからも続く活動と繋がりに期待が高まります。

また復活から6回目を迎えた潮騒祭り。今後どのような賑わいを取り戻し、さらなる発展を遂げるのか注目です。

一本松に代わる入谷の新たなシンボルへ。サクラを植樹

入谷地区のシンボルだった一本松が樹の寿命により今年4月に伐採。新たなシンボルとして、震災後南三陸町でサクラの植樹を行うLOOM NIPPONがサクラを寄贈。5月12日に、一本松があった場所で、地域住民・支援者が集うなか植樹が行われました。

地域のシンボル・入谷一本松

南三陸町の里山・入谷地区で長くシンボルとして存在していた「一本松」。樹齢は300年以上とも言われ、樹高約15m、根本周は約4m、根張りは直径約10mとも言われるほどの大木(南三陸町VIRTUAL MUSEUMより)。

秋の風物詩入谷八幡神社例大祭の際に、神社から下った神輿が休憩する御休み場でもありました。この場所から神社に向かって祝詞を上げ「入谷打囃子」が演じられる、地域のシンボルでした。

一本松のふもとで行われる入谷打囃子の奉納(写真提供:一般社団法人南三陸研修センター)

しかし町内広く被害が及んでいる松くい虫の影響や、樹齢を重ねたことによる寿命などを理由に数年来、樹が衰えていました。さまざまな専門家も交え、樹の延命措置を図ろうともされましたが、倒木の恐れがあることなどから4月に根本から伐採。

伐採される一本松(写真提供:一般社団法人南三陸研修センター)

「平成の終わりとともに、入谷の大きな区切りのできごと」と地元住民もせきりょう感を漂わせていました。

新たなシンボルへ桜を植樹

それに代わる新たな樹木として、約4mのソメイヨシノが2本、かつて一本松があった土地に植えられました。LOOM NIPPONの支援者や町内の関係者が多く詰めかける中、「入谷地区の新たなシンボルとして末永く成長し続けてほしい」との願いを込めながら参加者が順番に土をかけていきました。

早ければ来年にも花を咲かせるという桜。秋の例大祭のときのみならず、春にもこのシンボルのふもとで町民が顔を合わせ、憩いの場となり、「令和」そして次の時代でのシンボルとして地域内外から愛されることが期待されています。

植樹前に行われた神事

サクラの樹を寄贈したのは、震災後、南三陸町内でサクラの植樹活動を継続して実施している一般社団法人LOOM NIPPON。

「Love Of Our Motherland」の頭文字をとった「LOOM」。郷土を愛する心をあわせ、大きな被害を受けた被災地を支援したいという想いが込められているといいます。

2012年から始まった「SAKURA PROJECT」も8年目。これまでに約1200本の桜を町内に植樹してきました。そうした活動が評価され、LOOM NIPPON代表の加賀美由加里さんは、「日本さくらの会平成31年度全国さくら功労者」にも選定。

「南三陸の桜が、桜名所100選に選ばれ、美しい南三陸に少しでも多くの観光客が訪れてほしい」と今後の希望を話す加賀美さん。LOOM NIPPONでは、震災から20年となる2031年までに3000本の桜の植樹を目標に活動を続けていく計画です。

植樹を行うLOOM NIPPON代表の加賀美由加里さん(写真右)

植樹祭を記念してコンサート開催

植樹に先だって、南三陸町ベイサイドアリーナを会場に、「桜植樹祭記念コンサート」が開催されました。

記念コンサートには朝の情報番組「ZIP」の2016青空キャラバン・パーソナリティのセレイナ・アンさんをはじめとして、南三陸町のコーラスグループ「コール潮騒」の合唱、「大森創作太鼓」、「入谷婦人会」、「友美会」によるトコヤッサイが披露されるなど会場を盛り上げました。

「第一回目の植樹祭を戸倉中学校で開催してから8年目を迎えられたことを、関係者のみなさまのご協力に御礼申し上げたい」と述べるのは佐藤仁町長。予想よりもだいぶ早く植樹した桜のもとでお花見をできるとは思ってもいなかったと、昨年開催された植樹祭の花見のことを振り返り、目を細めていました。さらに、「現在工事を進めている震災復興祈念公園でも桜を植えて公園を整備していきたい」と今後の展望を話しました。

成木になるまで30年と言われるサクラ。10年、20年と、これから成長をしていく南三陸の町と共に、サクラも大地に深く根を張り、大きく、太く育っていくことでしょう。

2019年05月31日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

写真をクリックまたはタップすると大きくなります

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

パノラマ

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

パノラマ

パノラマ

パノラマ

パノラマ

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

パノラマ

他の定点観測を見る

静岡と南三陸、こいのぼりで友情育む

震災後、被災したあさひ幼稚園を応援しようと始まった静岡県富士宮市の認定こども園とのこいのぼりの共同制作。プロジェクト開始から7年。静岡と南三陸の子どもたちの想いを乗せたこいのぼりが、今年も春風爽やかな空を泳いでいました。

静岡からやってきた5色のこいのぼり

五月晴れの澄み渡る青空のもと、南三陸町志津川のあさひ幼稚園舎に大きなこいのぼりが掲げられました。このこいのぼりは、静岡県富士宮市の認定こども園「ふじキンダー学園」との交流事業の一環で作られ今年で7年目。今年も4月に、こいのぼりの「ウロコ」になる部分に名前や自分の似顔絵をあさひ幼稚園の園児が描き、キンダー学園に送付。あさひ幼稚園29名の「ウロコ」にキンダー学園の年長の園児82名の「ウロコ」も加え、5色のこいのぼりに縫い付けたものを、4月中旬から5月10日まで富士山の見えるキンダー学園園舎に掲揚していました。

5月10日にキンダー学園で「こいのぼり出発式」が行われ、5匹のこいのぼりが南三陸にやってきました。13日にあさひ幼稚園でメッセージ交換と5匹のこいのぼりのお披露目が行われたあと、園児たちは自らの手で園庭のポールに掲げました。さわやかな春風のもと悠々と空を泳ぐこいのぼりに大喜び。自分の描いた似顔絵を探し歓声を上げていました。

5月10日にふじキンダー学園で開催された「こいのぼり出発式」のようす(写真提供:NPO法人ヴィレッジネーション)
あさひ幼稚園でお披露目された5匹のこいのぼり
似顔絵や名前、手形が描かれたウロコ
自分の似顔絵を探す園児たち

こいのぼりから始まる継続的な交流

この交流を企画しているのは、「ふじキンダー学園」の卒業生でNPO法人ヴィレッジネーション代表理事の村松広貴さん。

もともと視覚障害者の支援を行っていた村松さんは、東日本大震災後に南三陸町でも支援活動を実施。継続して南三陸を訪れるなかであさひ幼稚園に出会い、地元の幼稚園との交流のサポートを開始しました。

「東日本大震災によって園舎を流出し、仮園舎を転々とするあさひ幼稚園児を応援しよう」という想いでスタートしたという村松さん。2013年に、仮園舎でこいのぼりを掲揚するスペースもなかった手狭なあさひ幼稚園から、名前や自分の似顔絵を描いたウロコを送ってもらいキンダー学園でウロコを縫い付け掲揚したのが交流の始まり。以来、こいのぼりを通じた交流は継続され、2015年には移動した仮園舎で仮のポールで初掲揚、2017年には新園舎で初めての掲揚を迎えるなど、あさひ幼稚園の復興とともに歩んできました。

これまでの7年間で700名以上の子どもたちが交流。園児たちは、こいのぼり交流から始まり、両園の園児たちは七夕短冊での交流や、運動会での応援幕の交換、卒園メッセージ交換など、一年を通じた交流を行い、友情を育んでいきますが、その効果は子どもたちのみならず保護者にも及んでいるという。

「東北出身の親御さんが帰省ついでに南三陸町を訪れたり、こちらの想定を超えるようなつながりが生まれています。さらにキンダー学園で行う避難訓練なども、交流をはじめてからより真剣にやるようになったなどさまざまな波及効果が生まれているようです」と村松さんは目を細めます。

NPO法人ヴィレッジネーション 代表理事 村松広貴さん

子どものエネルギーの象徴

「最初に交流した子どもは小学6年生にまでなっている。遠くのお友達との交流を思い出して、なにかあったときに、助け合おうねと子どもたちが成長してくれていることを期待したい」と話すのはキンダー学園顧問の鳴海淑子さん。

認定こども園「ふじキンダー学園」顧問鳴海淑子さん

「子どもの笑顔を見たら大人も頑張れる。だからこそ子どものエネルギーを大事にしたい。そんな子どもの夢や成長の象徴がこいのぼりだと思う。今日高々と空を泳いだ3匹のこいのぼりと富士宮に持ち帰って掲揚する2匹のこいのぼり、子どもたちがそのこいのぼりを見ることで遠くにいても空はつながっているんだということを感じてもらいたい」と話します。

“被災地応援”として始まった取り組みは、単なるモノのやり取りを超え、大きな絆を育んでいます。

南三陸町出身の版画家、谷村明門さんが東京で個展を開催。

2019年5月18日~6月1日開催の「谷村明門展」に行ってきました。谷村明門さんは南三陸町出身の版画家。ふるさとである南三陸の心象風景をモチーフとした作品を拝見し、南三陸への想いを伺いました。

心象風景を表現

東京・国立市の閑静な住宅街にある画廊「荘」。谷村さんはここで20年以上個展を開いています。訪れると、オーナーと一緒に笑顔で迎えてくれました。どんな版画作品が並んでいるのでしょうか…。

自然光があふれる画廊「荘」。1982年にオープンし、年に8~9回、企画展を開催している

目に飛び込んで来たのはモノクロの抽象的な作品たち。想像していたものとは違い、少し驚きましたが、なんだか訴えかけてくるものがあります。眺めているとその世界観に引き込まれるような…。

作品のほとんどは植物などの自然を題材としたもの。一見おどろおどろしいのですが、よくよく鑑賞すると、決して不気味ではなく、不思議な質量・空気感が漂っています。

ウォータレスリトグラフやドローイングなど、約30点が展示されていた

谷村さんに、創作のインスピレーションについて聞いてみました。「主にモチーフとするのは自然、すなわち生命体ですね。私の創作は、テーマありきではなく、湧いてきた心象風景を表現するというものです。カラーの作品も手がけないわけではありませんが、しっくりくるのはモノクロですね」と谷村さんは話します。

創作の原点にあるのは、ふるさと・南三陸の海や森

谷村さんは旧志津川町で生まれ、10歳まで住んでいました。その後 石巻に引っ越し、大学卒業後からはずっと東京です。「南三陸で過ごした時間は長くなかったのですが、やはり故郷といえば南三陸です。私の作品の原点には、幼い頃に見ていた南三陸の海や森の風景がありますね」と谷村さん。海や森などの自然が身近にあった環境で生まれ育ったことが、谷村さんの創作に大いに影響を及ぼしているようです。

谷村さんは福島大学教育学部で美術を学んだあと、創形美術学校研究科を修了。日本版画協会、プリントザウルス国際版画交流協会の会員としても活動している

「子どもの頃の私にとって、南三陸の海は青くてきれいなイメージではありませんでした。嵐の前の海など、どんよりしたものなんです。森にしても、たとえば入谷の森は、薄暗くて気味が悪い存在でした」と谷村さんは振り返ります。その心象風景を表現した谷村さんの作品からは、大いなる自然に対する畏怖・畏敬の念が伝わってきます。

「イリヤの林」というタイトルの作品。子どもの頃の入谷の印象が忘れられないという
ギャラリーには南三陸にまつわる書籍・資料なども置いてあった。「来場される方が少しでも南三陸に興味を持ってくれたらうれしいです」と谷村さん
谷村さんは、平版にドローイングしたものをそのまま印刷する「ウォーターレスリトグラフ」という技法を用いる。個展では、実際に使用したアルミ版、インクローラー、水溶性色鉛筆なども展示

別の仕事をしながら版画家として活動する谷村さん。「これからもコツコツと作品を作り、個展のような場で発表することで自分の世界観を伝えていきたい。そして、それに共感してくださる方が少しずつでも増えるとうれしいです」と話します。

「いつか南三陸でも作品を披露したいですね。今の現実の風景とは大きく違うと思いますが、自分の中の南三陸を見てもらいたいと思っています」

南三陸での谷村さんの個展、ぜひ実現してほしいですね!

入谷の森をモチーフにした作品の前で

入谷の救世主・山内甚之丞に想いを馳せる。「昇仙の杜 弥生公園」の春

「令和(れいわ)」と元号が変わろうとしている4月後半、南三陸町内いたるところで桜が満開を迎えました。里山の入谷地区にも地域住民の憩いの場はたくさんあります。国道から少し奥まっているので、市街地のような賑わいはないが、平成最後のお花見を静かに楽しんでみました。

昇仙の杜 弥生公園

三陸自動車道が開通した影響もあるのか、国道398号線を走る車両がめっきり減りました。時間が許せば古くからの主要道をのんびり景色や風情を楽しみながらドライブするのも悪くないと思います。

志津川ICから北へおよそ2km、「弥生公園」という看板を発見。小さな商店の向こう側に建っており、見落としやすいので要注意。自動販売機脇の路地を入っていくと…

正式には「昇仙の杜 弥生公園」と案内されています。入谷養蚕の始祖・山内道慶(みちよし)通称甚之丞の功績をたたえ整備された公園です。

入谷地区は、かつて「入谷千軒」と言われるほど栄えた「金の産地」でした。ゴールドラッシュに沸いた山あいの里は金が採掘し尽された途端に廃れるのは悲しいかな自明の事実。翻弄された、先祖代々からの暮らしを受け継ぐ農民らは、東北地方特有の冷害や飢饉に苦しめられながらも必死に食いつないだとも言われています。

300年の古(いにしえ)を想う

時代は、享保(きょうほう・約300年前の江戸中期、将軍は8代徳川吉宗)。

戦国武将の血を引く俊才入谷出身の山内甚之丞は、若くして伊達(現福島県伊達郡川俣)に赴き、養蚕・製糸の技を習得し、仙台藩全域に伝授し農家のなりわいを創りました。ここ入谷地域でも多くの農家が稲作の傍ら、桑の栽培や蚕の飼育に励み良質の繭を生産するようになり、やがて世界一の生糸『金華山』が誕生するまでになります。

貧困社会の救世主・山内甚之丞の功績をたたえた記念碑(平成3年建立)が公園の中腹にあります

地域の殖産興業に尽力

甚之丞は、地域救荒済民を行い、道路を造り寺社を改築し、地域住民から厚く敬われたと伝えられますが、私財を投げうってまで地域の発展に尽力寄与した功績は計り知れません。

さらに、甚之丞の子・甚兵衛道恒も養蚕業の普及に努め、天明3年(1783年)父の志を明らかにする目的で蚕業指導書『民家養蚕記』を著しました。父子2代にわたる功績により藩士に取り立てられたといいます。そのふたりが眠る山内家の墓所は、南三陸町(当時志津川町)史跡公園『昇仙の杜』として整備されました。

公園の遊歩道には「昇仙橋」と名付けられた小さな橋があります。

「この橋は、山内甚之丞が数々の功績を認められ仙台藩より名字帯刀を許されて、仙台に行くこととなった時渡った橋と言い伝えられています」と記されています。

補足:「雲南神社(うんなんさま)」

「弥生公園」の案内看板の反対側、「ひころの里」手前に「雲南神社」があり、地域の方からは「うんなんさま」と呼ばれ親しまれています。この神社は、谷地雲南観世音と言われ観音様を祀っていましたが、甚之丞没後の寛政2年(1790年) 、「養蚕神様」として合祀したとも伝えられているものです。(諸説あり)

参考(山内甚之丞の年表)

甚之丞出生 元禄8年(1695年)5月
甚之丞活躍 1716年・享保の改革、1732年・享保の大飢饉
甚兵衛出生 享保5年(1720年)
甚之丞逝去 安永7年(1778年)3月 《八十四歳》
甚兵衛出版 天明3年(1783年)  民家養桑記
甚之丞合祀   寛政2年(1790年)
甚兵衛逝去 寛政10年(1798年)3月 《七十九歳》

*旭製糸工場生産の生糸「金華山」がパリ万博でグランプリ受賞 明治33年(1900年)