「令和(れいわ)」と元号が変わろうとしている4月後半、南三陸町内いたるところで桜が満開を迎えました。里山の入谷地区にも地域住民の憩いの場はたくさんあります。国道から少し奥まっているので、市街地のような賑わいはないが、平成最後のお花見を静かに楽しんでみました。
昇仙の杜 弥生公園
三陸自動車道が開通した影響もあるのか、国道398号線を走る車両がめっきり減りました。時間が許せば古くからの主要道をのんびり景色や風情を楽しみながらドライブするのも悪くないと思います。
志津川ICから北へおよそ2km、「弥生公園」という看板を発見。小さな商店の向こう側に建っており、見落としやすいので要注意。自動販売機脇の路地を入っていくと…
正式には「昇仙の杜 弥生公園」と案内されています。入谷養蚕の始祖・山内道慶(みちよし)通称甚之丞の功績をたたえ整備された公園です。
入谷地区は、かつて「入谷千軒」と言われるほど栄えた「金の産地」でした。ゴールドラッシュに沸いた山あいの里は金が採掘し尽された途端に廃れるのは悲しいかな自明の事実。翻弄された、先祖代々からの暮らしを受け継ぐ農民らは、東北地方特有の冷害や飢饉に苦しめられながらも必死に食いつないだとも言われています。
300年の古(いにしえ)を想う
時代は、享保(きょうほう・約300年前の江戸中期、将軍は8代徳川吉宗)。
戦国武将の血を引く俊才入谷出身の山内甚之丞は、若くして伊達(現福島県伊達郡川俣)に赴き、養蚕・製糸の技を習得し、仙台藩全域に伝授し農家のなりわいを創りました。ここ入谷地域でも多くの農家が稲作の傍ら、桑の栽培や蚕の飼育に励み良質の繭を生産するようになり、やがて世界一の生糸『金華山』が誕生するまでになります。
地域の殖産興業に尽力
甚之丞は、地域救荒済民を行い、道路を造り寺社を改築し、地域住民から厚く敬われたと伝えられますが、私財を投げうってまで地域の発展に尽力寄与した功績は計り知れません。
さらに、甚之丞の子・甚兵衛道恒も養蚕業の普及に努め、天明3年(1783年)父の志を明らかにする目的で蚕業指導書『民家養蚕記』を著しました。父子2代にわたる功績により藩士に取り立てられたといいます。そのふたりが眠る山内家の墓所は、南三陸町(当時志津川町)史跡公園『昇仙の杜』として整備されました。
公園の遊歩道には「昇仙橋」と名付けられた小さな橋があります。
「この橋は、山内甚之丞が数々の功績を認められ仙台藩より名字帯刀を許されて、仙台に行くこととなった時渡った橋と言い伝えられています」と記されています。
補足:「雲南神社(うんなんさま)」
「弥生公園」の案内看板の反対側、「ひころの里」手前に「雲南神社」があり、地域の方からは「うんなんさま」と呼ばれ親しまれています。この神社は、谷地雲南観世音と言われ観音様を祀っていましたが、甚之丞没後の寛政2年(1790年) 、「養蚕神様」として合祀したとも伝えられているものです。(諸説あり)
参考(山内甚之丞の年表)
甚之丞出生 元禄8年(1695年)5月
甚之丞活躍 1716年・享保の改革、1732年・享保の大飢饉
甚兵衛出生 享保5年(1720年)
甚之丞逝去 安永7年(1778年)3月 《八十四歳》
甚兵衛出版 天明3年(1783年) 民家養桑記
甚之丞合祀 寛政2年(1790年)
甚兵衛逝去 寛政10年(1798年)3月 《七十九歳》
*旭製糸工場生産の生糸「金華山」がパリ万博でグランプリ受賞 明治33年(1900年)