お帰りなさい!平成の森「多目的運動場」

9月に歌津地区の平成の森に全面芝生のグラウンドがオープンしました!この場所は東日本大震災後に建てられていた仮設住宅の跡地。スポーツの秋にぴったりということで実際に遊んできた様子をご紹介します!

懐かしい風景の一つ再び

平成の森の運動場といえば、震災後に仮設住宅が立ち並んでいた様子が浮かびますが、震災前はサッカーの合宿誘致など、全国各地から多種多様なクラブが利用するグラウンドでした。

仮設住宅もその役目を終え、地面の上に敷いたアスファルトを撤去する大掛かりな工事が終わり、今年の9月1日に新生「多目的運動場」の利用が始まりました。

平成の森に登る坂道の左側から入れます

町内一の広さ?その面積なんと!16,000㎡

というわけで早速運動場を予約し、去る10月25日に友人たちを募って実際に遊んでみました!

町内以外にも気仙沼や一関からも!皆さんありがとうございました。

今回はキックベースとアルティメットの2種類で遊んでみようとなったわけですが、この運動場の広さはなんと驚異の160m×100m!サッカーも2面、アルティメットだとさらにコートが張れます!この芝生、数字で見るのと実際に現地で見るのとは訳が違います。

本当に広すぎて今回使えなかったスペースの方が広いくらいです。

ご覧通り、4分の1も使えませんでした。とっても広いです!
キックベースの様子。外野が無限に広いので走り回りました。

広いということはなんでもできるっていうこと

気になる使用感ですが、とにかく自由ですね。

どれだけボールを蹴っても、ディスクを投げても芝生に落ちる。

子どもも一緒にのびのび遊べる場所が町内に増えたのは嬉しいことですね。町内だと主にスポーツ少年団の子ども達が使っているとのことでした。

使い方についてよくある質問をまとめました

晴れてオープンしたわけですがこういった施設ができると必ず聞かれるのが「どうやったら使えるの?」「予約必要なの?」などの問い合わせ。簡単にですがご紹介しながらお答えします!

Q1:使うには予約が必要?

A:事前に予約が必要になります!

今回使うにあたって一番びっくりしたポイントがこの「予約」の受付方法でした。
なんと!平成の森のホームページからオンラインで予約することが出来ます
しかも、空いている日程(午前か午後か)が分かるようにカレンダーも表示されているので、事前に確認すれば余計な手間を省くことが出来ます。

ただし、深夜などはホームページのメンテナンスのためカレンダーの閲覧が出来なくなるので、予約受付時間の午前10時から午後5時までの間に確認しましょう!

  • 利用したい日時の午前か午後かを選んでクリック
  • その後のやり取りは受付フォームとメールで行うことが出来ます。
    利用時間の詳細などをメールでお伝えしましょう。

平成の森公式サイトはこちら

Q2:運動場で貸し出してくれるものはあるの?

A:サッカーゴールの貸し出しをしています!

「存分にサッカーをしてください!」と言わんばかりのフィールドなので、もちろんゴールも使えます。サイズが異なるゴールが運動場の脇にあるので、予約や当日の受付の際に係りの方に申し出ましょう。

Q3:芝生でスパイクは履いていいの?

A:スパイクの使用も可です!

芝生ということでクッション性は高いのですが、一般的なランニングシューズなどは滑りやすいです。サッカーの利用も考慮されているので、スパイクの使用も大丈夫とのことでした!
スパイクを使用する際は、一緒にスポーツをする周りの人や道路などにけがや傷をつけないよう細心の注意を!

「できる」が増えるまち

こうした場所が町にひとつ増えるということは、町民のできることがいくつも叶うということ。

スポーツを続けてきた人や、これから新しい趣味や繋がりを求める人たちにたくさん使ってもらうことで、この町で「できる」ことの幅を広げていきましょう!

”竹皮”を使用した8種の「もみじ弁当」を開発!紅葉色づく秋の入谷を満喫

11月13日~20日までの期間限定で販売している南三陸里山ランチ「もみじ弁当」。南三陸町入谷地区の飲食店・宿泊施設が集い8種類のオリジナル弁当が完成。「地元食材」「竹皮包装」「楽しむ!」という3つのルールを定め、各店舗想いのこもった手作り弁当を期間限定で販売しています。

コロナによる大打撃!地域で乗り越えよう里山ランチの開発へ

ちょうど紅葉の見ごろを迎えている南三陸町入谷地区。例年入谷地区では秋になると、ひころの里秋まつりやマルシェなど秋のイベントが行われていました。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響により、ほとんどのイベントが中止。入谷地区で営業している飲食店や宿泊施設も、大きな打撃を受けていました。

そのような状況を受け、入谷地区の交流人口拡大を目指し2016年から活動している「南三陸町里山交流促進協議会」は、今年7月に大きな打撃を受けている飲食店、宿泊施設など10店舗が加盟する「食のワーキンググループ」を設立。地域の食材を使用しつつ、外で楽しむことが出来るような「里山ランチ(弁当)」の開発を進めてきました。

松笠屋敷や入谷地区で栄えた養蚕の資料館がある歴史や文化を感じることが出来る「ひころの里」。現在、松笠屋敷は茅葺屋根の工事中。

自然に還る「竹皮」を利用!3つのルールとは?

里山ランチの開発アドバイザーとして、関わってきたフードクリエイターの佐藤千夏さん。「試作で持ち寄った弁当の食べ比べをした時、非の打ちどころがないほど弁当の完成度が高かった」と話す佐藤さん。食材へのこだわりや添加物を使わない弁当に驚いたと言います。

しかし、綺麗な里山風景でゴミが出るのは、ちょっともったいないと感じた佐藤さん。包装は、自然に還る「竹皮」を使用することを提案したところ、即採用。「竹皮」使用することを条件に進んでいきました。佐藤さんは「ゴミや環境問題に関心が高い地域だと感じた」と話します。

【里山ランチ3箇条】
①南三陸産の食材を使うこと
②包装は竹皮を使用すること
③楽しみながら、弁当を作ること

柴山のごはん会 フードクリエイター 佐藤千夏さん。 11月12日に行われた「里山ランチ」お披露目会の様子。

期間限定で販売スタート!8種のもみじ弁当

今回、11月13日(金)~20日(金)の期間で販売が始まったのは8種類の「もみじ弁当」。

期間中は、紅葉の見ごろを迎えている「ひころの里」で、各店舗で注文した弁当を受け取ることが可能です。また、ひころの里では組み立て式のテーブル・椅子セットの貸し出しもあります。

※弁当の注文など、詳しくは各店舗にお問い合わせ下さい。

 

ひころの里 ばっかり茶屋「ばっかりおにぎり」

地元で獲れた食材に、自家製梅干しを使用した弁当
TEL:0226-46-4310/申込は3日前まで

校舎の宿 さんさん館「秋のもみじガーリー弁当」

動物性の食材を一切使わない、地元野菜のオールベジタブル弁当
TEL:0226-46-5633/申込は3日前まで、5個以上の注文から

ぬくもり工房「三色おにぎり弁当」

体験受入れでも人気だった三色おにぎりに、手作りこんにゃくの煮物がついた弁当
TEL:090-8787-1567/申込は3日前まで、5個以上の注文から

そばcafe風庵「そばガレット弁当」

自家製無農薬野菜に自然卵を使用したガレット弁当
TEL:0226-46-4636/申込は3日前まで

パン・菓子工房 oui「季節のベーグルサンド」

志津川産銀鮭のスモークと入谷産かぼちゃの2種類が味わえるベーグルサンド弁当
TEL:090-6065-1517/申込は5日前まで、2個以上から

農漁家レストラン 松野や「海と山の秋の味くらべ」

海の旬と山の旬を良いとこどりした農漁家弁当
TEL:0226-46-4986/申込は3日前まで、5個以上から

ビーンズくらぶ「まめ菜弁当~秋バージョン∼」

秋の食材をふんだんに使用した弁当
TEL:0226-46-4310/申込は5日前まで、5個以上から

南三陸まなびの里 いりやど「秋彩弁当」

旬の幸を活かした秋彩弁当
TEL:0226-25-9501/申込は4日前まで、5個以上から

“地域のあたたかい想いを感じてもらいたい”

南三陸町里山交流促進協議会会長の阿部國博さんは「いろんな苦労はあったが、みんな快く協力してくれたことで実現することが出来た。各店舗、特徴を活かしつつ、それぞれ想いのこもった手作り弁当です。寒くなる季節ですが、温かい想いを感じてもらいたい」と話していました。

今後は教育旅行など、団体を対象とした弁当販売の促進も目指しています。また春には、春告げ野菜を活用した「春告げ弁当」も予定。今後の展開に期待がかかります。今回の「もみじ弁当」は期間限定での提供となります。

インフォメーション

■弁当販売期間
11月13日(金)~20日(金)
11:00~13:00
※要予約、最低注文数は店舗により異なる。

■注文先
各店舗(チラシ参照)

■受取場所
ひころの里(南三陸町入谷字桜沢442)

チリ地震津波から60年。3.11のチリの被災地を訪ねて(後)【寄稿】

「チリ地震津波」から今年で60年。しかし、逆に3.11の津波もチリに押し寄せていたことを知る人は意外に少ないのでは・・・。後編では、チリの被災地の人々の証言をお届けします。前編はこちら

初めてのチリの被災地を歩く

前編では、2015年9月にチリの被災地に初めてたどり着くまでの経緯と、そこで目にした津波の痕跡を紹介しました。後編では、現地の人々の証言や、この記事のライターが滞在中に感じたことを書いていきたいと思います。

チリ地震津波から60年。3.11のチリの被災地を訪ねて(前)【寄稿】

プエルトビエホの入り口を示す看板を横切ると、すぐ右手には開けた砂浜があり、その先には太平洋が広がっていました。その砂浜の上には、軽量の木材やトタンでつくられた簡素な家屋が数百軒もひしめき合っていました(写真1)。

写真1:プエルトビエホの家々。日本とは逆に太平洋が西側にある。

決して豊かな人々が住んでいるようには見えませんでした。 しかし、この記事のライターが初めてここを訪れたとき驚かされたのは、別のことでした。

これだけの家の数に対してほとんど人がいなかったのです。「ゴーストタウン」かと思ったほどでした。

車を停めてしばらく周辺を歩いていると、その理由がわかりました。このプエルトビエホの家々は、チリ人にとっての夏限定の別荘だったのです。個々人がここでバケーションを楽しむためのもののようです。南半球にあるチリの夏は、日本とは逆で12月から2月頃。この時は9月だったので、完全にオフシーズンでした。

しかし、一年を通じて住民が全くいないわけではありません。100人程度が暮らしていて、そのほとんどは漁師です。他には日用品店も開いていました。

初めての訪問では短時間ながらも、そうした住民からプエルトビエホで、あの時、何が起こったのかを聞くことができました。

プエルトビエホでは、現地時間の3月11日の夕方6時頃、住民の避難と漁船の保護のために、チリの海軍と警察がクレーンやトラックを引き連れてやってきました。

そして、3月12日深夜3時過ぎ、最大4mの津波が襲来しました。(地震発生から約24時間後で、日本では福島第一原発が爆発したのと同じぐらいだと言えます)

「この地域唯一の発電施設が波にのまれた瞬間、真っ暗な夜へと変わった」、「飛行機同士が空中で衝突したような大きな音だった」など、人々は高台からみた津波の様子について語ってくれました。

ここでは、100軒以上の家が流失したといいます。しかし幸いにして犠牲者はいませんでした。津波が襲来した3月の中旬は、夏が終わり人々は既にプエルトビエホから引き上げていたからです。もし、津波の襲来が一月早い2月だったら…。きっと人的な被害も出ていたことでしょう。

1回目の訪問では、確かにここに1960年のチリ地震津波のように、日本からの津波が届いていたことを知ることができました。しかし、たった半日の、通訳を伴った見学では学問的な調査とは言えません。

このときのもう一つの目的は、次にひとりでプエルトビエホを訪れるために、数日間滞在できる受け入れ先を見つけることでした。しかしここには個々人の別荘はあっても、観光客用の宿泊施設はありませんでした。自ずと交渉の相手は、地元住民になります。

そして幸運にもこの日、津波の体験を話してくれた小柄で恰幅のよい初老の女性が協力してくれることになりました。ミリアムという名前で、一人暮らしをしながら漁師向けに日用品店を営んでいます。宿泊料を払えば、店のすぐ近くにある小屋を利用させてくれる、といいます(写真2)。

写真2:プエルトビエホでの宿泊先。

こうして初めてのチリの被災地での調査の下見は終わりました。

「ニッポン地震津波」の被災体験

2016年2月。最初の下見から約5ヶ月後に、日本から飛行機や夜行バスを乗り継ぎ、また3日かけてプエルトビエホを再訪すると、そこには前回と全く異なる光景が広がっていました(写真3)。

写真3:津波の危険区域を示す標識と夏休みを楽しむ人々

実際に目にするまでは半信半疑でしたが、本当に老若男女を問わず大勢の人々がいたのです。海での遊泳、サーフィンやジェットスキー、砂浜でのボール遊び、犬を連れての散歩などなど、皆一様に夏らしい休暇の過ごし方をしていました。

ミリアムのお店以外の日用品店やレストラン(写真4)も、夏季限定で何軒か営業中でした。公共の交通機関はないと思っていましたが、臨時の直行バスもアタカマ州都のコピアポから1日に数本運行していました。

写真4:現地のレストランで注文したメニュー。 メインは魚のフライ。手前に写っているぺブレという調味料がライターの大のお気に入り。

このときの滞在期間は9日間でした。1960年のバルディビア地震による遠地津波が「チリ地震津波」であるならば、2011年の東北地方太平洋沖地震による遠地津波は、チリの人々にとってさしずめ「ニッポン地震津波」。その被災地での本格的な聞き取り調査が始まりました。

例えば、宿を提供してくれたミリアムは、2011年3月11日は夜9時頃に、警察官や軍人に促され、他の住民とともに車で高台まで避難したそうです。そのときの持ち物は、財布、水、 持病の薬、懐中電灯だけでした。そのまま一晩を外で過ごし、翌朝、瓦礫と海水で覆われたプエルトビエホを目の当たりにしたといいます。家の中までは浸水を免れましたが、一段低いところにある家畜小屋は津波で流され、ニワトリとガチョウ、そしてペットの犬を失ったそうです(写真5)。

写真5:実際に被害のあった場所で話を聞く。

また、前年9月に訪問した時に話を聞かせてくれた地元漁師とも再会することができました。

そのひとりペドロは、自宅で新鮮な魚とラム酒を振舞ってくれました。上背こそありませんが屈強でよく日に焼けたこの男性は、17歳の頃から37年間プエルトビエホで漁をしています。ここでは、アナゴ、シタビラメ、マハタなどが獲れるそうです(写真5)。

写真5:プエルトビエホの漁船。

それだけ長く住んでもペドロ自身、津波を体験したのは2011年が初めてとのことでした。ミリアム同様、高台へと避難したのは午後9時頃で、砂糖、水、薬、魚の缶詰を持ち、コートを羽織って愛犬と一緒に家を出ました。第一波がやってきたのが午前3時頃で、最後の大波は午前7時頃だったといいます。

 

そして、二度目の訪問時の調査での大きな収穫は、ミリアムやペドロのような地元住民だけでなく、夏場の滞在者にもインタビューができたことです。実際、この津波で被害を受けたのは、ほとんどが内陸部に暮らす別荘の所有者だったそうです。翌朝には、外部から大勢の人々が現地に駆けつけ、被災状況を高台から眺めていたといいます。

ここで紹介したいのはカスティージョ家の被災体験です。彼らは普段、州都のコピアポに住み、プエルトビエホでは夏季限定で商店を開いています。ミリアムの店より広く、品揃えが豊富でした。基本的な食料、飲料だけでなく、浮き輪やゴーグルなどのレジャーグッズや酒類も並んでいました。

6人家族で、店主の夫婦以外に、4人の娘さんが交代で店番をしています。 2011年の日本からの津波で、彼らの別荘を兼ねた2階建てのこの商店は、大きな被害を受けました。大量の海水とともに手前の家の瓦礫が突っ込み、半壊状態となったそうです。商いの場だった1階部分の損傷は激しく、そのことは彼らを大きく落胆させました。 店の再建には、300万チリペソ (約50万円) の費用がかかり、8ヶ月を要したといいます(写真6)。

写真6:カスティージョ家の人々と再建した商店。

プエルトビエホの復興

ここまで、日本社会が東日本大震災直後の大混乱の最中にあった頃、地球の裏側のチリの沿岸部では何が起こっていたのかを現地の人々の実体験からみてきました。

このプエルトビエホで復興に要した時間は1〜2年だったそうです。津波の瓦礫撤去にあたったのは、プエルトビエホを行政上の管理下に置くカルデラ市でした。しかし、カスティージョさんたちのような人々は、家屋の再建のための公的な援助を受けられなかったといいます。それでも、現在では津波が流れ込んだ場所にまた新しい簡素な家が建てられています。

上記のような人々の語りを集めながらプエルトビエホを歩き回っていると、徐々にこの地域の性質と被災 の特徴が浮かび上がってきました(写真7)。

写真7:ライターが滞在中に作成したフィールドノート。

そのキーワードが、 “toma”(トマ)です。チリにおいて toma は、場所の種類を指す俗語で、「占拠」を意味します。砂浜のような開けた誰のものでもない土地(強いて言えば、国の土地)に、無許可で家を建てることで toma は出来上がります。

このtomaという言葉を滞在中に何度も耳にしたのですが、こうした場所が、チリの沿岸部には複数あるといいます。ある滞在者いわく、toma は「庶民のリゾート」 だそうです(写真8)。

写真8:プエルトビエホの浜辺に建てられた家々。

実際、行政サイドも、これを違法行為として取り締まるような積極的な措置は行っていないようです。放っておいても大きな害はなく、この家々を一掃するには大きなコスト(税金)がかかりそうです。休暇を toma で楽しむ人々の消費が、経済を活性化させているという一面もあるのでしょう。

しかし、プエルトビエホのようなtomaは、自然災害に対しては脆弱だといえます。法律上、家を建ててはいけないことになっている場所に家を建てているのですから、被災した個々人に対する補償はありません。

当時のアタカマ州知事も、2011年3月12日、メディア取材に対して、犠牲者がいなかったことを述べた上で、「復興というよりもその地域の違法性を問わなければならない」、とコメントしています(Cooperativa. Cl 2011)。

以上のことから、プエルトビエホの「復興」(行政の視点からは、この言葉は適当ではないかもしれません)は、被災者による自力再建が基本となりました。

補足ですが、そんなプエルトビエホでも、漁師たちは正式な居住許可を得ています。砂浜の外の少し高い位置にある彼らの住居周辺には、行政の力で防災無線や避難指示標識が設置されています(写真9)。

写真9:津波が来たら高台に避難することは、日本もチリも同じ。

災害に強い社会とは

こうしてみると、南三陸町とプエルトビエホ、同じ震源からの津波でも、被災後の復興の展開は大きく異なることがわかります。それを見比べることで、「災害に強い社会とは」ということを考えるきっかけになるのではないかと思います。

プエルトビエホでは上述の通り、多くの場合は公的な支援が得られなかった代わりに、行政の復興計画を待たずとも、自分たちの手でさっさと再建をスタートさせることができたようです。津波の瓦礫の中から使えるものを見つけて再利用した、という話もあるぐらいです。

もちろん、津波を契機にそこを離れた人もいることでしょう。しかし、空いた土地にはまた別の人がやってきています。滞在中、「君もこの辺に家を建てていいんだよ」とか「大きなレゴブロックみたいなものだ」とか言われたりしたものです(写真10)。

写真10:プエルトビエホで新たに自分たちの家を建てる人たち。

また、支援をしてくれない行政に対して不満の声を聞くことも多々ありました。これについて、この記事のライターが不思議に思ったことは、それでも家々にはチリの国旗が掲げられていることです(写真11)。

写真11:浜風になびくチリの国旗。

この理由をチリ人に尋ねたら、きょとんとされました。そして、「何をいってるんだ。政府と国は、別のものだろう」という答えが返ってきました。こうした感覚は、日本で生まれ育ったライター自身にとってあまり身近なものでなかったため、新鮮に感じました。

 

前後編でお届けしたこの寄稿記事もそろそろ締めくくらなければなりません。

ここまで、この記事のライター以外に日本人が登場しないまま、3.11の被災地の話をつづってきました。あの大規模自然災害の、さらに多様な現実を伝えることができていればいいなと思います(写真12)。

南三陸町との比較においてプエルトビエホの事例は、復興をめぐる国家と個人の関係、そしてその中間にある社会のあり方を考えさせてくれるものだといえます。

東日本大震災の発生からもうすぐ10年。南三陸町の復興を振り返るとき、イースター島からやってきたモアイのこととも関連して、同じく被災したチリの人々のことに思いを馳せてみてはどうでしょうか。

写真12:日本から津波が襲来した日に生まれたことで、「ツナミ」と名付けられた犬。

引用文献・ウェブサイト

Cooperativa. cl (2011) Marejada destruyó 150 casas en Puerto Viejo, https://www.cooperativa.cl/noticias/mundo/desastres-naturales/terremotos/marejada-destruyo-150-casas-en-puerto-viejo/2011-03-12/182213.html.

内尾太一(2017)「『東日本大震災』の脱構築:チリ辺境にある3.11の津波被災地から」『麗澤大学紀要』100, 35-44。(この記事の基となった論文。ダウンロードはこちら)。

2020年10月31日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

パノラマ

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

パノラマ

パノラマ

パノラマ

パノラマ

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

パノラマ

他の定点観測を見る

南三陸にBuy返し!? 大正大学の学生が南三陸の魅力を販売【寄稿】

この記事は「大正大学地域創生学部東京実習 南三陸班」より寄稿頂きました。寄稿の依頼は、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

毎年南三陸町で行われる大正大学地域創生学部の地域実習は、コロナ禍のためオンラインで実施。2年生の東京実習では、クラウドファンディングを活用して、南三陸の特産品を全国にお届けする実習を展開しています!南三陸町では学生が感動した「牡蠣」を中心にお届けします!

コロナ禍でもなんとかして地域に恩返しがしたい!!

皆さん初めまして!

私たちは大正大学地域創生学部2年生の南三陸班の阿久津海です。地域創生学部では、1、3年次に地方、2年次には東京で約40日間の実習を行っています。

私たちは昨年、全15の実習地があるなか、南三陸町で実習をさせていただきました。そこではみなさんとの対話や町の行事への参加を通じて、町の歴史と文化、震災からの復興、そして自然と共生する持続可能な取り組みなど様々なことを学びました。長い実習を乗り越えられたのも、南三陸に住む強く優しい想いを持った方々の支えがあったからこそと実感しています。

例年2年生の実習は東京都内において、実習地の特産品を対面販売していたのですが、今年は新型コロナの影響で通常の実習を行うことが困難となりました。大学も春からオンライン授業が続き、コミュニケーションや準備もままならない状況でした。しかしながら、オンライン上でもいつもお世話になっている地域の方々に恩返しをしたいという学生達の呼びかけによりクラウドファンディングでの特産品販売に挑戦することになりました。

オンラインマルシェ ウェブde応援 with C のポスター

全15地域の特産品販売をクラウドファンディングで展開

クラウドファンディングでは、全15地域によるオンラインマルシェという形で実施します。「離れていても応援という形で地域と繋がれる」を理念に7月から準備を進めてきました。クラウドファンディングサイト大手のREADYFORを活用し、各地域の商品を50個限定のリターン品として販売。サイトオープン期間は10月23日(金)~11月24日(火)になります。

お世話になった15地域に学生が恩返し! オンラインマルシェ開催!https://readyfor.jp/projects/taishowithc

南三陸班では、「たみこの海パック」の阿部民子さんご協力の元、牡蠣缶パック・パリパリめかぶ・とろろ昆布・天日干しわかめのセットを5,000円(税込)、50個限定で販売しています。商品名を自宅でも南三陸を楽しんでもらいたいとの思いから「自宅三陸~食欲かきたてる牡蠣~」としました!

実習中にサンプルを送ってもらいリターン品掲載用の写真撮影も

常に南三陸を想いながらオンラインでミーティング

どのように実習を進めてきたのかを紹介します。

実習の本番は9月末からでしたが、準備は7月から始まります。昨年は「伝統文化」「移住定住」「一次産業」「関係人口」の4テーマで班が分かれましたが、偶然全ての班から1名ずつ集合しての計4人のグループとなりました。

最初に昨年の実習を振り返り、南三陸の何を発信したいのか何度も話し合いを行いました。そして、阿部民子さんの元で船に乗り、とれたての海の幸をいただいたことが共通体験だと分かりました。また、震災の被害やそこからどのように立ち上がってきたのかのお話、戸倉の牡蠣がASC認証を取得されるまでの取り組みについて、多くの方に知ってもらいたいという気持ちを持ちました。

自宅からオンラインツールを使って情報共有

そこで、民子さんに今回の実習と私達の想いを伝えさせていただいたところ、二つ返事で快諾してくださいました。そこから、班員だけでなく、先生や南三陸研修センターのコーディネーターとミーティングを重ね、販売する商品が決定しました。

その後は、サイトオープンに向けてSNSでのPRや同梱するパンフレットの制作に力を入れて活動してきました。パンフレットは学生たちがデザインから内容まで考案し、学生目線での南三陸の特徴や商品の魅力を伝えるものです。SNSは、Facebook「さんさんサークル」という名称で、昨年の実習やクラウドファンディングの情報を投稿しています。

そしてついに10月23日、サイトオープン! 購入していただけるかとても不安でしたが、オープン後2時間半で第一目標金額を達成、初日で108万円もの支援総額となりました。南三陸のセット商品も初日から22個も売れ、現在も順調に売り上げを伸ばしています! 活動の詳細は、Facebookをご覧ください。

大正大学 東京実習オンラインマルシェ 「ウェブde応援 with C」https://www.facebook.com/taishowithC

さんさんサークル https://www.facebook.com/sansan.sanriku

READYFOR上のサイト(10/25時点)

 

クラウドファンディングで私達が出来ることとは・・・?

商品購入が何をもたらし、その後何に繋がるのでしょうか?

私達は海の環境保全とASC国際認証の維持につながるのではと考えます。

今回のセットで南三陸の魅力とストーリーを知っていただき、新たな関係人口がうまれていくと考えています。それはASC国際認証の認知拡大にも繋がります。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、ASC国際認証とは、養殖水産物に対するエコラベル。

海の環境と資源を守り、漁業従事者や地域社会に配慮している養殖場が認証されます。一度認証を受けた後も継続していくためには厳しい審査があり、維持することも簡単ではありません。私達がASC認証の牡蠣を含むセットを販売することで、このような状況を知ってもらい、同時に将来の海の環境整備やASC認証維持の応援になることができると考えました。

今回のセット商品企画の理念をプレゼンした際に使ったスライドの一部

 

南三陸と私達

今回は、クラウドファンディングでの私達の活動をご紹介させていただきました。初のオンライン実習ということもあり、不安も大きくありました。

ですが、南三陸の方々をはじめ先生方や仲間、多くの人の支えのおかげでここまで活動することができました。また、オンラインという形でも南三陸と関わり、全国の方に魅力を発信できる機会が本当に貴重と思っています。

昨年の実習中には交流できなかった方とも、今回の活動を通じて繋がりを持てることができれば嬉しいです。購入(Buy)を通じて、南三陸へと恩返しすることが我々の願いですので、引き続きプロモーションを頑張っていきます!

昨年の実習時に、阿部民子さんの元で船に乗せていただいた様子

ツアーガイドは大学生。南三陸の魅力満載!オンラインツアー

コロナ禍でなかなか南三陸に行けない…。ではオンラインで訪れよう!と、2020年9月27日に、南三陸オンラインツアーが行われました。案内したのは大正大学地域創生学部の学生たち。どんなツアーだったのでしょうか?

大正大生の学びと南三陸愛から生まれたオンラインツアー。

「南三陸にハマった大学生が案内する森里海!オンラインツアー」を実施したのは、日本中の素敵な人に会いに行く旅を企画提案している「あうたび」です。南三陸と関係の深い大正大学とあうたびがコラボし、「南三陸まなびの里いりやど」を運営する南三陸研修センターの協力により、ツアーが実現しました。

大正大学地域創生学部では、これまで南三陸で実習を行ってきましたが、今年は新型コロナウイルスの影響で訪れることができなくなってしまいました。そんななかでも何かできないかと模索し、8月末に南三陸の魅力を紹介するオンラインツアーを学内研修として実施。オンラインでも、地域の魅力を伝えたり地元の人たちと交流を深めたりできるということを実感しました。そこで、8月に実施したオンラインツアーでの学びを深化させ、発表する機会として、一般の人々にも南三陸の人や土地の魅力を伝える「あうたびオンラインツアー」を開催することにしたのです。

※「あうたび」サイトより https://autabi.com/event/producer/14294/

オンラインツアーの案内人は、実習で南三陸に滞在してすっかりハマった大正大学地域創生学部3年生の3人。菅原汐里さん(左)、會田菜月さん(中)、鈴木里奈さん(右)

あうたびオンラインツアーの特徴のひとつは、ほかでは買えないオリジナルの特産品セットが届くこと。それらの特産品を楽しむことで、より旅行気分が味わえますし、その地域の生産者さんを応援することができます。今回のオンラインツアーでも、「南三陸応援セット」として、南三陸の海の幸・山の幸、スイーツ、グッズなど、素敵な品々が事前に届きました。ツアーへの期待がますます高まります…!

ワイン、むきホヤ、塩蔵わかめ、鯖の冷燻、南三陸産ひとめぼれ、りんご、マドレーヌなど、南三陸の美味が詰まった特産品セット。箱を開けた瞬間、旅に出るときのようなワクワク感でいっぱいに

多彩なガイドが南三陸の森里海を案内!

ツアー当日。特産品セットと一緒に送られてきた資料を準備して、パソコンに向かいます。ツアーの集合場所は南三陸町震災復興記念公園。スクリーン上に日本各地から次々と参加者が集まってきて、約40人の参加者がそろったところでツアー開始!

自宅でくつろぎながら、気軽に参加できるのがオンラインツアーのメリット

今回のツアーでは、各スポットにつき、まずスペシャルガイドの大正大学生による説明があり、それから南三陸の現地ガイドが案内してくれます。震災復興祈念公園を案内してくれたのは、「震災語り部」である南三陸研修センターの三浦貴裕さん。今秋に全体開園を予定している震災復興祈念公園ですが、すでにオープンしている「祈りの丘」からスタートし、防災対策庁舎も案内してくれました。

震災復興祈念公園「祈りの丘」頂上からレポートする三浦さん。「名簿安置の碑」の前で、ツアー参加者も一緒に黙とうを捧げた
「祈りの丘」を下って、津波被害を受けた防災対策庁舎へ

次は打って変わって「南三陸化石探訪」です。現地の案内人は漁師の高橋直哉さん。「南三陸応援セット」で届いた塩蔵わかめの生産者ですが、実は大の化石好き。南三陸でしかできない体験をと、化石発掘プログラムを行っています。ちなみに、同じく応援セット(Bコース)に入っていた「南三陸化石エコバッグ」に描かれているのは、南三陸町歌津地区で発見された「ティラコ」という新種の化石。南三陸が実は化石の宝庫だと知って、驚く参加者もたくさんいました。

化石掘りの現場を案内する高橋直哉さん。化石掘りを実演しながら、化石探しのコツも伝授してくれた
いま見つかったばかり?の立派なアンモナイトの化石

化石掘りを楽しんだ後は、「たみこの海パック」阿部民子さんのところへ。漁師の妻である民子さんは、震災後に「たみこの海パック」を立ち上げ、南三陸のさまざまな海産物を販売しています。

応援セットの中には民子さんの「むきホヤ」が。ホヤは、日本酒はもちろんのこと、ワインにも合うそうです。南三陸の特産品であるホヤの魅力を、民子さんが大いに語ってくれました。

「これから牡蠣のシーズンで、忙しくなります」と話す阿部民子さん

5分ほどトイレ休憩を挟み、海水浴場「サンオーレそではま」へ。その後、車で「南三陸さんさん商店街」へ移動します。移動中の車窓風景を眺めていると、まるでドライブしているような気分に。

さんさん商店街に到着すると、「南三陸まちづくり未来」の佐藤潤也さんがお出迎え。「お山のマドレーヌ」が人気の「オーイング菓子工房Ryo」、応援セットに自慢の「鯖の冷燻」を提供した「山内鮮魚店」など、さんさん商店街を案内してくれました。鮭やイクラがのった「キラキラ秋旨丼」の食レポも…! とってもおいしそうでした。(画面越しに眺めているだけなのがツライところでしたが…笑)

さんさん商店街のおすすめグルメをたっぷり紹介してくれた佐藤潤也さん

続いて、オクトパス君グッズを手がける入谷地区の「YES工房」へ。大森丈広さんが工房内を案内し、レーザーカッターによる南三陸杉コースター製作の様子も見せてくれました。さらに、近くの八幡神社にも参拝。階段の上り下りは臨場感たっぷりで、見ているほうも思わず「ふぅっ」と息をつきそうになりました(笑)。

廃校となった中学校の特別教室を改装したYES工房を紹介する大森丈広さん
疫病を払うと言われている妖怪「アマビエ」バージョンのオクトパス君
YES工房の近くにある八幡神社には、大きなオクトパス君の像が奉納されている

出会い、交流、学び…。充実の4時間で南三陸を満喫する。

YES工房を後にし、入谷地区の美しい里山風景を楽しみつつ、少し休憩。海のイメージが強い南三陸ですが、実は町面積の8割は山なのです。応援セットに入っていた「ひとめぼれ」は、生ごみからつくられた液肥を使って育てられた「めぐりん米」という特別なお米。入谷地区の農家さんが生産したものです。

黄金の稲穂が美しい入谷の田園風景

その入谷地区にある宿泊施設「いりやど」に到着すると、阿部忠義さんが迎えてくれました。館内や部屋を案内してもらい、まさに宿にチェックインした気分です。次はほんとうに泊まりに行きたい…!

いりやどを運営する南三陸研修センターの阿部忠義さん。オクトパス君の生みの親でもある

そして、ついに最後の訪問スポット「南三陸ワイナリー」へ。オープン直前のワイナリーを、代表の佐々木道彦さんが案内してくれました。醸造タンクを見せてくれたり、ワインづくりの工程を説明してくれたりと、充実のワイナリー見学。これは飲まずにはいられない!とばかりに、応援セット(Bコース)に入っていた南三陸ワインで、画面越しに乾杯をしました。

応援セットにも入っていた「南三陸ワイン DELAWARE 2019」について、「海産物と合うようにあえて酸味を残しました」と説明する佐々木さん
海中で熟成して引き上げたワインも見せてくれた。「今年度は海中熟成ワインの数を増やしたい」と佐々木さんは話す
南三陸ワインで乾杯! 待ちきれずに飲み始める参加者も

ひと通り行程を終え、最後に大正大生より、南三陸での学びについて発表が行われました。會田菜月さん、鈴木里奈さん、菅原汐里さんの3人が、南三陸や東京での実習で学んだこと、そして南三陸の魅力について話をしました。南三陸の景色やグルメはもちろんのことですが、何よりも人々との出会いや交流が心に残っているとのこと。今回のオンラインツアーでも、南三陸の人々との出会いや交流という要素がたっぷりありました。

14時から始まったツアーもいよいよ終盤。18時からは懇親会が行われました。南三陸ワインやりんごジュースで、あらためて乾杯!

懇親会には参加者・スタッフ30人ほどが参加し、ツアーの感想を述べ合ったりして交流を深めました。参加者からは、「今回のオンラインツアーは学ぶことがとても多かったです。コロナが落ち着いたら南三陸に行きます!」「学生さんたちの一生懸命な取り組みに刺激を受けました」といった声が。充実した4時間のツアーに、みなさん大満足の様子でした。

19時になりツアーは終了。引き続き2次会があり、応援セットの鯖やホヤをおつまみに、さらに盛り上がったようです。

南三陸の見どころが凝縮していた今回のオンラインツアー。ただスポットをめぐるだけでなく、たくさんの「人」が前面に出ていたのが「あうたび」ならではのよさでした。特産品セットでその地域の美味を味わいながら、オンラインで現地の人たちや参加者と交流する。

新しい形の“旅”を満喫しました。バーチャルで南三陸を訪れ、ますます南三陸に行きたくなったので、次はリアルで…!

郷土芸能を新たな観光プログラムへ!県内在住台湾人へのモニター体験実施

9月22日、宮城県志津川自然の家で郷土芸能である「行山流水戸辺鹿子躍」のモニター体験プログラムが行われました。県内在住の台湾人6名が参加。今後、国際教育旅行団体を中心に南三陸の文化を伝えるプログラムとして整備していくことを目指しています。

国際交流がストップ。再開を目指して受入れ体制整備

例年、多くの旅行団体が南三陸町を訪れていますが、今年は新型コロナウイルスの影響により交流事業がストップ。南三陸町観光協会では、受入れ体制の整備と今後のプログラム強化のため、9月21日から2泊3日で「南三陸モニターツアー」を実施しました。参加者は、県内に留学や就学をしている台湾人6名が参加。そば打ち体験や震災復興祈念公園の見学、スノーケリング体験、ふりかけ作りを町内で体験しました。その2日目(9月22日)の午前中に、宮城県志津川自然の家で行われたプログラムが「行山流水戸辺鹿子躍」の体験プログラムでした。

行山流水戸辺鹿子躍について話す村岡賢一保存会長と説明を聞く参加者

初めての体験に苦戦しながらも・・・

約2時間の体験プログラムでは、初めに行山流水戸辺鹿子躍保存会会長である村岡賢一さんから、鹿子躍の歴史や躍りの意味について説明がありました。「震災で道具は流失したものの、瓦礫の中から奇跡的に見つかった。子ども達の後押しもあり、震災から復活することができた」と震災からの復活について村岡さんは話します。

難しい言葉も多いため台湾語に、翻訳して説明を伝える南三陸町観光協会 陳忠慶さん(写真右)

説明後、高校生や20代を中心とした若手で構成されたメンバーによる演舞披露が行われました。力強い太鼓の音、迫力ある躍りに参加者は驚きつつ、初めて見る郷土芸能に見入っていました。

その後の体験では、実際に演舞で使用した太鼓を身につけ、口唱歌と呼ばれる太鼓の打ち方を表す言葉を口ずさみながら練習していきました。参加者のほとんどが初めて触るという太鼓、聞きなれない口唱歌に戸惑いつつも、プログラムを終える頃には綺麗に太鼓の音色を揃えていました。

伝承活動への想いと共に、南三陸の文化を感じて欲しい

「太鼓の大きく響く音にびっくりした。初めて叩いた太鼓は、叩く力の加減が難しい」と仙台市で働く砂・佳玲(サ・カレイ)さんは話します。また仙台で大学に通っている宋・宛憶(ソウ・エンオク)さんは、大学の講義で岩手県のさんさ踊りを体験。授業でも日本の文化に触れているが「口唱歌がさんさ踊りと違い、難しかった。太鼓だけでなく、躍りに激しい動きもあって大変そう」と話していました。

水戸辺鹿子躍保存会としては、今回が初めての試みとなった体験プログラム。長年、子ども達へ指導をしてきた村岡さんは「教えるのは容易だが、言葉の壁があると難しさを感じるかもしれない。それでも要望があれば、保存会としてやっていきたい」と話していました。

今回のモニターツアーと郷土芸能の体験プログラムを企画した南三陸町観光協会 陳忠慶さんは「伝承の想いを感じつつ、体験を通して日本や南三陸の文化を知るきっかけになり、更なる魅力に繋がれば良い」と話します。初めての体験プログラムで、課題も見えてきたと話していた陳さん。今後の新たな体験プログラムとして、整備されていくことに期待が高まります。

チリ地震津波から60年。3.11のチリの被災地を訪ねて(前)【寄稿】

今年で1960年の「チリ地震津波」からちょうど60年。今でも、町の高齢者の方から当時のお話を聴くことができます。しかし、逆に2011年3月11日の東日本大震災で発生した津波もチリに押し寄せていたことを知る人は意外に少ないのでは・・・。現地訪問したからこそ得られた写真とともにお届けします。

1.チリ地震津波から60年

今年2020年は、1960年の「チリ地震津波」の発生からちょうど60年になります。

半世紀以上前の津波災害、といっても町の高齢者で当時のことを覚えている方も多く、お話をよく聞かせてもらっています。特に節目となる今年は、南三陸町の生涯学習センターでもその惨状を伝える写真などが展示されました(※記事はこちら)。

しかし、2011年3月11日に発生した大地震もまた、津波となってチリに大きな被害を及ぼしていたことは意外と知られていないのではないでしょうか(図1)。ここでは南三陸町とチリのつながりもおさらいしつつ、チリの3.11の被災地の様子を、前編・後編でお伝えしたいと思います。

図1:3.11の津波がいかに広範囲な災害であったかがこの図からは読み取れます(気象庁 2011:7)。この記事のライターが訪れたのは、チリの「カルデラ」と「コキンボ」の観測所の周辺地域です。

2.南三陸町とチリとのつながり

1960年5月24日未明、地震という前兆なしの大津波が、日本に押し寄せました。

この災害は、チリ南部沖で現地時間5月22日午後3時11分にマグニチュード9.5という観測史上最大の地震(バルディビア地震)が発生したことによるものです。

それからおよそ1日かけて、チリから約17,000km離れた日本の太平洋沿岸部に津波が到達。全国で142名の犠牲者を出す大災害となりました。中でも、その被害の大きさで全国的に注目されたのが、宮城県の志津川町、現在の南三陸町です(※当時の映像はこちら)。

それから30年の節目となる1990年に、当時の駐日チリ大使は志津川町を訪れ、友好のメッセージを贈りました。「30年前、チリ国南部海岸地帯を襲い、貴町にも、津波の大きな被害をもたらした悲しむべき災害を記念されることに、チリ国民は、深い共感を覚えます」(志津川町 1990:72)という言葉から、チリと町との交流が始まりました。

その翌年の1991年には、チリ共和国領イースター島の巨石文化にちなんで、実際にチリ本土の石でつくられたモアイも町に設置されました。

そして2011年3月11日。東日本大震災が起こりました。この町の津波被害の凄まじさは、ご存知の通りだと思います。海辺近くの松原公園に設置されていたモアイも流されてしまいました。しかし、結果として、この大震災をきっかけに町とチリとの結びつきは一層強まることになりました。

チリから南三陸町へは、ピニェラ大統領(当時)の慰問や、イースター島でつくられた新しいモアイの寄贈がありました。南三陸町からチリへは、志津川高校生の短期研修派遣が行われました。今日では、様々なモアイグッズが被災地を訪れる観光客に人気のお土産となり、復興に一役買っています(写真1)。

写真1 さんさん商店街から南三陸の復興を見守るモアイ像

3.チリの被災地を訪ねて

ここまでの一連の出来事は、町内外でもよく知られていることだと思います。そしてここからが、この記事の本題です。

東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震はマグニチュード9.0で、観測史上4位の大きさでした。先に触れたバルディビア地震に比肩する大地震です。実のところ、その津波の被害は日本だけに留まりませんでした。気象庁の調べでは、アメリカ、エクアドル、そしてチリの太平洋沿岸部で、2m以上の津波が観測されています(図1)。

この記事のライターも、震災の年から南三陸町と関わっていましたが、その事実に気づくまで数年かかりました。そのきっかけを与えてくれたのは他でもない、南三陸町の高齢者の方々です。3.11の体験と併せてチリ地震津波のことを語って聞かせてもらうことの積み重ねの中から、ある日突然、次のような疑問が思い浮かんだのです。

「マグニチュード9.5のチリの地震が津波となって日本に来たなら、マグニチュード9.0の日本の地震は逆にどうだったのだろう」と。

そこからまず、インターネットの動画投稿サイトで、チリに絞って3.11の津波の影響を調べ始めました。すると、ニュースの一幕や個人が撮影した被災地の様子が複数、アップロードされていました。

そして2015年9月上旬、初めてチリを訪れました。事前の調べで、プエルトビエホ(古い港、という意味)というチリ北部アタカマ州の沿岸部(図1のカルデラの近く)にある小さな漁村が、日本からの津波で大きな被害を受けたことがわかっていました(写真2)。

写真2:後にチリの国立図書館で入手した2011年3月13日の地元新聞の記事のコピー。見出しには「津波でプエルトビエホの家々が流失:住民たちの衝撃の証言」と書かれています。(El Diario de Atacama 2011)

初めての国で、言葉もままならないのに、僻地の漁村に辿り着くのはなかなかハードルの高い旅です。そこで、首都サンティアゴでチリ人のドライバー兼通訳を雇いました。そして、車で丸一日かけて北上し、まずアタカマ州の州都コピアポへと辿り着きました。この二都市間は、距離にして約800km離れています。東京から青森までよりも少し遠いぐらいです。

翌日、そこからさらに西へ約80km移動しました。アタカマ砂漠のあるこの州は、世界でも最も乾燥した地域のひとつです。プエルトビエホへと続く一本道も、ただただ砂と石と僅かな植物の荒野が広がるばかり。途中にはバス停もお店も何もありません(写真3)。そんな隔絶された場所が、3.11の津波のチリ国内最大級の被災地となったのです(写真4)。

写真3:荒涼としたアタカマ砂漠。
写真4:プエルトビエホの入り口。

4.日本からの津波の痕跡を辿る

日本を出発してプエルトビエホに到着まで、3日以上かかります。ただ、このプエルトビエホを訪ねたのは、2015年9月の1度だけではありませんでした。現地の人々の津波体験を聴くための、人間関係づくりや、言語の習得には相応の時間を要します。2016年、そして2018年にもこの記事のライターは、現地を訪れています。

それでは前編の締めくくりに、プエルトビエホで見つけた日本からの津波の痕跡を紹介したいと思います。

既に書いたように、ここを初めて訪れたのは2015年9月。3.11のあの日から、4年半も過ぎていました。実際に、現地に行くまでどのような形で津波の記憶が残されているかわかりませんでした。南米チリまで行って徒労に終わる、という不安もありました。

しかし、このプエルトビエホの浜辺を歩くと、すぐにそれは見つかりました。津波によって家屋が流され、その基礎部分だけが残された場所が点在していたのです。これと似たものを、かつての南三陸町でも何度も目にしてきました。他にも、海水に浸かって錆び付いた車も放置されていました。

日本時間2011年3月11日午後2時46分に発生した地震の津波は、確かにここチリまで届いていたのです。国と国とが海で繋がっている、世界地図を眺めるだけでは決して得られないリアリティがそこにはありました。私たちはこの事実に基づいて、南三陸町とチリの関係についてまた別の角度から考えることができるのではないでしょうか。

そして後編では、このプエルトビエホの住人の口から語られた日本からの津波について、深掘りしていきます。

 

引用文献・ウェブサイト

El Diario de Atacama(2011)” Tsunami arrasó con casas en Puerto Viejo: dramáticos Testimonios de Residentes,” March, 13th, 2011.

河北新報(2020)「チリ地震津波60年 惨状伝える写真など展示 宮城・南三陸」https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202005/20200517_13022.html

気象庁(2011)「特集1平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」http://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/hakusho/2011/HN2011sp1.pdf

志津川町(1990)『志津川町チリ地震津波災害30周年記念誌』志津川町。

2020年9月30日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

 

パノラマ

パノラマ

パノラマ

パノラマ

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

パノラマ
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志高まちづくり議会が起点 地域のエコシステムを体感する循環授業スタート

2020年2月に開催された「志高まちづくり議会」で、志津川高校情報ビジネス科2年生(当時)が、家庭から出る生ゴミを分別回収して資源活用している南三陸BIOを紹介しながら、中高生にも生ゴミの分別の重要性や取り組みを知ってもらうアイディアを提案。その声もきっかけの一つとなり、授業で地域のエコシステムを体感する循環授業が行われました。

1時間目 生物基礎・生態系の保全

生物基礎科目・指導教諭の阿部秀也先生が「生態系とその保全」をテーマに掲げ、町内で事業を展開しているアミタ株式会社との連携を企画。これからの暮らし方にも関わる課題や対応策などを深堀りする循環授業が始まりました。

志高まちづくり議会の様子

「私たちは、普段生活している中で、生物に対し悪影響を及ぼしているのではないか?」という先生の問いかけに、生徒から次々と具体例や解決策となる回答が出されました。

「廃棄されたプラスチックが大量に海岸(波打ち際)に流れ着いている」

「分解されないプラスチックごみを亀や鳥が飲み込むことがあり死んでしまう」

「それを改善するために自分たちはポイ捨てをしない」

「レジ袋はゴミにもなる。買い物にはエコバッグを使う」

「割りばしは国産材を使うべきだと教えられた」

「火力発電は石油を使うので環境に悪い。風力や太陽光をもっと増やすべきだと思う」

生物に影響が出ないように私たちに何ができるのかを考え実践する事を「環境配慮行動」だと教える阿部秀也先生

2時間目 メタン発酵による循環授業

「初めまして。私はアミタ株式会社の職員で野添(のぞえ)と申します。博士と呼んでください」

普段南三陸BIOに勤務している野添幹雄さんが白衣姿で登場。

「森里海ひといのちめぐるまち」という持続可能な循環型地域社会を目指す南三陸町で、生ゴミを一般ゴミと一緒に処分するのではなく、分別して再利用(バイオマス事業)していることや地域デザイン事業など、日々の取り組みを伝えます。

「本日はその重要な役割を果たすメタン菌を紹介します」と言って、濃いグレー色の液体が入ったペットボトルを手に取りました。

「この中には、お腹を空かせたメタン菌君がたくさんいます」と興味が湧くような優しい語り口調の野添博士。「大きさはわずか5マイクロメートルですが、人間が食べられるモノなら好物なのですよ。40℃程度の温かさが最も活発になります」そのような授業が続きます。

「実際に餌を与えてメタンガスを発生させてみましょう」グループごとに実験を促します。

臭いが強烈だよと脅され、おそるおそる実験(メタン菌にバナナの皮を給餌)に取り組む生徒たち

小さく刻んだバナナの皮を入れたペットボトルに蓋をしてゆっくり振り混ぜます。

なかにはバーテンダーのように激しくゆする生徒もいましたが、「それはやりすぎ、もっとやさしく」と注意され笑いが起きるほど和やかに実験が進みます。次にチューブのついた蓋に代えてお湯の入った水槽に置くとチューブの先から小さな泡が発生してきました。

「これがメタン発酵を促してできたバイオガスです。みなさん、田んぼでプクプクと気泡が出ているの見たことありますか?原理は同じです」

2時間目後半 ホームバイオガス装置

次に、体育館と西校舎の間に設置した「ホームバイオガス装置」に移動しました。

「まず、投入口に餌となるバナナの皮を入れます。中には600Lのメタン菌が活動しており発酵分解されます。やがて、ガスは上部のチューブに溜まり、それ以外は後方のタンクに排泄されます。これが液肥と呼ばれる液体肥料で、農作物の栽培に活用されるのです」実際に班のリーダーがバナナの皮を投入してみました。

一連の授業が終了しましたが、この装置から生み出された液肥が夏休み後に行われる作物栽培に使われ、ガスはお湯を沸かす燃料になる予定だとの話もありました。高校生たちと地元企業とが一緒に取り組む循環授業は始まったばかりです。

志高まちづくり議会で発表した生徒たちの最終目標は、アミタさんの授業をもとに高校生らしい引き付けられるパンフレットを作り、町民に知ってもらうことでした。今後の取り組みや成果に期待したいものです。

ホームルーム

生徒からは「これからは生ゴミを分別し、メタン菌を活用できる良いリサイクルが必要だと思った」

「南三陸町は思っていた以上にゴミ問題に関わっているのだなと感じた」との感想がありました。

初めて高校生を相手に授業したという野添氏は「私にとって貴重な時間でした。身近なことで環境問題を考え、取り組むきっかけになってもらいたい」と感謝の言葉が述べられました。

「今世界中で起きている温室効果やプラスチック廃棄などの環境破壊問題は、一人一人の考えや行動によって解決に向かうかもしれない。人の手によって壊れかけた生態系を取り戻すことだってできるはず。それを『環境管理システム』と言います」と阿部秀也先生が語り、授業を締めくくりました。