チリ地震津波から60年。3.11のチリの被災地を訪ねて(前)【寄稿】

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今年で1960年の「チリ地震津波」からちょうど60年。今でも、町の高齢者の方から当時のお話を聴くことができます。しかし、逆に2011年3月11日の東日本大震災で発生した津波もチリに押し寄せていたことを知る人は意外に少ないのでは・・・。現地訪問したからこそ得られた写真とともにお届けします。

1.チリ地震津波から60年

今年2020年は、1960年の「チリ地震津波」の発生からちょうど60年になります。

半世紀以上前の津波災害、といっても町の高齢者で当時のことを覚えている方も多く、お話をよく聞かせてもらっています。特に節目となる今年は、南三陸町の生涯学習センターでもその惨状を伝える写真などが展示されました(※記事はこちら)。

しかし、2011年3月11日に発生した大地震もまた、津波となってチリに大きな被害を及ぼしていたことは意外と知られていないのではないでしょうか(図1)。ここでは南三陸町とチリのつながりもおさらいしつつ、チリの3.11の被災地の様子を、前編・後編でお伝えしたいと思います。

図1:3.11の津波がいかに広範囲な災害であったかがこの図からは読み取れます(気象庁 2011:7)。この記事のライターが訪れたのは、チリの「カルデラ」と「コキンボ」の観測所の周辺地域です。

2.南三陸町とチリとのつながり

1960年5月24日未明、地震という前兆なしの大津波が、日本に押し寄せました。

この災害は、チリ南部沖で現地時間5月22日午後3時11分にマグニチュード9.5という観測史上最大の地震(バルディビア地震)が発生したことによるものです。

それからおよそ1日かけて、チリから約17,000km離れた日本の太平洋沿岸部に津波が到達。全国で142名の犠牲者を出す大災害となりました。中でも、その被害の大きさで全国的に注目されたのが、宮城県の志津川町、現在の南三陸町です(※当時の映像はこちら)。

それから30年の節目となる1990年に、当時の駐日チリ大使は志津川町を訪れ、友好のメッセージを贈りました。「30年前、チリ国南部海岸地帯を襲い、貴町にも、津波の大きな被害をもたらした悲しむべき災害を記念されることに、チリ国民は、深い共感を覚えます」(志津川町 1990:72)という言葉から、チリと町との交流が始まりました。

その翌年の1991年には、チリ共和国領イースター島の巨石文化にちなんで、実際にチリ本土の石でつくられたモアイも町に設置されました。

そして2011年3月11日。東日本大震災が起こりました。この町の津波被害の凄まじさは、ご存知の通りだと思います。海辺近くの松原公園に設置されていたモアイも流されてしまいました。しかし、結果として、この大震災をきっかけに町とチリとの結びつきは一層強まることになりました。

チリから南三陸町へは、ピニェラ大統領(当時)の慰問や、イースター島でつくられた新しいモアイの寄贈がありました。南三陸町からチリへは、志津川高校生の短期研修派遣が行われました。今日では、様々なモアイグッズが被災地を訪れる観光客に人気のお土産となり、復興に一役買っています(写真1)。

写真1 さんさん商店街から南三陸の復興を見守るモアイ像

3.チリの被災地を訪ねて

ここまでの一連の出来事は、町内外でもよく知られていることだと思います。そしてここからが、この記事の本題です。

東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震はマグニチュード9.0で、観測史上4位の大きさでした。先に触れたバルディビア地震に比肩する大地震です。実のところ、その津波の被害は日本だけに留まりませんでした。気象庁の調べでは、アメリカ、エクアドル、そしてチリの太平洋沿岸部で、2m以上の津波が観測されています(図1)。

この記事のライターも、震災の年から南三陸町と関わっていましたが、その事実に気づくまで数年かかりました。そのきっかけを与えてくれたのは他でもない、南三陸町の高齢者の方々です。3.11の体験と併せてチリ地震津波のことを語って聞かせてもらうことの積み重ねの中から、ある日突然、次のような疑問が思い浮かんだのです。

「マグニチュード9.5のチリの地震が津波となって日本に来たなら、マグニチュード9.0の日本の地震は逆にどうだったのだろう」と。

そこからまず、インターネットの動画投稿サイトで、チリに絞って3.11の津波の影響を調べ始めました。すると、ニュースの一幕や個人が撮影した被災地の様子が複数、アップロードされていました。

そして2015年9月上旬、初めてチリを訪れました。事前の調べで、プエルトビエホ(古い港、という意味)というチリ北部アタカマ州の沿岸部(図1のカルデラの近く)にある小さな漁村が、日本からの津波で大きな被害を受けたことがわかっていました(写真2)。

写真2:後にチリの国立図書館で入手した2011年3月13日の地元新聞の記事のコピー。見出しには「津波でプエルトビエホの家々が流失:住民たちの衝撃の証言」と書かれています。(El Diario de Atacama 2011)

初めての国で、言葉もままならないのに、僻地の漁村に辿り着くのはなかなかハードルの高い旅です。そこで、首都サンティアゴでチリ人のドライバー兼通訳を雇いました。そして、車で丸一日かけて北上し、まずアタカマ州の州都コピアポへと辿り着きました。この二都市間は、距離にして約800km離れています。東京から青森までよりも少し遠いぐらいです。

翌日、そこからさらに西へ約80km移動しました。アタカマ砂漠のあるこの州は、世界でも最も乾燥した地域のひとつです。プエルトビエホへと続く一本道も、ただただ砂と石と僅かな植物の荒野が広がるばかり。途中にはバス停もお店も何もありません(写真3)。そんな隔絶された場所が、3.11の津波のチリ国内最大級の被災地となったのです(写真4)。

写真3:荒涼としたアタカマ砂漠。
写真4:プエルトビエホの入り口。

4.日本からの津波の痕跡を辿る

日本を出発してプエルトビエホに到着まで、3日以上かかります。ただ、このプエルトビエホを訪ねたのは、2015年9月の1度だけではありませんでした。現地の人々の津波体験を聴くための、人間関係づくりや、言語の習得には相応の時間を要します。2016年、そして2018年にもこの記事のライターは、現地を訪れています。

それでは前編の締めくくりに、プエルトビエホで見つけた日本からの津波の痕跡を紹介したいと思います。

既に書いたように、ここを初めて訪れたのは2015年9月。3.11のあの日から、4年半も過ぎていました。実際に、現地に行くまでどのような形で津波の記憶が残されているかわかりませんでした。南米チリまで行って徒労に終わる、という不安もありました。

しかし、このプエルトビエホの浜辺を歩くと、すぐにそれは見つかりました。津波によって家屋が流され、その基礎部分だけが残された場所が点在していたのです。これと似たものを、かつての南三陸町でも何度も目にしてきました。他にも、海水に浸かって錆び付いた車も放置されていました。

日本時間2011年3月11日午後2時46分に発生した地震の津波は、確かにここチリまで届いていたのです。国と国とが海で繋がっている、世界地図を眺めるだけでは決して得られないリアリティがそこにはありました。私たちはこの事実に基づいて、南三陸町とチリの関係についてまた別の角度から考えることができるのではないでしょうか。

そして後編では、このプエルトビエホの住人の口から語られた日本からの津波について、深掘りしていきます。

 

引用文献・ウェブサイト

El Diario de Atacama(2011)” Tsunami arrasó con casas en Puerto Viejo: dramáticos Testimonios de Residentes,” March, 13th, 2011.

河北新報(2020)「チリ地震津波60年 惨状伝える写真など展示 宮城・南三陸」https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202005/20200517_13022.html

気象庁(2011)「特集1平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」http://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/hakusho/2011/HN2011sp1.pdf

志津川町(1990)『志津川町チリ地震津波災害30周年記念誌』志津川町。

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寄稿者 内尾太一
1984年岡山県生まれ。麗澤大学国際学部准教授。専門は文化人類学。南三陸町とチリ・イースター島の両方でフィールド調査を続けている。主著に『復興と尊厳:震災後を生きる南三陸町の軌跡』(2018、東京大学出版会)がある。2人の娘の父。