南三陸の里山・里海巡り+交流+サイクリング=みなチャリ!

地域サイクルガイドと南三陸の里山・里海を巡るサイクリング・プログラム「みなチャリ!」が始まりました。民家に立ち寄り地域の人と交流できるのがポイント。プログラムの特徴や入谷コースの魅力をお伝えします!

南三陸をのんびり自転車散歩する新プログラム

南三陸町観光協会がプロデュースする南三陸里山×里海サイクリング「みなチャリ!」が、「自転車の日」である5月5日にスタートしました。自然豊かな南三陸町を自転車で回りながら地域の人たちと交流する、新しいスタイルのサイクリング・プログラムです。

最初にキックオフとなったのは、南三陸町4地域のうち入谷地区を巡るコース。その名も「The Satoyama Slow Life」です。5月5日の記念すべき第1回には3人が参加し、おだやかな晴天のもと、入谷の里山風景を堪能しました。

南三陸ポータルセンターから出発!
ガイドに先導され、入谷の田園風景のなかをサイクリング

構想が持ち上がったのは201711月頃。2年ほど前からレンタサイクルのサービスはありましたが、移動手段としてだけではなく、自転車を使った町巡りができないかと考案されました。

「みなチャリ!」を担当する南三陸町観光協会の佐藤慶治さんは次のように話します。「町内を歩きながら震災被害の痕跡や復興の様子を見てもらう『まち歩き語り部』というプログラムがあるのですが、それにサイクリングを組み合わせられないかと考えました。自転車を使えば、公共交通機関で南三陸町に来られる人たちも移動範囲が広がります。車よりも気軽で、徒歩よりも遠くに行けるのが自転車のメリット。それを生かしつつ、南三陸町の魅力を深掘りできるようなプログラムを目指しました」。

「みなチャリ!」の企画・運営に携わる南三陸町観光協会の佐藤慶治さん

民家に立ち寄り「お茶っこ」しながら交流を。

「みなチャリ!」の入谷プログラムをつくるにあたって、まずは地域のことを知るための勉強会を開きました。「入谷の文化、歴史、自然など、テーマを変えて何度か勉強会を開催。自分が住む町のことでも知らないことがたくさんあって、入谷のことを知れば知るほど興味がわいてきて、勉強会はすごくおもしろかったです」と佐藤さん。

勉強会には地域の人たちにも参加してもらいました。地域の人たちと一緒になってプログラムをつくっていくためです。「『みなチャリ!』で重視しているのは、地元の人たちとの交流。「語り部プログラムでもそうですが、単なる表面的な観光ではなく、地元の人に案内してもらって話を聞くことが大事だと思っています。そのため、いかに地域の人たちに協力してもらうかがポイントでした」と佐藤さんは話します。

そうした地域との連携によって実現したのが、サイクリング途中の民家への立ち寄りです。提携している民家のうち都合のつくところに伺って、20分ほど「お茶っこ」を。その家の歴史や地域の風習などに耳を傾けながら、お茶をいただきます。

55日の参加者には、「おもてなしに感動しました」「民家におじゃましてお話をしながら休憩できるのは新鮮。とてもよい体験ができました!」と大好評でした。地域の人たちからも、「普段は来てもらえないところに足を運んでもらって、自分たちの生活や仕事の話を聞いてもらえてうれしい」と喜びの声が届いています。

民家でのお茶っこの様子。「全国各地でサイクリング・ツアーがありますが、民家への立ち寄りはめずらしいのでは。南三陸町オリジナルだと自負しています」(佐藤さん)

あらためて気づいた地元の魅力を伝えたい。

民家への立ち寄りに加え、ガイドが付くことも「みなチャリ!」の特徴です。みずからもガイドを務める佐藤さんは、「あらためて入谷地区のいろいろなことを知って、自分自身が驚いたり感動したりしました。そのワクワクをお客さんにどう伝えるか、ガイドの力の見せどころですね」と話します。

「入谷には、『生きる力』というストーリーがあります。産業の変化のなかで生活様式がどのように変わってきたかを知ってもらい、入谷の人々の生き方に学ぶことで、エネルギーをもらえる…。それが入谷コースの魅力です」。

今後、戸倉・歌津・志津川の各地区でもコースを展開していく予定。「南三陸町の豊かな自然や四季の変化を味わってもらいつつ、地元の人たちとの交流が生まれるようなプログラムづくりをしていきます!」と佐藤さんは抱負を語ります。

南三陸でのんびり自転車散歩を楽しんでみませんか?

「ガイドを務めるにあたって、自転車のメンテナンスやハンドサインなどを一通り勉強しました!」

志津川湾の魅力発信へ。新たな仲間が加入!/福岡将之さん

南三陸町にぐるっと抱かれている志津川湾。この秋に控えているラムサール条約の登録に向けて、基盤整備を一層加速するべく、この春から南三陸ネイチャーセンター準備室に加わった南三陸町農林水産課所属の任期付職員の福岡将之さんに迫ります。

海の楽しさを知り、東京海洋大学へ

東京生まれ東京育ちという福岡さんだが、海好きの両親に連れられて、小さいときから海に親しんできた。そうした影響もあってか子どものときから水辺の生き物に興味があったという福岡さん。将来は漠然と自然に関わる仕事ができたらな、という夢を描いていた。さらに、研究や実験など外で活動することが好きだったことから、自然と、高校卒業にあたっての進学先は東京海洋大学が絞られていった。

「入学してからも、漠然と、生き物の調査をできたらな、という思いだったんですけど、魚系は研究対象としても人気があって、既に知識も豊富な人が多くて、自分のような軽いノリじゃとてもついていけないな、と。そんなときに出会ったのが海藻でした」と笑う。

福岡さんが目をつけたのが、藍藻(らんそう)という藻類の一種。藍藻とは、水槽に出てしまう緑色のふわふわしたものも、池や沼などの淡水でも、海水でも、さらにはコンクリートまでどこにでもいる細菌の一種だという。

「生物の進化の課程で取り残されたようないちばん原始的なものなんですよね。私たちが暮らす自然の中の、どんな環境でも生育していて、さらに私たちは本当によく目にしているものなのに研究が全然進んでいないニッチな分野だったんです。こんな原始的なものが、大自然の中でちゃんと生きているんだって実感できるし、旅行していてもどこでも出会うことができるのが楽しいんですよね」とまるで友達かのように楽しそうに話す福岡さんの姿が印象的だ。

福岡さんが研究を進めている藍藻の一種

ネイチャーセンターの再建へ、南三陸へ移住

そんな福岡さんは、大学院博士課程2年を休学して、縁もゆかりもなかった宮城県南三陸町で南三陸町農林水産課所属の任期付職員として働くことを決意した。そのミッションを一言で表すならば、「ネイチャーセンターの再建」をバックアップすること。

ネイチャーセンターとは、震災以前戸倉地区にあった「南三陸町自然環境活用センター」の別名。地域密着型の研究や「海藻おしば講座」「サイエンスキャンプ」などの教育プログラム、さらに「エコツアーマスター、シーカヤック指導者養成」などの人材育成も行われていた。しかし、2011年の東日本大震災で被災。子どもも大人も、町の豊かな自然環境・生きものに触れることのできたこの施設の再興を、町民有志とともに目指してきた。

「津波によって過去の標本データなども流出してしまっています。それらが手をつけられていないまま残っていることも多いので、磯などに行って採取したものからまた標本を作っています」

これまでの研究活動や知識を生かし、若いながらも即戦力として活躍が期待されている。

はじめて訪れた南三陸の光景に驚きを隠せなかった

福岡さんは、学校の教授からネイチャーセンター準備室のスタッフ募集の話を聞いたという。「じつは2018年1月に面接で南三陸を訪れたのが初めての南三陸でした」。初めて南三陸に訪れたときの感想を尋ねると「あまりの更地、盛り土の状態のままであることが多くて、正直びっくりした」と振り返る。

「東日本大震災が発生したのは、高校の卒業式の日でした。家に帰って見た津波の映像に衝撃を受けたことは今でも覚えています。ですが、月日がたつにつれて、日常に戻っていて、今では東京にいたら東北のことはまったく話題にのぼらないんですよ。忘れていたようななか、初めて訪れたということもあって、衝撃も大きかったですね。実際に行ってみないとわからないことが多いなって改めて実感しました」

湾のおもしろさに魅了されていく

着任してから2ヶ月。既に志津川湾の魅力の一端に触れ、研究活動のなかで全国各地に赴いていた福岡さんにとってもおもしろさを感じているという。

「寒流と暖流が交わる志津川湾は生き物の種類も量も多いし、さらに珍しい生き物も多くいる。そして震災前からこの湾の魅力に気付いて、研究をされてきていたというところがすごいと感じています」と話す。

こうした特異な環境があったとしてもそれに気付けず見過ごされているところも多いという。しかし南三陸は違った。だからこそ「ネイチャーセンター」の意義は大きい、と感じている。「ネイチャーセンターという拠点がまたできたときに、さまざまなことがスムーズにいくように整備をしていくことが与えられた役割だと思う」という福岡さん。

震災によってその研究の系譜が一度途切れてしまった南三陸町。その整備を行う福岡さんの仕事はきっと大きな意義をもつことになるだろう。世界に誇る志津川湾に向けて。一歩ずつ、確かに、歩みをすすめている。

志津川湾って、すごい!シリーズvol.1 「こんな特別な海なんだ!!」

南三陸なうの閲覧者のみなさま、こんにちは。海研一(うみけんいち)です。今年一年、南三陸なうで、志津川湾が世界に誇れる海であることをお伝えせよとお達しがあり、”えっ?!世界70億人すべてが旧知のことを今さら…”という思いがありましたが、ラムサール条約登録湿地にもなるであろうこのタイミングに復習もいいかなと書き綴らせていただくことになりました。

暖流と寒流がぶつかり合う珍しい場所

海研一(うみけんいち)って誰って?南三陸・海のビジターセンターをお守りさせていただいていますNPO法人海の自然史研究所メインキャラクターでございます。みなさま、お見知りおきのほどを。

さて志津川湾、何がすごいってまずひとつめは、暖かい海で見られる海藻のアラメと冷たい海を代表する海藻のマコンブが両方見られる湾だということ。これは結構珍しいことで、志津川湾の沖合が、暖流の黒潮と寒流の親潮がぶつかり合う世界有数の場所であることが大きく関係している。

時には、沖縄の海にいるような熱帯魚の仲間も、冬を越すことはできないけれども(死滅回遊魚と言います)見かけられることもある。

加えて、北の方からは津軽暖流という日本海を北上する対馬海流が分かれて津軽湾を抜け南下してくる海流もあって、これらの複合でほんとうに様々な生き物たちが生息する多様性の高い湾になっている。海藻の種類では180種を超える確認がされているのはすごい。

分水嶺に囲まれた町

もうひとつあげられるのは、湾に注ぎ込む陸域からの水が、ほとんどすべて南三陸町ひとつの町に降った雨が源であるということ。町の境が、町を囲む山の稜線とほぼ一致している、すなわち降った雨水の流れ出す方向を分ける”分水嶺”と一致していることから、こういったことがおこる。

森に降った雨が海まで流れつく途中には、町の人々の暮らす場所があり、そのさまざまな営みを経て水が海に流れていく。ということから、志津川湾がどうなっていくかは町の営みに左右されると言っても過言ではない。湾の状態が、町の営みや海や自然に調和しているかどうかのバロメーターになるということで、まさに森と里と川と海が繋がっているとわかる。すごい。

震災前から研究者が集っていた土地だった

多様性が高く、その海が人の暮らしと深く繋がっていることは、自然科学分野でも人文社会学的にも研究対象として非常に貴重であり、震災前も後も多くの研究者がこの地に集ってきた。そのおかげで、さまざまなことが記録されており、それが礎となってまた新たなことが見出されていく。この連鎖がおこっていることも志津川湾がすごいと言えることのひとつである。結果として、三陸復興国立公園に編入され、あらためて記述する機会があるがラムサール条約湿地に登録される候補地ともなっている。

今回の南三陸なうでは、志津川湾のすごさの基礎事項を紹介しましたが、これから1年にわたって多面的に伝えていこうと思います。もう知っているということもあるでしょうが、飽きずにお付き合いいただければと願うところであります。海研一でした。

オールマイティに活躍し、企業家をサポート/佐藤和幸さん

南三陸町に移住し起業活動をおこなう「地域おこし協力隊」隊員を紹介していく連載企画。第1回は、2017年に着任し他の起業家たちをサポートするオールマイティーな活躍を見せる佐藤和幸さん。自身が起業する立場でなく、縁の下の力持ち的なはたらきで地域に貢献する佐藤さんをご紹介します。

起業家たちを支える“事業創造支援員”

地方の人口が減少し、都市への人口集中が問題になっている昨今、総務省の取り組む「地域おこし協力隊」の制度が注目されています。都市圏から地方へ移住し、地域協力活動をおこなう人に、3年間を上限に活動費と人件費が国から支給される仕組み。南三陸町ではこの制度を活用し、町の資源を活用した新たな産業の創造に挑戦する起業家を誘致する“NextCommonsLab南三陸”(ネクストコモンズラボ/以下、NCL)に取り組んでいます。

佐藤さんは2017年の春に地域おこし協力隊員に着任し、現在2年目に入ったところ。“事業創造支援員”という立場のもと、自身がプロジェクトをもち起業するのではなく、町に移入してきた起業家たちのサポートをするのが役目です。

「起業家といっても起業経験のない人たちがほとんどなので、一緒に伴走しながら事業を立ち上げて行くお手伝いをしています。自分1人でなにかをするより、いろいろな人のお手伝いをしてたくさんの動きが起こる方が、全体としての地域へのインパクトが強くなると思っています」と、周りの人を支えることにやりがいを感じているそう。

事業の計画をつくったり、どうやって組織を立ち上げるのかなど、前職での知識や経験を活かし、協力隊員たちの相談に乗ったりアドバイスをしたりする、頼れるお兄さんのようなポジションです。新しい隊員の募集をしたり、応募者の方々に町の魅力を伝えることにも取り組んでいます。

NCL南三陸の掲げるねらいは“地域のレジリエンスを高める循環モデル”をつくること。難しい言い回しですが、簡単にいうと「復活する力をもつ地域をつくること、スポンジをぐっと押した後に、元の形に戻るようなものです」と説明してくれました。

先の震災のような大きな災害が発生したり、町になんらかのダメージが加わった時、たとえどこか一部が破たんしても、なんとか生きていける地域をつくっていく、その手段として、町の総合計画にも掲げられている“循環”の仕組みを実現させることが目標です。「ガッチリとした強さというよりは、柔な感じ、しなやかな地域をつくっていきたい」とイメージを語ってくれました。

現在、佐藤さんを含め8名の協力隊員が町で活動しています。農業や海産物の活用、森林資源やバイオマスなどの自然資源を活かしたエネルギー事業など、スポンジのような地域をつくっていく様々なプロジェクトが検討され、すでに動き始めています。この連載で今後、それぞれ詳しく紹介していきます。

「南三陸町には、新しいことをやってみようという意欲や前向きさ、実際に動いてみる力を持った人たちが、地元にたくさんいる。町の人たちから前向きな熱量を感じ、それが魅力だと感じている。そこに移住してきた熱意のある人たちが加わり、一緒になって地域をつくって行ける、そんなところがNCLのすばらしい仕組みだと思います」と、町の今後の大きな動きに期待を膨らませます。

福島から宮城へ

そんな佐藤さんは、福島県新地町の出身。海辺に面し、宮城県との県境の、いわゆる浜通りの最北端に位置する町です。福島市などに出るより近く、生活圏としては仙台市の方がなじみ深い暮らしだったそうです。大学を卒業した後電力関係の会社に勤務し、財務や経理、総務、危機管理などいろいろな部署を担当しました。

「原発事故の発生した後、電力会社にいた経験もあり、被災地に対してなにか責任のようなものを感じていた。南三陸で活動したいと思うきっかけの1つでもある」と、この頃の経験が今にもつながっているそうです。

30歳で早期退職したのち、一念発起し法科大学院に入学。真面目な性格から連日20時間を超える勉強を続け、体調を崩すほど勉強漬けの日々。そんな学生生活中に、東日本大震災が発生しました。大学を休学し、持っていた行政書士の資格を活かした、被災者向けの相談センター業務に関わり始めます。被災した方の休業補償や、原発被害にあった方の損害賠償書類の作成などが主な仕事でした。

その後、名取市や栗原市でのコンサルティング業務にも関わってきました。農業や福祉、食品加工施設の立て直しに、飲食店や温泉施設の立ち上げまで、現在と同じように、地域のいろいろな経営者の相談相手となりサポートするような現場で活躍しました。

そんな折、南三陸町での起業家支援の協力隊員募集を目にし、担当者と面識があったこともあり興味を持ちました。「もっと熱意のある人たちのお手伝いをしたい、今までいろいろと事業を立ち上げてきた経験や、財務・経理・法律などの知識できっと役に立てるはず」と、南三陸での取り組みに加わることを決意しました。

趣味も多彩な佐藤さん

町に移住して1年間は、戸倉中学校のグラウンドに建設された仮設住宅に住みました。夏は暑く冬は寒いという仮設住宅での生活を経験し、「仮設住宅に住んでみるという経験ができたことはよかった。災害時などにこういう場所に住まなくてもいいような対策を考える、これも取り組むべき町づくりの1つだと思う」と、過酷ながらも地域の被災した方々の気持ちにちょっと近づいたような、そんな経験を積めたと振り返ります。

こうした経験もあり、「災害時に限らず、1年くらい気軽に住める、トレーラーハウスやモジュールハウスのようなものがあってもいいのでは」と感じたそうで、最近入手したキャンピングカーの活用をいろいろと模索しているところ。

現在は志津川に一軒家を借りて暮らしており、休みの日にはさんさん商店街のNEWS STAND SATAKEでコーヒーを飲んだり、入谷のお蕎麦屋さん風庵でおそばを食べたりして過ごしているそう。「以前の通勤路だった黒崎のパーキングから眺める志津川湾が町で好きな風景です」と、町の豊かな自然景観とその中での暮らしにとても満足しているようです。新しい家の庭先で小さな畑をやることが今年の目標とのこと。「キャンピングカーも畑も趣味ではありますが、NCLの取り組みにもつながる部分があって、いずれ役に立つ時があると思う」と、まじめな人柄を見せてくれました。

実はサーファーだったり応援団活動をしていたりと意外な一面もある佐藤さん。年に1回は羽黒山に1週間の山籠もりをし、山伏修行も熱心におこなっています。修行の内容は秘密だそう。「今年は修行3年目で、いろいろな新しい人たちと出会えるのもいい点ですね」と、辛そうな修行も楽しんでいるようです。最近は法螺貝を手に入れたそうで、どこかの山から聞こえてきたら佐藤さん天狗かもしれません。

地域おこし協力隊員の活躍を、もっと知ってほしい!

「今年はNCLの各プロジェクトが形になっていって、町の人たちにわかりやすく見えるように、伝わるようにしていきたい」と今年の目標を語ってくれました。これまでの経験や修行の話など、面白い話をたくさん持っている人です。ぜひ話しかけて、NCLのことや佐藤さんのこと、いろいろと聞き出してみてください。

2018年5月31日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

写真をクリックまたはタップすると大きくなります

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

パノラマ

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

パノラマ

パノラマ

パノラマ

パノラマ

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

パノラマ

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小さいころから大好きな地元の魅力を全国へ/佐藤可奈子さん

南三陸に生きる⼈を巡り、⼀巡りしていく連載企画「南三陸ひとめぐり」。第23弾は今年、南三陸町に戻り観光協会で大好きな地元の魅力を発信する佐藤可奈子さん。小さいときから、これまでの歩みを振り返ります。

小さいときから、町が大好きだった

春の訪れとともに、町には全国各地からの観光客が訪れる。そんな観光客の窓口となる南三陸町観光協会に、ひときわ元気のよい声が響いている。

南三陸町志津川出身の佐藤可奈子さん、21歳だ。2018年1月より、南三陸町観光協会で勤め始め、現在はアンテナショップやイベントなどで南三陸町の物品をPRする物販担当として、そして毎月月末に開催されている福興市の担当として、持ち前の明るさと人懐っこい性格を生かして活躍している。

南三陸町志津川荒砥地区がふるさと。小さい頃から地元の海や里で遊ぶことが大好きで、将来もこの町で暮らしていくことを疑わなかった。「都会に行きたいといった憧れは小さいときからまったくありませんでした。母親が働いていた化粧品店で遊んだり、松原公園で体を動かしたり、おばあちゃんといっしょにアサリをとったり、地元で楽しむことが好きだったんです」

なかでも強く印象に残っているのが、ジュニアリーダーの開催するイベントに参加したことだという。「小学生だったころ、ふるさと学習会というのがあって、ジュニアリーダーのお兄ちゃん、お姉ちゃんといっしょに2泊3日で地域のことを学ぶ機会があったんです。イカダ作りをしたり、野鳥の森に行って自然や生き物と触れ合う機会も多かった。そうしたことからこの町のことが好きになっていったんだと思います」

大好きな町の被災を直に受け止められず

そんな大好きだった町が一変した大震災が起こったのは、彼女が中学1年生のとき。志津川中学校で被災した。体育館に身を寄せていた彼女は、町が津波で飲み込まれていく光景を直接目にすることはなかった。「今になって思えば、体育館にいたということはきっと周りの大人達の配慮だったんだと思う」と話す。

「翌朝見た町並みは、まったく馴染みのない景色で。ドラマみたいで、受け止めきれず、まったく現実味がなかった。なにを失ったのかもわかっていなかったのでしょうね」

そんな状況のなか、佐藤さんは自分のできることを探していた。佐藤さんの実家のもっとも近くの避難所は南三陸町総合体育館ベイサイドアリーナ。そこは南三陸町最大の避難所となっていた。中学に入学したと同時にジュニアリーダーとして活動していた彼女は、時間があればその避難所に通いながらベイサイドアリーナに身を寄せていた子どもたちの遊び相手となっていた。

「支援物資で送られてきた縄跳びを使ってみんなで遊んだり、家にあった漫画本を持ってきたり、トランプを持っていったり。子どもには好かれやすい性格だったんですかね。ちょっとした時間に遊んでいるうちに、避難所の子どもネットワークがいつの間にか出来上がっていっていたんですよ」。

中学入学と同時に始めたジュニアリーダーの活動は高校卒業まで続けた

「町のために」奮闘する大人に触発されて

震災からわずか1カ月ほど。まだまだ日常生活には程遠い状況のなか、商人たちが立ち上がり開催された「福興市」。そこに佐藤さんは足を運んだ。

すると、「ジュニアリーダーの活動のときにお世話になっていた顔なじみの役場職員の方から『なにぼーっとしているんだ、いいから手伝え!』と怒られたんですよ。私はただぶらりと覗きに行っただけだったのに」と笑う。「でも、こんな大変な状況なのに『町のために』とか、『町をなんとか盛り上げよう』と頑張っている大人たちの姿はとてもかっこよくて、とても刺激になった」と、この経験が佐藤さんがこの町でなにかをしたいという想いを抱くきっかけの一つとなっていく。

地元志津川高校に進学し、COMという団体に所属しながら仲間とともに町の魅力を伝えていく活動も実施。「南三陸の中高生向けに町の隠れたスポットを紹介しようとリーフレットを作成したんです。入谷にある巨石はそのときに初めて知ったり、神割崎も伝説があるってことを初めて知りました。『この町、思ったより楽しいぞ』って友達を話していた記憶がありますね」。多くの人と関わりあいながらこの町の新たな魅力も知った高校時代は彼女にとって貴重な時間となった。

観光協会職員として町の魅力を全国へ

高校卒業後、一度は町外で就職したものの、今年から地元の一般社団法人南三陸町観光協会に活躍の場を移した。もともとこの町に暮らし、成長してきた彼女は知り合いも多い。しかし、そんな顔見知りの人たちと仕事として接することができるのが「すごく新鮮」と彼女は話す。「『あ~どこどこの娘だっちゃ。こんなに立派に大きくなって』って言ってくれて。そして二言目には「『戻ってきてくれてうれしい』と口を揃えて言ってくれる。そのことが本当にうれしいんです」

小さいときからなんとなく大好きだったというこの町。観光協会に身を置いて活動をしていくうちに、実感してきたことがあるという。

それは「ここならではの小さなネットワークが無数に存在しているということ。そして、その人と人とが関わりあいを持ちながら、さまざまなアクションが起きている町だということ。まだまだ知らない魅力がたくさんあふれている町なんだ」と、新しい発見の毎日を過ごしている。

昨年、晴れて成人式を迎えた彼女。大学に進学した同級生たちは、そろそろ就職活動を迎える頃合いだ。地元に戻り活躍する彼女のもとに「南三陸に戻って働ける場所ってあるかな?」という連絡がくることもある。

「きっと、同年代で今は町の外に出ている人でも、町に愛着があったり、町で働きたいという想いがある人も多いはず」と話す彼女。

きっと彼女自身が架け橋となって、若い人が南三陸に戻ってくるきっかけとなることがあるだろう。この町を今は離れている同級生に向けて、全国にいる南三陸ファンに向けて、そしてまだ南三陸を訪れたことのない多くの人々へ。「大好きな町」の魅力を全国へ。そんな若者の想いがこの町を創っていく。

地域みんなの好々爺/古澤孝夫さん(92歳)

南三陸町で元気にたくましく生きる人たち。さまざまな輝きをもつ南三陸の人たちを紹介していく新コーナー「南三陸きらめき人」。第1回は今年92歳となる古澤孝夫さん。今でも、畑作業に、趣味に、人付き合いに、と精力的な毎日を送っています。

80歳になってから独学でパソコンを勉強

「こんなもの作ったんですよ。」と渡された2冊の句集(鼓動)を拝見した。

『上げ潮も 限りとなれり 暮れがたの 橋わたりゆく 人らの見ゆる』

襖紙の表紙、優に100首以上は掲載されていると思われる冊子のページをめくりながら、「渾身の一句はどれですか?」と伺ってみた。

「全部!!みな気に入ってる!」即答だった。

絶対何かの大会で入選した句を紹介してくれると思っていたが、古澤さんにとってはどれも捨てがたい思いのたけ、心の叫びなのだろう。80歳から始めたパソコンを駆使してまとめ上げたという自作の句集を手に、満面の笑みで語ってくれた。

大正15年生まれの古澤孝夫さんは、今年9月で92歳になる。郵便局勤務の傍ら、大好きな俳句や短歌・川柳を趣味にしていた。

『上げ潮の…』は、昭和33年の作品。この挿絵(写真)から察するに、志津川の中心部を流れる八幡川の満潮の川面と「なかばし」を渡る住民の方々を眺めて詠んだものではと勝手に解釈してみた。

定年退職後、80歳になるころ息子からパソコンが贈られた。

昔からラジオなどに関心があり防府海軍通信学校を卒業されている経歴から、抵抗なく手にすることができ、操作方法さえも独学で覚えたと豪快に笑う。そのパソコンで、所属している老人クラブや地域の会合資料を自ら作成し続けている。

東日本大震災で、八幡川のそばに建っていたご自宅は流失してしまった。

しばらくは町外に暮らす三人の子供たちのお世話になったが、登米市南方に仮設住宅が整備されると、奥様と二人そちらに移られた。

もともと社交的でお世話役を買って出る性格もあり、大所帯の仮設住宅団地のリーダーになるのにさほど時間はかからなかったし、期待通りまとめあげていた。自治会運営はもちろん、趣味の活動(川柳クラブやグラウンド・ゴルフ)にもなくてはならない存在であった。

志津川に戻ってきて3年

三年前、志津川東地区に整備された造成地にご自宅を再建、庭に菜園や花壇も作り新たな生活に入りながら、馴染みの方々の帰還を待っていた。災害公営住宅や自宅再建への移転事業が完了し、ようやく隣近所の顔ぶれが分かってきた今、新たな自治会の設立が求められており、旗振り役が必要となっていた。

「古澤さん、期待されているんじゃないですか。」

「もう10年若かったら手を上げるんだけど、最近ダメだね。」

らしからぬ弱気な言葉が返ってきた。これまでの経験から、区長はじめ役員の最適任者だと自他ともに認めるのだが、本人曰く『寄る年波には勝てない』らしい。

それでも、地域コミュニティーの再構築や日常生活の課題など堰を切ったように流れ出る言葉には若々しささえ感じるので、その立場にならないとはとても残念なことだと言うと、「なり手がいないんだよネ。まだみんな落ち着いていないからな。」と呟いた。

「それでも、いろんな人に声かけて、毎月一回集会所でお茶飲み会や誕生会なんかもやっているんだよ。ゲストを呼んだりちょい呑み会やったり、50人くらい集まるようになったね。」実に嬉しそうに話してくれた。

志津川は、水と空気がうまい!

「志津川に戻られての暮らしはどうですか?」感想を伺った。

「南方(登米市仮設住宅)より、水と空気が…《一呼吸おいて》うまいね!」

奥様も大きく頷く。

「あと、いろんな人が獲れたての海産物持って来てくれんのよ。」

「ワカメ、ホタテなど、海のモノは最高だね。」

昔からの知人はもちろん、避難所や仮設住宅で仲良くなった方々と繋がり続けているのも嬉しい事だと笑顔が膨らむ。

「仮設住宅で知り合った学生さんたちが、何回も来てくれたり。それがとても嬉しい。」とも。一方、いつまでも支援に甘えるわけにはいかない、もう自主的に動かないといけないと今後の暮らし方にも言及する。

2冊の句集の他、『年譜抄』という題名の自分史と『残照』という短歌集も披露してくれた。

古文書のような家系図など手作りの宝物を手にして、「地震直後、家内が自宅から持ち出した貴重な原本があったからこそこれがある。」と、照れることなく奥様に向かって感謝とねぎらいを伝える。

そんな素敵な古澤さんだが、

「最近目が疲れるね。20分くらい画面見ていると苦しくなる。さすがに歳だな!」

「20分?!何見ているんですか?」

「将棋だね。面白いよ!」

好奇心旺盛の古澤さんは、新しい街で畑作業も、パソコンもグラウンド・ゴルフも人付き合いも楽しくこなす気さくな好々爺だ。

ご夫婦の笑顔を見ながらお茶を頂いて、このように年を重ねたいものだと感じた。

最後の赴任地、柳津郵便局時代に住んでいた地区名から『谷木一郎』というペンネームを名乗り短歌大会で入賞するほどの作品を生み出すなど、多岐にわたる才能をいかんなく発揮している。

【風にさからい 唸りて 揚がる おさな子の 凧かたむけば われもかたむく】

新しいご自宅からは、病院・公営住宅・役場そしてかつての職場である郵便局が見える。

プロフィール

*古澤孝夫(ふるさわたかお) 大正15年9月25日生まれ
防府海軍通信学校卒業 宮城県志津川高等学校卒業 宮城いきいき学園卒業
元柳津郵便局長 元行政区長 元民生児童委員 現南三陸町老人クラブ連合会会長
著書 自分史「年譜抄」 歌集「残照」 短編集「鼓動」

南三陸町の海産物を堪能!「若手漁師軍団と牡蠣に酔いしれナイト」

4月28日、仙台市国分町にあるフレンチレストラン「ビストロアンコール」で南三陸の海産物を堪能するイベントが開かれました。イベントでは南三陸町の漁師も招かれトークなども実施。また海産物だけではなく、南三陸町で栽培されたリンゴを使用したシードルも振る舞われ、参加者は舌鼓を打っていました。

「世なおしは、食なおし」NPO法人東北開墾が主催

4月28日、「南三陸の若手漁師軍団と牡蠣に酔いしれナイト」というイベントが仙台市国分町にあるフレンチレストラン「ビストロアンコール」で開催されました。主催は、『東北食べる通信』という情報誌と食材がセットになっている情報誌を発行している「NPO法人東北開墾」。岩手県に拠点を置き、「世なおしは、食なおし。」という大きなテーマを掲げ活動している団体です。

『東北食べる通信』は約5年前から開始。毎月発行しており特集した食材と共に、生産者の想いや苦労、食材の知識、調理法などが詰まった情報誌をセットにしてお届けしています。全国に約1200人の読者がおり、そのうち6割が関東圏、3割が東北だそうで、震災から7年経った今でも東北に関心を持っている人は多いようです。

限定20人が参加!海の幸をふんだんに使ったフルコース

当日会場には東北食べる通信の購読者や、会場である「ビストロアンコール」の常連さん含め、24人が参加。中にはわざわざ愛知県から足を運ばれた方もいました。毎回イベントでは集客に苦労するとのことでしたが、今回のイベントではキャンセル待ちが出るほどだったそうです。

イベントでは料理を味わうだけでなく、南三陸町戸倉地区の若手漁師4人が招かれ、料理に使われた食材の説明などを行いながらイベントは進みました。料理は全部で9品提供され、牡蠣だけでなく今から旬であるホヤを使った料理や栗カニ、魚を使った料理など、志津川湾で獲れた海産物のフルコース。出されたお洒落な料理に会場はもちろんのこと、若手漁師4人も驚いていました。

また料理だけでなくドリンクも、現在秋保ワイナリー協力のもと開発が進められている南三陸町入谷地区で栽培されたリンゴを使用したシードルが振る舞われました。参加された方々は南三陸町の食材を存分に堪能することができたようです。

トマトベースのソースがかけられており、フレンチ風にアレンジされた料理「ホヤのカスパチョ」
フランス語で「ブイヤベース」とは漁師鍋と言われるそうで、漁師自ら器に盛りつけていました
南三陸町で栽培したリンゴを使用したシードルが振る舞われた

シェフ自ら南三陸町に足を運ぶ!そこで感じた他とは違う美味しさ

イベント開催のために、わざわざ南三陸町から海産物を取り寄せ前日まで試行錯誤してメニューを考えた林俊介シェフ。なんとイベント開催に至るまでにシェフ自ら、南三陸町の牡蠣養殖を視察しに訪れたこともあるそうです。実際に足を運ぶ前に試食した牡蠣も「市販で売られている牡蠣とは違い、素直に美味しいと思った」と話す林シェフ。他とは何かが違うかもしれないという期待も持って足を運んだそうです。

林シェフは「三陸の食材だから使っているという訳ではなく、本当に美味しい食材を使っている」と話しており、戸倉の牡蠣はシェフも唸らせたようです。またイベント開催までの間、戸倉地区の漁師から直接牡蠣を買い付け、ランチでもその牡蠣を提供していたそうで、とても好評だったそうです。

「今後も南三陸町の牡蠣を使って行きたい。漁師から直接買える利点を活かしつつ、漁師達の手助けになれば良いなと思う」と話していました。ちなみにイベント用に考案したメニューは今後お店で提供するかもしれないということでした。

ビストロアンコール店主 林俊介シェフ

新たな“食”の楽しみ方!生産から消費が見えることでやる気UP!?

トークでは会場のお客さんからの質問だけでなく、「生牡蠣と加熱した牡蠣どちらが好きか?」と漁師からの質問もあり、「本来生牡蠣の出荷は3月末までだが、多くの人が生牡蠣の方がということであれば今後生牡蠣を提供できるよう若手漁師達で工夫していきたい」と意気込んでいました。お客さん達からは「若い人達が、こうやって頑張っているのを見ると頼もしい。どんな形であれ協力していきたい」、「なかなか生産者と話す機会がないので、楽しめました」と話していました。

イベント終了後、漁師達に話を聞いてみると「消費者から直接話が聞けるのは嬉しい。今後の展開に活かしたい。」と話しており、消費者だけでなく漁師達に取っても貴重な体験になったようです。若手漁師達のこれからの展開も楽しみです!

イベント最後には豪華賞品を賭けた力自慢の漁師達による腕相撲大会が行われ盛り上がりました

東北食べる通信副編集長の成影沙紀さんは「スーパーに並んでいる商品は価格や栄養などの表示だけで、どこの誰が、どのようにして、どんな想いで生産しているかが分からない。食を支える一次産業者は減少している現代だからこそ、便利なものを食べるだけではなく、作り手の想いを考えながら“食”を楽しんでほしい」と挨拶。

また「情報誌はもちろん、こういったイベントは生産者と消費者の関係を築く入り口に過ぎない」と話しており、生産者から直接買える場、生産者と消費者が交流する機会を提供しているそうです。何より「漁師達はもちろんのこと、生産者達が消費まで見ることができる関係が大切で、生産者のやる気やモチベーションにもつながる」と話していました。

東北食べる通信 副編集長:成影沙紀さん

「いただきます」「ごちそうさま」に込める想い

本来、食とは命を頂く行為で、「いただきます」「ごちそうさま」はただの挨拶や礼儀作法ではありません。命を頂く、生産者や料理作ってくれた人への感謝などの想いを込めた「いただきます」「ごちそうさま」が本来の形だと取材を通して改めて感じました。そんなことを想いながら食べる料理は、普段とは一味もふた味も違う料理になるかもしれませんね!

また、たくさん意見や貴重な交流を経て若手漁師達のこれからの展開も楽しみです!

NPO法人東北開墾公式HP https://kaikon.jp

東北食べる通信公式HP https://tohokutaberu.me

戸倉若手漁師軍団の4人(左から、三浦正幸さん、三浦将平さん、後藤新太郎さん、後藤伸弥さん)

復興団地に高齢者生活支援施設「結の里」オープン

志津川東団地の隣に、デイサービス施設と交流スペースからなる「結の里」がオープン。住民参加でつくる福祉施設として、多世代が集うにぎわいの場とすることを目指します。

高齢者福祉とコミュニティづくりの拠点に

志津川地区に新しく高齢者生活支援施設が造られました。町の中心部で、高齢者福祉とコミュニティづくりの拠点となることが期待されます。

震災後、住まいの再建が進むなか、公営住宅におけるコミュニティづくりが重要な課題となっていました。南三陸町は平成25年度から、高齢者が住み慣れた地域で暮らし続けられる環境づくりについて検討を重ねてきました。ハード・ソフト両面にわたり多くのアイデアが出されるなか、今回オープンした施設の構想が生まれました。

施設の半分は、定員17名のデイサービス施設。2室のデイルーム、ベッド付き静養コーナー、厨房、バリアフリー対応の浴室を備えています。残りの半分は、社会福祉協議会の事務室と、多目的の交流スペース。事務室は介護相談窓口や高齢者見守り拠点の機能をもちます。

4月27日に行われた落成式には、行政や建設の関係者など来賓約60名のほか、公営住宅の住民も足を運びました。佐藤仁町長は、「全国的にもあまり例を見ない複合的福祉施設であり、専門的かつ技術的な知見が必要だった。ご支援いただいたことにあらためて感謝を申し上げたい」と述べました。

「結の里」名前にこめられた願い

施設に隣接する志津川東団地は、入居者の半数以上が高齢者。東団地は、町役場や病院、スーパーなどが近くにあり、町内では比較的便利なエリアです。4月下旬には新しい町道が開通し、市街地にもアクセスしやすくなりました。向かいにはあさひ幼稚園があり、多世代交流も期待されます。

団地では以前から、サークル活動やイベントを通したコミュニティづくりが行われていました。その流れを引き継ぎ、この施設は「交流」を軸としています。地域に親しまれる施設にするべく、施設の愛称は公募で決められました。決定した名前は「結(ゆい)の里」。「手と手を結ぶ 笑顔を結ぶ 心を結ぶ」という意味が込められています。

施設には交流のためのカフェやウッドデッキが設けられています。公営住宅に面する広場の愛称は、志津川高校の生徒から募集。「色々な方々と町民がふれあいにぎわう場所になってほしい」という願いから、「リアスふれあい広場」に決まりました。落成式後には、あさひ幼稚園、入谷ひがし幼児園、コール潮騒などによるイベントが行われたほか、ウィメンズアイ、のぞみ福祉作業所など町内有志団体によるブース出店もなされ、広場は温かなにぎわいに包まれました。

町民と共に、南三陸カラーの施設をつくる

今後も町民と共につくる施設を目指している結の里。昨年度からは、住民ワーキンググループが組織され、交流スペースやウッドデッキの活用について議論を重ねてきました。

ワーキンググループで活動した住民はステージ班、カフェ班、食堂班に分かれ、落成式当日のイベントを企画・実施しました。ステージ班で司会を務めた鈴木清美さんは「住民だけでなく、高齢者も障がい者もみんなが集まれる場所をプランしたい、という声は多く出ている。具体的にどう進めればいいか、これから考えていきたい」と話します。

住民検討会の運営に関わったジオ・プランニングの塩路安紀子代表取締役は、「住民の方々が安心して暮らしていけるよう、日頃から気軽に使っていただき、この建物がゆっくりと、南三陸らしい魅力を発揮していくことを願っている」と語りました。

結の里が、まちに暮らす人々とともに、どんな集いとにぎわいの場になっていくのか。南三陸町のコミュニティづくりは、新たな一歩を踏み出しました。