AKBグループメンバーと一緒に南三陸町ジオラマを作ろう!

AKBグループメンバーと南三陸町の子どもたちがジオラマ作りを行う「南三陸町ジオラマプロジェクト」がスタート! 5月4日にAKBグループメンバー6人が入谷YES工房を訪れ、キックオフイベントが開催されました。

GWに入谷YES工房でキックオフイベント開催!

201854日、拍手と歓声のなかAKBグループメンバー6人が入谷YES工房に登場しました。目的は南三陸町の子どもたちとのジオラマ作り。子どもたちがジオラマで自分が住みたい町を表現する「南三陸町ジオラマプロジェクト」のキックオフイベントです。

参加したAKBグループメンバーの自己紹介の後、AKBグループのファン代表より、「夢と希望があふれる復興、そして楽しいジオラマ製作となりますように」と、ジオラマのベースとなる台座が寄贈されました。

キックオフイベントに駆けつけてくれたAKBグループメンバーの6人。右から、プロジェクトリーダーの後藤萌咲さん(AKB48)、岩花詩乃さん(HKT48)、湯本亜美さん(AKB48)、佐藤朱さん(AKB48)、山尾梨奈さん(NMB48)、西澤瑠莉奈さん(NMB48)

メンバー6人が1人ずつ6テーブルに分かれ、ジオラマ作りがスタート。メンバーが南三陸町の杉材を使用したキットで家を作り、まゆ人形の住人を子どもたちが担当することに。メンバーと子どもたちとで何を作るか相談し、必要なキットと材料を選び、スタッフのアドバイスを受けながら製作を進めていきました。

ひとつひとつパーツを確認しながら組み立てていきます
細かいところは慎重に…
家ができてきました!
パーツを連結させれば2階建になるキットも

南三陸町でAKBグループメンバーとファンが交流を

組み立てた家に色を付け、約1時間後、カラフルな家と住人のまゆ人形が完成しました! 「楽しかった!」と、子どもたちもAKBグループメンバーも満足した様子。作ったジオラマは台座に設置され、さんさん商店街に飾られる予定です。

自分の家と住人のまゆ人形が完成して喜ぶ子どもたちとメンバー
製作終了後、「とても楽しかったです。プロジェクトのリーダーとして、引き続きがんばります!」と挨拶する後藤萌咲さん(中央)

キックオフイベントが無事に終了し、入谷YES工房の大森丈広さんはホッとした表情に。「1年越しの企画がようやく実現して感無量です。被災地に想いを寄せてくださっているAKBグループのみなさんと、南三陸町ジオラマプロジェクトをサポートしてくださっているAKBグループファンの方々には、心から感謝しています」と大森さん。

「将来の町づくりを担うのは子どもたち。ジオラマ作りによって、子どもたちが楽しみながら町づくりに関われたらと思っています。また、このプロジェクトを通して、ファンの方々が南三陸町に足を運んでくださり、南三陸町がAKBグループメンバーとファンのみなさんの交流の場となってほしい…。そんな想いでプロジェクトを進めていきます!」と、プロジェクトの趣旨と意気込みを話してくれました。

AKBグループメンバーと南三陸町の子どもたちによるジオラマ作りは始まったばかり。どんな町ができていくのか、これからが楽しみですね!

南三陸杉のキットやまゆ細工、オクトパス君をモチーフとした窓枠など、南三陸町ならではのジオラマに

第1話 決断の時は意外と早い!どこで産むか問題(前編)

この連載では、移住者夫婦である筆者が、南三陸町で妊娠、出産を経験し、子育て(現在生後3ヶ月の女の子)に奮闘する中で「え、これって〇〇だったの?!」と感じたことを綴っていきます。そう、既に子どもを育てている方々には当たり前でも、自分が当事者にならなければ、知る由も無い!ということって意外と多かったんです。もちろん、現在も手探り状態で知らないことだらけですが…。田舎での子育てってどうなの?って思っている方や、これから子育てをしていこうという方へ、少しでも参考になればと願っています。

妊娠発覚は突然に

私の妊娠が発覚したのは2017年の6月のこと。2016年の7月に入籍をしてからまもなく一年というタイミングでした。

予定日を過ぎても生理が来ないなとは思いつつも、ドキドキしながら検査薬を使っても反応無し。次の週も陰性。いつもの生理不順かな、と思っているうちに3ヶ月が過ぎ、これはさすがにまずいと思い出し、気は進まないものの、婦人科に行って、ホルモン剤でも出してもらえば生理来るかな、という気持ちで南三陸病院の婦人科を受診しました。

ちなみに、南三陸病院では婦人科は常勤の医師はおらず、金曜日に非常勤の先生が診察に来てくれています。

診察してくれたのは、若めの男性のお医者さん。簡単な問診のあと内診をして、淡々と一言。

「あー、妊娠してそうですねー」

「え??妊娠してるんですか?」

思わず、そんなはずはないとばかりに聞き返してしまう私。ドラマでよく見る、「おめでとうございます、ご懐妊です」「….!!(涙)」のようなシーンとは程遠い妊娠発覚でした。

イラスト:高橋美花

その後、モニターを見せて、「これが胎のう。心拍もありますね」と説明されました。「大きさからして、8週目くらいでしょう。2週間後にもう一度来てもらって、予定日を確定させましょう。12週目までにはどこで産むか決めてくださいね。」

決断はすぐに迫られる

そう、自分が妊娠したという事実に驚いている間にも、この瞬間から様々な決断を迫られることになります。

仕事はどうする?

報告はどうする?

今月予定してた沖縄旅行はどうする?

どこで産むって、どこ?

いろんな考えが頭を巡って、嬉しいという感情が追いついてこなかったのですが、とりあえず夫にラインで報告してから、夫の仕事場に行き、大汗かいている彼の顔を見て、ようやく赤ちゃんができたんだなという気持ちが湧いてきたのを覚えています。

前述のとおり、南三陸病院には常勤の産婦人科医はおらず、分娩施設はありません。(でも、頼りになる助産師さんは常勤でいます!これはまた別記事で詳しく)そのため、プレオープンという制度をとっていて、石巻赤十字病院か気仙沼市立病院で出産する場合は、検診のうち約半分を南三陸病院で受けられることになっています。あるいは、登米市や気仙沼市にある個人経営の産院を希望する場合は、その産院にすると決めた時点から、そちらで検診を受けることになります。

また、里帰り出産を希望する場合は、実際に出産する病産院はもちろん、里帰りするまでの間、どこで検診を受けるかも決めなければなりません。そう、この1.里帰りするかしないか  2.どこの病院で診てもらうか  という結構大きな決断を、妊娠発覚してからまぁまぁ早いタイミングで決めなければならないのです。

ちなみに、私が受診した妊娠8週目というタイミングは遅いほうだと思います。

私は生理不順が重なったので、妊娠検査薬を使うタイミングが悪くて反応が出なかったのですが、今時ほとんどの人は検査薬の陽性反応を見て病院に行くと思うので、早くて4週目くらい。ただ、それだと心拍が確認できなくて、「来週また来てください」となることも多いようで、結局妊娠確定するのは6週目以降の場合が多いようです。

私もそのくらいのタイミングで受診してれば、もうちょっと余裕をもっていろいろ決められたかなぁとも思いつつ、妊娠してるかどうかの判断で2週間待たされたら、その間、そのことばかり考えてしまって、仕事も手につかなかっただろうな、とも思ったり。

さて、そんな感じで妊娠したと分かった私がどういう理由で産む場所を決めたのかは、次回の記事で詳しく書いていきたいと思います。

産業支援でつながりを育む/埼玉工業大学「出会いのM3ゼミ」

4月21日、2012年から続くSAKURA PROJECTS の植樹祭が行われました。今回は、お花見会をひころの里で開催。出店団体の一つ、埼玉工業大学「出会いのM3ゼミ」の活動や想いを取材しました。

2012年から続く植樹祭、初のお花見会を開催

SAKURA PROJECTSは、2012年から続く植樹の取り組みです。活動を主催するLOOM NIPPONは、産業による被災地復興支援を手がける一般社団法人。南三陸町においても、雇用創出や地域産業の活性化に取り組んでいます。「LOOM BAG collection」と題したプロジェクトでは、南三陸町の地元企業(株)アストロ・テックとコラボし、織り込んだバッグを東京や大阪などの大都市圏で販売しました。

「若い苗木を子供たちの手で植樹し、この活動を通じ子供たちとその将来に希望をもたらしたい。(中略)南三陸町の復興に合わせ、長い時間をかけていき、東北一の桜の名所を作ります」(LOOM NIPPON ホームページより)。目標は3000本。今回、遊電館前にて新たに13本の植樹を行い、植樹はのべ1123本に達しました。今年は、2013年に植樹を行ったひころの里にて初の「お花見会」を開催。桜の木の成長と、プロジェクトの積み重ねを感じられる節目となりました。

当日は晴天に恵まれ、会場は多くの来場者で賑わいました。トコヤッサイの披露、シンガーソングライターのセレイナ・アンさんによる歌の弾き語り、餅まきなど、多くのステージイベントが開かれました。佐藤仁町長はあいさつで「最初の時の植樹は、雨の中、戸倉中学校のグラウンドでやったことを、昨日のように思い出します」と述べ、これまでの植樹祭や町の復興を振り返りました。そして、志津川地区のグランドデザインや復興祈念公園建設計画などにふれ、今後の展望を示しました。

LOOM NIPPON

http://www.loom.or.jp/index.html

南三陸と埼玉をつなぐ「出会いのM3ゼミ」

植樹祭とお花見会には、町内の関係者だけでなく、町外からのボランティアも多く参加しました。その一つが、埼玉工業大学「出会いのM3ゼミ」。産業支援ボランティアで南三陸と埼玉の橋渡しをするべく、ブースを出店しました。

ゼミ名の由来は、「みんなで また行きたい 南三陸」の頭文字をとり、「M3」。「出会い」には、「南三陸でしかできない経験をし、町の人と交わり、新しい自分にも出会う」という意味がこめられています。ゼミの活動は、南三陸町におけるフィールドワークと、大学での南三陸町に関する情報発信。幅広い学部・学年からメンバーが集まり、学生主体で運営されているのが特徴です。

ゼミの発足は2017年3月。「学生が自分たちで考えて何かをするっていうことをいずれはやりたい」という担当教員の想い、「埼玉工業大学単独で南三陸スタディツアーをやりたい」という初代ゼミ長の想いが重なり、創立に至りました。同年夏にスタディツアーを実施し、代替わりして今回の活動に至ります。

今回は、植樹祭に参加したほか、お花見会でも多くのブースを出店。「深谷ネギ」を活かした焼きそば店や物販コーナーを開き、「産業」で大学の地元と南三陸をつなぎました。会場入り口に設置した桜のメッセージボードには、南三陸への温かなメッセージが数多く集まりました。加えて、トコヤッサイの披露に交わり、余興のカラオケ大会にも参戦するなど、お祭りの盛り上げにも一役買いました。

南三陸だからこそ得られる、出会いと学び

「南三陸に行きなさい。人生観変わるよ」。ゼミを受け持つ松浦宏昭准教授は、この言葉をきっかけに南三陸と出会いました。2014年の夏、教員企画の学生スタディツアーを前に、一人で町を初訪問。「本当に人生観が変わって、これは学生には絶対効果があると。現地でちゃんと見て、感じて、自分の中で考えて、自分なりにどういうことができるのか彼らに見出してもらうというのは、すごく大きなこと」「能動的に彼らが活動していく場所としては、南三陸町は非常に貴重な場所だし、ここに来てやらなければ意味がない。必ず年に1回、できれば年2回行ってほしい」。

「現地だからこそ得られる学び」は、活動する学生たちの言葉からもうかがえます。第2代ゼミ長の加納充浩さん(3年生)は、「去年初めて来た時も、すごく活気があり、元気をもらえた。自分のそばにあるような温かい雰囲気があり、地元とは違うものが得られたという実感があった」。今回初めて南三陸で活動した張替康弘さん(3年生)も、「現地に来てみると、思ったより元気があり、一人ひとりに対して向き合う姿勢が普段いる友達とは違うなと感じた」と話します。

桜を植え、町に希望を育てること。南三陸に通い、そこでしか得られない出会いと学びを積み重ねること。これからも紡がれていく物語に、期待が高まります。

(写真左から)張替さん、加納さん、松浦准教授

 

賑わいづくりに!「南三陸こどもスタジアム」オープン!7周年を迎える福興市も同時開催!

4月29日(日)に、荒島・楽天パークにて「南三陸こどもスタジアム」オープニングセレモニー&スポーツ体験イベントが開催され、多くの家族連れで賑わいをみせていました。また同日には7周年を迎えた第78回志津川湾「ほやまつり福興市」が開催され、大きな賑わいを見せた一日となりました。

荒島・楽天パークに「南三陸こどもスタジアム」オープン!

夏のような暑さと強い日差しが照りつける午後、昨年7月にオープンした「サンオーレそではま」に隣接する荒島パークには、少年野球団・保護者・楽天球団関係者、報道陣など大勢の人たちが集まりました。今回から荒島パークは「荒島・楽天パーク」として生まれ変わり、公園の中に「南三陸こどもスタジアム」がオープンしました。

このスタジアムは株式会社楽天野球団が中心となり設立した「TOHOKU SMILE PROJECT(東北スマイルプロジェクト)」により町へ寄贈されるもので「スポーツの力でこどもたちを笑顔に!」を合言葉に、東北各地のこどもたちが元気にのびのびと遊び、スポーツを楽しんでほしいという想いが込められています。

このオープンを記念して、贈呈セレモニーと子ども向けのスポーツ体験イベントが開催されました。
贈呈式では南三陸町の佐藤仁町長から祝辞があり、楽天野球団の大石幸潔事業本部長から「子どもたちが元気にスポーツを楽しむ場所になることを期待している」と挨拶がありました。その後にテープカット、関係者と地域の方たちを含めたおよそ200名がバルーンリリースを行いました。

広い芝生の上で、大きな声を出して走りまわり、飛び跳ねている子どもたち

スポーツを通じて 子どもたちに元気と笑顔を

オープニングセレモニーの後には、子どもたちに楽しく体を動かしてもらうスポーツ体験イベントが実施されました。楽天イーグルスのアカデミーコーチたちが進行のもと、まずはウォーミングアップから開始。「さんさん商店街に聞こえるくらい大きな声であいさつしてみよう」「隣の人とハイタッチしてみよう」と指導。その後、ベースランニングやティーバッティング、ストラックアウトなどのスポーツ体験イベントが始まり、雲一つない青空の下、荒島・楽天パークには、子どもたちの大きな歓声が響き渡りました。

楽天野球団より「思い切り野球ができるように」と、芝生の公園内に野球用のベースやボールの壁当てができる壁面が設けられました。これも復興支援活動「東北スマイルプロジェクト」の一環で寄贈されたそうです。家族や友達と思う存分、体を動かして遊べる場所ができたことは嬉しい限りですね。

これからも子どもたちの笑顔は、東北そして南三陸の未来を明るく照らしてくれることでしょう。

ほや詰め放題に大行列!第78回 志津川湾ほやまつり福興市

荒島・楽天パークの数百メートル先、志津川湾仮設魚市場特設会場では開始の9時前からすでに来場者の行列がありました。

お目当ては大人気の「ほやの詰め放題」。ビニール袋いっぱい、どんなに詰めても500円。子どもからお年寄りの方まで大勢の人たちが参加していました。ビニール手袋をつけて真剣な表情でほやを詰め込んでいる姿が印象的でした。南三陸産のホヤは甘みがあって、柔らかいのが特徴。今年のほやは海水温が高かったこともあり、身も大きめ。会場全体では、前年の約3倍にあたる2トンを用意していたそうです。

出店者に尋ねてみると「12時には終わったよ。1トンはあっという間になくなったね」と話します。これからも「ほや詰め放題」の勢いはますます広がっていきそうな気がしました。

旬を先取り!朝に水揚げした新鮮なほやをビニールいっぱい工夫をこらして詰め込む

浜のお母さんによる「ほや剥き講座」

知っているようで、意外と知らない「ほやの剥き方」。今回の特設ステージの催しでは、午前と午後の2回にわたって地元のお母さん直伝の「ほや剥き講座」がおこなわれました。

「でっぱりを切り落とし、縦に切れ目をいれて、指でなぞって、黒い部分を取り除く…。」

お客さんは地元お母さんの見事な手捌きを真剣な表情で食い入るように見つめていました。

「ほやは海水で洗ったほうが美味しい」「ほやの剥き水で食べると味が濃くてよい」など、ほやをおいしく食べるコツを伝授。

質問タイムでは、客席から次々と手が挙がり「冷凍の方法は?」「ほやの黒い部分は食べられませんか?」などの質問が飛び交い、大いに盛り上がりました。

旬の味覚を求める町内外の人たちでにぎわった78回目の福興市はこの日で開催7周年を迎えた。記念に感謝を込めた福まき(餅まき)がおこなわれ、大勢の来場者がステージ前に集まり、会場は活気と笑顔に包まれていました。実行委員長の山内正文さんは「今後もお客さんに喜んでもらえるよう、旬のものを出していきたい」と話してくれました。これからの福興市にも期待がかかります!

ステージ上にて地元漁師・カネトミの渡辺さんによる「ほや剥き講座」が実施された

「応援してくれる仙台の方への感謝を込めて」南三陸福興市in仙台 勾当台

4月18日(水)、仙台の勾当台公園で「南三陸福興市in勾当台」が開催されました。南三陸自慢の海産物、この春話題の観光情報もPR。いつも応援してくれる仙台市民の方々が集まる中、震災からわずか1カ月後に開催されこの4月で7周年を迎える福興市が開催されました。

新ツアープログラム「みなチャリ!」PR

南三陸町観光協会のブースでは、この春おすすめの観光&体験プログラムのPRを実施。2018年5月5日「自転車の日」からスタートした『南三陸里山×里海サイクリング みなチャリ!』は、「南三陸の暮らしに触れる」をテーマとしたガイド付きサイクリング。

南三陸に暮らす住民がツアーガイドになり、クロスバイクに乗りながら、志津川・入谷両地区の田園風景が広がる里山を走行しながら地域に受け継がれる伝統や文化を紹介していく新ツアープログラム。のどかな田舎の風景をゆっくりと眺めながら走るスローサイクリング、自転車散歩です。

途中、民家に立ち寄り、お茶やお菓子、漬物をいただきながら、地元の人と交流する「お茶っこタイム」もあるそう。午前と午後の部があり、「定員の3名で申し込むとお得ですよ!」と勧められました。

売り切れ御免!わかめの詰め放題に固定ファン集まる

「わかめ、あるかな?」「すみません、もう売り切れてしまいました」そんな会話が聞こえてきた秦東丸さんのテント前。雨にもかかわらず、午前10時から始まった「わかめの詰め放題」があっという間に完売。わかめをビニール袋がパンパンになるくらいに詰め込んだら約1㎏になるそうです。

毎年この「わかめの詰め放題」を楽しみにしているファンが多く、仙台でイベントをするときはいつも訪れる人もいるとか。仙台福興市のTV中継を見て駆け付けたという人たちが「売り切れ」と聞いてがっかりした様子もありました。ブース前にやってきた女性客は「お昼にTVで詰め放題見て、慌ててバス乗り継いで来たけど、遅かったのね…。残念だけど、また次仙台でやるときは教えてほしいわ」と話してくれました。

TV中継でわかめの詰め放題を知り、集まった人々。わかめの代わりにほやを買って帰る人の姿も

あれから7年。仙台の人たちに支えられ、福興市は開催を続けています

会場内では、南三陸自慢の海産物や飲食物、地域限定ものを取り扱う9店舗が出店、販売しながら仙台の人たちと交流をはかり、南三陸町の元気と魅力を伝えていました。

開催場所だった勾当台公園市民広場の周辺は、県庁・市役所、オフィスビルに囲まれているため、ランチタイムの12~13時には多くのビジネスマン・OLが行き交う立地でもあります。

福興市の情報を知った人たちが出店先のテントに立ち寄るのは、買い物だけが目的ではありません。
仙台で福興市を開催するたびに必ず立ち寄って「元気にやっていますか?」と声をかけてくれる人たちがいます。「ありがたいことだ。震災後から支えてくれている仙台の方々が、こうやって毎回福興市を開催するたびに顔を出してくれる」と及善商店の及川社長は話します。

仙台と南三陸。離れていても、震災復興状況をずっと気にかけてくれる人たち、心強い存在に支えられていることを改めて感じることができた福興市でした。

「これうまいねー。ひとつもらおうか」と、試食をしながら会話を楽しんでいる様子

あきらめない。これからもずっと 南三陸町で生きていく

福興市のような交流イベントの良さは、南三陸町の人・食などの魅力を知ると同時に、震災で大きな被害を受けながらも、今は復活して元気に商売を営んでいる地元の人の話を直接聞くことができることだと思います。
今回の福興市に出店していた「南三陸牡蠣倶楽部」を運営している佐々木昌則さんもそのひとりでした。「途中で投げ出したくない、故郷で生きていくって、覚悟を決めました」

先代から継いできた「カキ養殖」と「民宿 向(むかい)」を震災で失い、親戚を頼りに広島県で避難生活を送っていた佐々木さん一家。故郷への強い想いから、南三陸町でまたやり直すことを決意。現在は新しく「民宿 明神崎荘」を営んでいます。佐々木さんの「故郷への想い」「あきらめない信念」が会話の中からひしひしと伝わってきました。

こういった震災エピソードを通じた南三陸町の人たちの故郷への想いは、もしかしたら今回のようなイベントで出店ブースに立ち寄らなければ、知ることがなかったことかもしれません。

これからもずっと福興市が開催され続けていくことを期待するとともに、訪れた人たちには買い物や食事だけではなく、ぜひ南三陸町で営む人たちとの会話を楽しんでもらえればと思いました。

 

2018年4月30日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

写真をクリックまたはタップすると大きくなります

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

パノラマ
パノラマ

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

パノラマ

パノラマ

パノラマ

パノラマ

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

パノラマ

他の定点観測を見る

我妻監督最新作『願いと揺らぎ』仙台公開! 〜12年間の地域記録 記録者から伝える人間に〜(後編)

震災前の南三陸町戸倉地区波伝谷(はでんや)集落を舞台とした我妻和樹監督作品『波伝谷に生きる人びと』の続編にあたる震災後の様子を映した『願いと揺らぎ』が、4月28日(土)から仙台市内の劇場で公開されます。12年間もの間、地域と一緒に歩み、震災があり苦悩や葛藤を乗り越え、カメラに納めてきた我妻和樹監督の想いに迫る後編です。

12年間、波伝谷と共に歩んで来たからこそ作り上げられた作品

(前編はこちら

2012年4月15日の「お獅子さま」復活とともに撮影は一度中断。しかし、撮影後すぐに編集に取り掛かったわけではありませんでした。約3年間もの月日を費やしたという前作『波伝谷に生きる人びと』の編集や上映活動などで忙しくなり、震災後に撮影した映像は長い間手が付けられなかったそうです。

『波伝谷に生きる人びと』の上映がひと段落し、『願いと揺らぎ』の編集を始めた時には、「お獅子さま」復活からすでに5年近くの月日が経過。波伝谷地区のほとんどの家が再建した状況で、「映画を獅子舞復活時点で終わらせていいものだろうか」という疑問が出てきたそうです。

そうした疑問とともに、「作品の基調になっている主人公の方に本音を聞くことができていないのではないか」という心残りがあったとのことで、その方に一番初めに編集した映画を見てもらい、当時の心境を引き出して、改めてこれまでの歩みを振り返ることで、我妻監督自身の心残りを払拭。『願いと揺らぎ』のラストシーンとして、映画は完成を迎えることになります。

我妻監督は、「2012年時点で終わらせていたら表現することのできなかった時間の厚みがこの作品に描かれている。その意味では作品が生まれ落ちるのに必要な時間だった」と振り返ります。また波伝谷の人たちに完成した作品を見せる時には相当な覚悟を要したそうですが、「今思えば2012年当時の状況でこの作品を見せていたら、余計混乱を招き、人間関係を壊してしまったかもしれない。当事者が冷静に受け止めるためにも時間が必要だった」とも話してくれました。

5年という月日によって地域の人々に心の余裕が生まれ、これまで整理できなかった時間にはじめて意味を与えることができるようになってようやく完成した『願いと揺らぎ』。

他にも震災を題材にした作品はたくさんありますが、他の作品とは決定的に違う点について、我妻監督は「震災を撮ることよりも、元々そこで生きていた人を撮っていたからこそ価値のある作品。その意味では、震災を超えて、もっと普遍的なものが描かれているのではないか」と話します。2005年3月から2017年3月にかけて、震災を経た一つの地域の歩みを12年にわたって撮り続けた我妻監督だからこそ、描けるものがあるのかもしれません。

2017年8月に波伝谷の方々と行った仙台での上映会「波伝谷サーガ ある営みの記録」 (写真提供:我妻和樹監督)

アジア最大規模の映画祭で入選!

12年間の想い、悩み、監督自身の葛藤も描かれているこの『願いと揺らぎ』ですが、昨年山形県で行われたアジア最大規模のドキュメンタリー映画祭の国際部門で、世界112ヵ国、1146本の応募作品の中から、なんと最終選考の15作品に入選したそうです。毎回、日本人監督が1人入選するかどうかの狭き門らしく、昨年は我妻監督とドキュメンタリー映画界の巨匠が並んで20年ぶりに日本人2人が入選しました。この映画祭での入選をきっかけに、ドイツのベルリンなどでも映画が上映されることになりました。

2017年10月に開かれた「山形国際ドキュメンタリー映画祭」での上映の様子 (写真提供:我妻和樹監督)

今になっては大切な人達であり、第2の故郷

今では地域の皆に受け入れられている我妻監督。撮影を初めた頃は、みんなが賛同してくれるわけではなく批判的な人もいたと言います。「どこか自分がやっていることに自信が持てなかった。遠慮しながら撮影をしていた」と撮影を初めた当時を振り返ります。しかし、理解ある地域の人が守ってくれて、居場所を与えてくれたからこそ、映像記録者としての役割を継続することができたそうです。

そして『波伝谷に生きる人びと』が完成して、世の中に広めるようになってからは、より地域の人達とも信頼関係が深まったとのこと。そして『願いと揺らぎ』が完成してからは「記録者としてだけでなく、伝える人間として認めてもらえるようになってきた」と話していました。

地元宮城での上映について尋ねてみると「関心は高いはずだから多くの人にこの作品を見てもらいたい!」と意気込む一方で、「万人受けするような作品ではないかもしれない」と謙遜しているところもあります。それでも「何年か後に価値が再認識されてヒットしたら良いな」と控えめに答えながら、どこか自信が感じられました。

取材の最後に「我妻監督にとって波伝谷とは?」と尋ねてみたところ、「映画の題材というだけではなく、今では大切な人達であり、第2の故郷です!」と胸を張って答えました。

我妻監督が地域と共に歩み、一緒に成長してきた12年間が凝縮した作品『願いと揺らぎ』。仙台公開は4月28日(土)~5月11日(金)の2週間。会場はクリスロード内の仙台セントラルホール。上映期間中は多彩なゲストを招き、トークもあります。仙台での公開後は、横浜・名古屋などでも公開予定です。ぜひこの機会に劇場に足を運んでみてください!

高台移転後の波伝谷(2017年2月撮影) 写真提供:我妻和樹監督

インフォメーション

■『願いと揺らぎ』公式サイト

https://negaitoyuragi.wixsite.com/peacetree

我妻監督最新作『願いと揺らぎ』仙台公開! 〜12年間の地域記録 記録者から伝える人間に〜(前編)

震災前の南三陸町戸倉地区波伝谷(はでんや)集落を舞台とした我妻和樹監督作品『波伝谷に生きる人びと』の続編にあたる震災後の様子を映した『願いと揺らぎ』が、4月28日(土)から仙台市内の劇場で公開されます。12年間もの間、地域と一緒に歩み、震災があり苦悩や葛藤を乗り越え、カメラに納めてきた我妻和樹監督の想いに迫る特集の前編です。

小学校からの夢だった映画監督!行き着いたのは縁もゆかりもない土地

2014年に公開された、地域社会の営みを丹念に描いた作品『波伝谷に生きる人びと』。その続編にあたり、復興に至る苦難の道のりを描いた作品『願いと揺らぎ』。震災前後の2つの作品を製作した我妻和樹監督が映画監督を夢見たのは、なんと小学5年生だったそうです。小学5年生の時に、とある映画との出会いで心動かされ、中学3年生の時には実際に映画を製作し文化祭で上映したとのこと。しかし思うような作品にできず、「10年間は映画を撮ってはいけない」と思ったと話します。

それでも夢を諦めず、作品を作る上で別な視点を取り入れ自分の世界観を養いたいと思い、高校、大学と進学し行き着いたのが民俗学でした。映画の専門学校には行かず、映画を作るために民俗学を学んだそうです。

2005年3月、当時東北学院大学の1年生だった我妻監督は、大学の民俗学ゼミのプロジェクトとして始まった波伝谷での民俗調査に参加。そして先生や先輩方に連れられ、地域で「お獅子さま」の愛称で親しまれている波伝谷春祈祷(はるきとう)(南三陸町の無形民俗文化財に指定されている獅子舞の行事)を視察。その時地域の全戸全世代が主体的に行事に関わる姿を見て、自分の地元よりもはるかに濃密な地域のつながりに衝撃を受けたそうです。

そして大学3年間で波伝谷の暮らしを丹念に調査し、卒業後の2008年3月以降は個人で、波伝谷を舞台にしたドキュメンタリー映画の撮影を開始。自分が感じた地域の魅力、人びとの生き方を伝える映画を作りたいという想いで波伝谷に足を運び続けたそうです。

2012年4月 復活当時仮設住宅を回ったお獅子さまの様子(写真提供:我妻和樹監督)

映画の舞台 波伝谷で被災。撮影を続けることが困難に

そして2011年3月11日。この日も我妻監督は南三陸町にいました。『波伝谷に生きる人びと』の試写会の日取りを決めるために波伝谷に向かっていた途中で被災。カメラを回しながら高台へ避難。完成した『波伝谷に生きる人びと』の冒頭とラストでは、そのとき撮影していた当時の状況も映し出されています。

震災から数日後、我妻監督は波伝谷の人たちに見送られ「すぐ戻ってきます」と言い残し、白石市にある実家に帰宅。しかし、帰宅してから心境が一変。「お世話になった方々が大変なときにカメラを向けていいのだろうか。何者として戻るべきなのか。邪魔にしかならないのではないか」と悩みに悩んで戻れなくなったといいます。

津波で全て無くなってしまったからこそ、震災前の日常を記録した『波伝谷に生きる人びと』を一刻も早く完成させて見せたいけど、なかなか完成しないもどかしさ。「6年間ずっと入り続けた自分が肝心なときに何もできなくて、一人で悶々としていた。早く戻らなければいけないという焦りを通り越して、時間の経過と共にもう自分の居場所がないのではという恐怖に変わっていった」と当時の心境を話してくれました。

それでも映画になるかどうかは別にして、これまでの“記録者”としての自分の役目を再確認し、現状を記録するために戻ることを決意し、震災から4カ月後、2011年7月はじめに『波伝谷に生きる人びと』のダイジェスト版と震災前の風景写真を持って、波伝谷に戻ることができたと話します。

震災直後の波伝谷集落 (写真提供:我妻和樹監督)
『波伝谷に生きる人びと』より (写真提供:我妻和樹監督)

震災を経て、当初想定していなかった新たな作品が!?

波伝谷に戻り、撮影を再開したものの、震災後の波伝谷地区はすっかり状況が変わっていて、我妻監督はどこをどう撮っていけばいいのか分からない時期が続いたと振り返ります。しかし避難所から仮設住宅へと生活の場が移り、ある程度落ち着きを取り戻す中で、人々は次第に震災前の生活に想いを馳せるようになっていました。

そんななか、2012年の年明けとともに聞こえてきたのが、波伝谷の人たちの本来の姿を象徴する「お獅子さま」(波伝谷春祈祷)復活の声。コミュニティがバラバラになってしまった中で、かつての地域のつながりを取り戻したいという波伝谷の人たちの想いに触れ、我妻監督は「震災前と震災後が繋がる感覚を覚えた」と話します。そして自分にとっても大切な「お獅子さま」復活の過程を追いかける事に決め、新たな気持ちでカメラを回し始めました。しかし、大きな動きがあるわけでもなかったため、当時のさまざまな状況に置かれている人びと、その心境をカメラに収め続けたそうです。

その結果生まれることになった『願いと揺らぎ』ですが、撮り始めの段階では地域の伝統行事復活を描くサクセスストーリーをイメージしていたとのこと。しかし当時、被災地に関する報道で多くされていたような美しい復興のイメージとは全く異なる現状がありました。「現実には復興への願いは同じはずなのに、考え方や方法の違いから足並みが揃わず、すれ違いを重ねる人びとの心の揺れ動きを捉えることにした」と我妻監督は話します。

震災前の波伝谷の風景(2009年4月撮影) (写真提供:我妻和樹監督)

(後編へ続く)

地域との関係値を深める「お試し移住」という関わり方

学生の春休みと重なる2~3月は南三陸町にも多くの学生が訪れていました。そのなかでも、この春は「お試し移住」という新たな関わり方が南三陸町入谷地区でスタート。学生のスタディツアーや一般の旅行とは異なり、より地域に根差し、地域住民とともに活動を共にする南三陸での時間を過ごしています。

シェアハウスで始まった「お試し移住」プログラム

「お試し移住」の拠点となるのは「花見山ハウス」。昨年6月から入谷地区に誕生したシェアハウスです。もともと社宅として使われていた物件をリニューアルして、移住者などの住まいとして活用されています。

また単なる住まいとしてのみならず、地域を支える「地の人」、新たな価値観をもたらす「風の人」、ものごとに光をあて価値を見出し発信する「光の人」が交わり、新たな価値を生み出していくシェアハウスがコンセプトとなっています。「お試し移住」プログラムは、そんな多様な人が集まるシェアハウスを拠点に南三陸の「暮らす」「働く」を体感することを目的に、地域でより強いつながりを生みだし、将来的な移住者の獲得を目指す取り組みです。

農業をテーマにお試し移住

大正大学地域創生学部2年生の星野洸太くんと吉田昌誠くんは2月16日~22日までお試し移住として南三陸町に滞在をしていました。彼らのテーマは「農業」。花見山ハウスの近隣にて農業を営む南三陸農工房が主催となった農業体験型合宿を体験しました。

大学1年時に学校の実習で南三陸町を訪れていた二人は、それぞれ農業や水産加工などでインターンシップを経験。農業に特化したお試し移住プログラムに魅力を感じ、このプログラムに今回参加したといいます。

農業合宿では、施肥や畝立て、ネギの定植といった、一日限りの農業体験ではなかなか味わうことのできない農作業の一連の流れを体感しました。

「普通に来ただけでは体験できないようなことがたくさん体験できてとてもおもしろかった。農作業の大変さを身にしみて実感したし、普段当たり前に食べている農作物がこうやって一つひとつ丁寧に作られたものだと思うと、ありがたみを感じることができた」と話します。

手間暇かけて育てた農作物が非常に安価で取引され、それが担い手不足につながっていることを実感したという二人は、お試し移住プログラムの最後に農業の課題解決策を受け入れ先となった農工房や、地域住民に提案を行いました。

南三陸町で滞在して地域とのつながりが強くなるだけではなく、大事な価値に気づかせてくれる、そんなお試し移住期間となったようです。

人に会うための「お試し移住」期間

2月28日~3月2日までお試し移住を体験した浅利真梨奈さんは、「人に会うための4日間だった」とお試し移住期間のことを振り返ります。半年前に、南三陸研修センターにてインターンを行っていた浅利さん。この滞在中に、以前お世話になった人などたくさんの南三陸の人たちに会っていたといいます。

1カ月間におよぶインターンシップ期間中に南三陸町との強いつながりを得た彼女。「お試し移住」という仕組みを使うことによってそのつながりがより強いものになりました。

「南三陸には3回目の訪問になりましたが、いつも感じること、それは『成長して帰ってきたい』ということです。南三陸は多種多様な仕事を持つ人たちが一体となり、『この町をもっとよくしたい』という思いにあふれていて、その熱さがいろんな方から伝わってきます。いつ、また来られるか分かりませんがその日が来るまで成長し続けたいと思った4日間でした!」と話していました。

関係人口の拡大へ

この春に「お試し移住」プログラムを利用した学生は6名。それぞれがそれぞれの関わり方で南三陸との関わりを自由に深めていたようです。

南三陸の一次産業に触れる期間に、もしくはこれまでのつながりを強める期間として「花見山ハウス」を拠点に、「お試し移住」という新しい関わり方が生まれています。長期的な「定住人口」や短期的な「交流人口」ではない、南三陸に関わる多様なあり方を示す「関係人口」の拡大に大きな役割を果たすことでしょう。