志津川湾って、すごい!シリーズvol.7「国際環境認証(ASC)の牡蠣がある」

南三陸なうの視聴者のみなさま、こんにちは。海研一です。シリーズも7回目の今回は、今が旬、美味しい美味しい牡蠣の話。前回がサケ、今回が牡蠣、秋から冬は食べ物の話が続くなあ。まあ、そこがすごいのだから仕方がないだろう。

海のミルクと呼ばれるほど栄養豊富な牡蠣

さて牡蠣だが、みなさんはお好きだろうか?海研一はとても好きだ。プリプリの牡蠣を生で食べるのも好きだし、蒸されているのも好きだし、牡蠣フライも大好きだ。味ももちろんだが、牡蠣を食べると元気になる気がするので疲れたときなどにも食べようと思っている。実は牡蠣にはグリコーゲンやタウリン、ビタミンB12がたくさん含まれていて、これが肝機能を強化してくれるようだ。海研一は、一度牡蠣をたくさん食べた翌日にお酒を飲む機会があって、けっこう飲んだのだが全く酔わず、お酒の席をあまり楽しめなかった思い出がある。それぐらい肝臓に効くようだ。身をもって実感している。

また鉄分や銅なども含まれていて貧血にもいいようだし、亜鉛は免疫力を高めるので寒い時期には風邪の予防にもなる。いろいろな栄養が豊富に含まれていて「海のミルク」と呼ばれているのもわかる。

南三陸町ではこの牡蠣、種類でいえばマガキの養殖をしている。戸倉エリアに限った話になってしまうが、このマガキ養殖の活動がASC(Aquaculture Stewardship Council 水産養殖管理協議会)という国際環境認証を取得した。2016年3月30日、宮城県漁業協同組合志津川支所戸倉出張所が管轄するマガキ養殖が、環境に配慮した養殖活動をおこなっていると世界水準として認められたのである。

ASC認証とは?

このASCというのがどんなものかを説明しよう。

ASCとは国際的な海洋保全活動の一環として、海の自然や資源を守って養殖生産された持続可能な水産物を認証する仕組み、制度である。養殖は、世界の水産物の半分をしめるほどの生産量になっているが、海洋環境の悪化や餌となる天然魚の過剰利用、養殖魚の逃避による生態系の撹乱(牡蠣は無給餌養殖であり、逃避ということもなく、また地元産のものなので関係ないですが)など、環境に悪影響を及ぼすことも少なくないので、認証制度を通して持続可能な養殖活動が営まれるようにしていこうとしている動きである。

具体的には、マガキが対象となる二枚貝養殖では、1.法令遵守 2.自然環境および生物多様性への悪影響の軽減 3.天然個体群への影響 4.病害虫の管理と防止 5.資源の効率的な利用 6.地域社会に対する責任 7.適切な労働環境の7原則に基づいた基準が設定されており、これにそった審査を経て認証に至る、非常に厳しいプロセスがあるのだ。

牡蠣養殖のようす

養殖棚を震災前の3分の1にして環境配慮

志津川湾での養殖は、東日本大震災の大津波によって壊滅的な被害を受けた。戸倉でのマガキ養殖は、震災からの復旧を図る際に、震災前に課題となっていた過密な養殖による牡蠣成長の鈍さを解消するべく、養殖棚を震災前の3分の1に減らす決断をした。これによって出荷まで2〜3年かかっていた生育が1年で出荷できるようになったとともに、そのことによって海洋環境への負荷も軽減もされてASC取得基準をクリアできる状況に至ったのだ。

環境の話だけではない。復旧にあたって戸倉かき生産部会として養殖への取り組み方をさまざまに見直してきた。仕事のために使用した船の燃料の使用記録をさかのぼって確認したり、プランクトンや海底環境のモニタリングをおこなったり、牡蠣剥きの後にでる牡蠣殻の廃棄処理にも目を配ったり、安全基準を作業場に貼り出したりなどなど、さまざまな面で持続可能な活動となるような改善がおこなわれてきた。こういったプロセスがあってのASC国際認証取得であることを知っておくべきだろう。

しかし、認証は取って終わりではなく持続させることが最も重要であり、こういった取り組みが日々継続・改良されていることが求められる。日々の仕事に組み込まれて、粛々と進められていることにも意識を向けたい。

漁師の努力で取り組みは継続

ASC認証は環境保障であって品質保証ではない。値段の大幅アップもなかなか難しいようだ。漁師さんたちへの直接的な利が目に見えにくく、ともすると認証の価値を見失ってしまいそうになる。

しかし養殖生産の持続性、改善による労働の持続性などなど、間接的な利は確かにある。この価値を強く認識していきたいものである。

海研一は、こういう取り組みをしている漁師さんたちをすごいと思うのだ。そういった汗粒の結晶としてプリプリの牡蠣が生産されている、そんな志津川湾をすごいと思うのだ。どうだろう。

漁師がお客さんと直接交流!感謝の想いを伝える、戸倉漁師の会

これまで30回以上、毎月第2日曜日に開催している戸倉漁師の会。震災後、漁師達が自ら会を立ち上げ、開催しています。新鮮な海産物が市場に出回る価格よりも安く、漁師達の手売りで提供されており、毎月多くのお客さんで賑わっています。

支援してくださった方々に恩返しをしたい

今回、取材をさせて頂いたのは以前、南三陸なうで行山流水戸辺鹿子躍についてお話を伺った村岡賢一さんです。なんでも村岡さんはこの漁師の会の広報を務めているとか。

Q:開催のきっかけを教えてください!

A:震災があってから企業からの支援を多くいただきました。そんなふうに支援してくれた方々に恩返しがしたい、復興していることをアピールしたいと思って考えた結果、イベントを開くことにしました。感謝の気持ちをイベント開催することで、届けられたなと思っています。

Q:会のメンバーは一から集めたのですか?

A:戸倉の漁師達みんなに声をかけました。声をかけた中で集まった人達で立ち上げ、漁師の会を開催しています。

焼き牡蠣を提供している村岡賢一さん

安さと新鮮が売り!口コミで広がり賑わい見せる会

取材に伺った、第32回の時も朝から多くのお客さんが足を運んでいました。仙台や大崎の方から来たという方、なかには県外からわざわざ来たという人も。ピークとしては10時から12時にかけての時間がもっともお客さんが多いようでした。

Q:お客さんは何を見て来てる方が多いですか?

A:最初はテレビを観て来たとか、SNSでという人が多かったかな。最近はリピーターの方が多いです。もちろん、紹介できましたという人もいて、口コミでまだまだ広がっている感じです。

Q:やっぱり新鮮で安いからたくさんのお客さんが来るのでしょうか?

A:そうじゃないですかね。市場より安く、しかも新鮮なものが食べられるわけですからね。お得意さんになると、別で注文いただいたりもしています。美味しいって言ってくれたり、また来てくれるとこっちも嬉しいですしね。

Q:毎回無料コーナーというのがありますけど、なにを提供しているのですか?

A:毎回旬のものを提供しています。今回(32回)はシュウリ貝(別名:ムラサキ貝)の味噌汁。1月とかは餅つきしてみなさんに提供しているので、様々ですね。

賑わいを見せる第32回戸倉漁師の会

海産物はもちろん、無料コーナーも数に限りがあるので、お目当てのも物がある場合はお早めに訪れた方がいいそうです。取材時は冷凍の塩ウニや蒸しホヤなども販売されていました。もちろんその場ですぐ食べることができるような、焼き牡蠣、牡蠣おこわ、たこ焼きなど盛りだくさん。会場はちょっとしたお祭りのような賑わいをみせていました。

これから牡蠣のシーズンですが今年の出来栄えは?

Q:今回(32回)のメインは牡蠣でしたが、今年の身の入りはどうですか?

A:身の入りは例年より悪い感じで、身も小ぶりなものが多いね。でもまだまだこれからが季節だから、良くなっていくでしょう。

Q:牡蠣はこれから冬の間はずっとあるのですよね?

A:状況にもよるけど6月頃までは牡蠣はあるかな。あとはもう少しするとわかめ、ふのりとか新ものの海藻類も出てくるよ。あとはアワビなんかもあるね。

Q:村岡さんの好きな牡蠣料理は?

A:なんでもおいしいけど、焼き牡蠣かな。春になったらフライの方がいいね。出始めの牡蠣と春の牡蠣では味は違うからね。

 

この日、村岡さんは焼き牡蠣を販売。販売されていた牡蠣は小ぶりという割には大きくプリプリとしていました。震災前だと出荷するまでに最低でも3年はかかっていたにも関わらず、震災後は早ければ1年で出荷できるほどに志津川湾の環境が大きく変化したそうです。そのため提供されていた牡蠣も含め、市場に出荷している戸倉の牡蠣は2年ものから1年ものがほとんどです。

2年で養殖された牡蠣のことを「2年子」と言うそうです
村岡さんが販売していた焼き牡蠣

漁師達の楽しみ・息抜きの場に

Q:これまで漁師の会を開催してきてどうですか?

A:楽しいね。漁師はどうしても同じことの繰り返しだけども、漁師の会があることでちょっと違った息抜きみたいな感じになっています。何よりお客さんに直接、販売できてお話しできるのが楽しみです。別に利益を求めて開催しているわけではないので、本当漁師達の息抜きの場って感じです。

Q:今後もこの会を続けていきたいですか?

A:もちろん。お客さん来るうちはやっていきたいね。

Q:次の世代の若手漁師達にもこの会に参加してほしいですよね?

A:そうだね。若い人達いればもっと盛り上がるかもしれないしね。なんなら、月1回のところ、2・3回に増やしてそれで生活できるようになったら尚更いいよ。なにより若い人達にも、楽しみながら漁師をやってもらいたいな。だから漁師の会に限らず、いろんな働き方を見つけて、楽しみながら仕事をしてほしいね。

今後の漁師達の活躍にも注目

震災後、漁師達の業務環境の改善がなされ、ASC取得につながりました。業務環境にゆとりが持てたことで、こうしたイベントを開催して、楽しみながら働くことが出来るようになったのではないでしょうか。一次産業はよく3K「きつい・汚い・危険またはカッコ悪い」などと言われマイナス的なイメージでした。しかし、近年その3Kをプラスのイメージに変えようと全国的に活動が広まりつつあるそうです。今後、一次産業へのイメージがどのように変化し、漁師達がどのように活躍していくのか楽しみです。

漁師の会開催は第2日曜日となっています。12月のみ年末23日の開催となります。

夏にはウニ、ホヤ、穴子、ホタテ、冬には牡蠣、わかめ、メカブ、アワビなど季節により様々な海産物が市場より安く購入することができます。ぜひ皆さん一度足を運んでみてはいかがでしょうか?開催情報や旬のお知らせはFacebookで更新しているとのことです。戸倉漁師の会Facebook要チェックです!

戸倉漁師の会Facebook
https://www.facebook.com/pages/category/Community/戸倉漁師の会-1740512969527986/

2018年11月30日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

写真をクリックまたはタップすると大きくなります

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

パノラマ

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

パノラマ
 

パノラマ
 

パノラマ

パノラマ

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

パノラマ

他の定点観測を見る

農を核に、地域をつなげ、地域を楽しむ。

南三陸町に移住し起業活動をおこなう「地域おこし協力隊」隊員を紹介していく連載企画。第6回は、衰退が危ぶまれる町の農業を振興し、漁業とともに町の一次産業や食を支えるべく活動に勤しむ藤田岳さん。何を隠そう、毎月このコーナーを執筆してます私自身なのでいずい感じですが、せっかくなので取り組みについて知っていただければと思いますのでよろしくどうぞ。

南三陸の農業を再興し推進する、“農業振興支援員”

いわゆる地方の田舎町である南三陸町は、多分に漏れず、一次産業が主産業になっています。製造業や飲食業・観光業などのサービス業も、元をたどれば一次産業に関係するものが多く、15歳以上の町民のおよそ5人に1人は一次産業に従事しています。

最も盛んなのは、漁業です。カキやワカメなどを中心とした養殖業やサケなどをはじめとした近海漁業、そしてそれらを原料にした加工品やキラキラ丼などの飲食物は、町の特産品として多くの人から親しまれています。震災以後は林業者の方々も精力的に活動をしていて、公共施設等さまざまな建築物に町の杉が用いられたり、町外からも優れた木材として脚光を浴びています。漁業と林業は、ともにASC・FSCという国際認証を、それぞれ取得したことでも注目されました。

そんななか、農業も盛んに行われていることはあまり知られていないように思います。特に町の4地区のうち唯一海に面していない入谷地区では、田んぼが広がる懐かしい雰囲気の里山風景も美しく、米のほかリンゴや鑑賞菊、「春告げ野菜」と呼ばれる青菜類や畜産などが営まれています。でもやはり、町の特産と呼ぶにはまだまだ知名度もなく、あまりパッとしないのが現状です。

入谷を舞台に、こうした農業を盛り上げて行くべく活動する“農業振興支援員”が私、藤田岳です。2016年5月に、町の一期生として地域おこし協力隊員に着任しました。着任当時は農業経験などほとんどない素人でしたので、(株)南三陸農工房という企業で研修生として学びつつ、入谷3山の1つ、童子山の中腹でワイン用ブドウの栽培に取り組んでいます。

南三陸農工房という会社は震災後に立ち上がった株式会社で、当初の目的は、震災後の混乱の中で農業の現場で雇用の場を作ることでした。これまで町ではあまり作られてこなかったさまざまな作物の栽培にも取り組んできていて、例えばそのうちの1つの長ネギは、「南三陸ネギ」という名前で現在JA等によってブランド化が図られていますし、国産有機栽培に挑戦中の漢方薬草トウキは、スイーツの材料や宿泊施設での入浴剤としても用いられ始めました。

農工房は農業を通じた交流を大切にしていることも特徴的で、年間2000人に及ぶ農業体験・ボランティアさんの受け入れを行ったり、私のような若者の研修受け入れ・雇用実績も複数あります。家族経営で代々後継され続いてきているような一次産業のイメージを覆し、農業をやってみたいという移住者が新規就農しやすい環境を整えてくれており、そういう環境でこれまで2年半に渡って農業の基礎を学んできました。

忘れもしない着任初日、いきなり鍬を持たせられたものの振り方もわからなかった私が、今となってはキレイに草も刈れますし、トラクターやユンボなどの重機を乗りこなし、今どき鍬を使って畝を立てたり、最近ではパイプハウスも自分で建てられるようになりました。百姓とはその字の通り、農業に取り組んでいると百のことをこなせるようになってくるものです。

六次化に取り組み、稼げる産業へ

農業の抱える課題の大きな1つとして、あまり儲けられないという問題があります。機械類の維持費や資材の購入などで意外と経費がかかる一方で、単価が安いため売り上げが伸びづらく、そのうえ天候等によるリスクに非常に左右されやすいという不安定さも持っています。そもそも家族経営が多いので人件費の部分は経費として無視されがちで、管理計算されていないだけでものすごい労働時間だったりもします。

そんな収益性を打破しようという方法の1つとして注目されているのが6次産業化という手法で、ワインもそうです。一次産業の「1」、二次産業の「2」、三次産業の「3」を足し算しても掛け算しても「6」になるということで、これらを一手にやってしまおうというのが6次産業です。つまりワインを例にすれば、ブドウを作る一次産業、ワインに加工製造する二次産業、それを販売する三次産業、これを全部やることで中間にかかる手数料や運送料などをなるべく抑える、ということです。通常ワイン用ブドウを作る農家であれば、ただ単にこれを出荷すればだいたい1kg300円くらいで出荷するのですが、1kgのブドウを絞って750mlのワイン1本にして3000円で売れたら、売り上げが10倍になるわけです。

加えてワインであれば、町の特産である豊富な海産物や農産物などの食資源と合わせて楽しむことができますから、水産業や飲食業・観光業と合わせて町全体を盛り上げる起爆剤になるだろうと、これがワイン用ブドウの栽培に取り組んだ理由です。

2016年着任時に仙台の秋保ワイナリーさんからいただいた苗木を100本、翌年の春に「南三陸ワインプロジェクト」を立ち上げ、植樹祭に集まっていただいた80人ほどの皆さんと一緒に700本の苗木を植栽し、現在3つの畑で800本の苗木を育てています。ブドウは植えてから収穫まで最低でも3年はかかるということで、まだ初収穫は迎えられていないのですが、ブドウたちはすくすくと生長してきています。

農工房に倣いたくさんの農業体験の方々と交流をしたり、サポーター会員制度を作って支援をいただいたりも行なっています。2017年には早速練習も兼ねて、ということで、他県産ブドウを用いて秋保ワイナリーの設備を借りて、という形ではありましたがワイン醸造も行い、3種類のワインを製造しました。南三陸応縁団など町関係のイベントや、南三陸ワインプロジェクトの主催するワイン会などで提供し好評いただいています。

まだまだ農家3年生のペーペーではありますし、未だに農工房社長や地域の方々に厳しく指導をいただきながらではありますが、農業の楽しい部分も厳しい部分も学びながら、ブドウと一緒に成長していっていると思います。

実は移住して6年半!

実は町に移住したのはさらに遡ること4年、2012年の春のことでした。すでにもう6年半、この町に住んでいます。当時は農業をやるつもりもやってみたいという想いもなく、“海が好き”というきっかけでした。

埼玉県という海のない環境に生まれ、“岳”という山の名前をもらいつつ、子どもの頃から海が好きでした。そんな名前を与える親なのでアウトドアや自然が好きで、幼い頃から釣りや登山やキャンプといろいろな経験をさせてもらったのですが、幼稚園の時に水族館に連れて行ってもらったことが衝撃的で「将来はシャチショーのお兄さんになる」と決めてしまいました。

幼稚園の頃からスイミングに通い始め、中高は生物部で生きものを飼育し、東京海洋大学という日本で唯一海を専門とする大学に進学します。

南三陸町は震災以前から海の教育に非常に熱心な自治体として業界では注目を浴びていて、特に「自然環境活用センター」という施設を町立町営で持ち、行政の取り組みとしてこういったことに取り組んでいる点はとても珍しい例の一つでした。震災で無くなってしまいましたが。そんな町を見てみたいと言うことで、2009年に大学のインターンシップを利用し、2週間ほど町に滞在したのが、私と南三陸の出会いになりますので、来年でかれこれ10年になります。

丁度就職活動を始めなくてはいけない春、というタイミングで震災が起こり、何か海に関わる仕事や暮らしがしたい、という想いと、馴染みのある町が被災した、ということが移住のきっかけでした。半年以上悩みつつも決心し、翌年春に移住をしました。志津川にアパートを借りて住み、NPO職員として行政の委託仕事を受け、放射能関係の環境調査の仕事に従事しつつ、町に観光に来られる方々や町の子どもたちに海のことを話したりするような活動をしてきました。

だんだんと海に限らない町の豊かな自然に魅了され、自然資源を活かした暮らしをしてみたいな、と思い始め、移住3年目からは使わなくなった田んぼをお借りし、仲間たちと米作りにも挑戦してみました。

4年が経った頃からそれを本格的にしてみようと、住まいをアパートから古民家に移してみたり、協力隊員として農業に転職してみたり、そして現在に至ります。

ずっとこの町に住みたいと思っていた、とかこの町に惚れ込んで、とかと言うよりは、ずっとやってみたかった海に関わる仕事がこの町ではできそうだった、というのが移住の大きなきっかけで、いざ住んでみてそれが一次産業に従事する、という方向へ変化してきました。

実は2012年当時は移住者はまだほとんどおらず、町には友達もいませんし、復興過渡期で休日に遊ぶような場所もなかったので、休みの日は山に行って1人で松ぼっくりを拾ったり、そんな暮らしをしていました。徐々に町の友人ができたり移住者も増えてきたりと彩りが出てきましたが、初の一人暮らし・初の社会人が、震災から1年しか経っていない被災地で知り合いもほとんどいない場所、ということで不安も苦労もたくさんありましたが懐かしい思い出です。

友だち100人できました

ちょうど町に来る頃にfacebookを始めたのですが、今見てみたら友人の数が1400人を超えていました。当然町の人だけではないですし、友人というか仕事で関わりのある方々もたくさんいるのですが、20代になってからこれほど知人が増えるというのも想像していませんでしたし、それほど多くの方々に助けられて暮らしているんだな、と思います。

本当に町のどこに行っても誰かしら知っている人に会うくらいに知り合いが増えて、東京や仙台から友人が来ると、どこへ連れて行ってもサービスしていただけたりするので驚かれて喜ばれます。

移住したばかりの頃に知り合いを増やさなきゃ、という気持ちでとにかくあらゆる行事に顔を出していて、福興市なんかはだんだんとお客さんからお手伝いになり始め、いずれお誘いいただいて「南三陸ふっこう青年会」にも入れていただきました。海を専攻していたということもあって漁師さんたちにも仲良くしていただき「南三陸海しょくにん」にも加入し、こうして町の若者たちの仲間もたくさんできました。

もともと音楽が大好きで、でもこの町では音楽を楽しめる機会が少ないということで、仲間たちと「UTAKKO BURUME」という大規模な音楽フェスを立ち上げたり、年2回はひころの里で「HiCoROCK」という、庭の竹で作った自作ステージとソーラーパワーでライブをするイベントを主催したりもしています。どちらも自然と音楽という大好きな2つを融合できているように感じる、嬉しい取り組みです。

農業に従事してからも海との関わりを絶やさぬよう、夏休み期間はサンオーレそではま海水浴場で監視員のアルバイトをしたり、戸倉のビジターセンターを用いてカヤックやスノーケリングのガイドをしたりもしています。自然体験のガイドや講座を頼まれて実施することもありますし、町の子供たちと一緒に自然の中で遊ぶ“森のようちえん”活動も細々と実施しています。

なるべく自然資源を満喫したい、ということで、庭の草を集めて草木染めでTシャツを染めてみたり、町の木を使って自宅をDIYリフォームしたりと、公私共に町の魅力を最大限楽しむ暮らしができてきているように思っています。今年は町の杉材を使ったギターを自作してみたいと思っていて、これも自然と音楽の融合の取り組みの1つです。

この秋にはついに、入谷地区最大のお祭りである“入谷打囃子”に地域民の一員として参加させていただき、入谷の民として認めていただけたかなという想いと、ご近所さんに知り合いがたくさん増えたことに喜びを感じています。

一人前の農家を目指して

地域おこし協力隊の制度は最長3年という縛りがありまして、今年度で私は任期満了になります。なかなか経営的に難しい部分もありますが、なんとかして来年度以降も農業を続けて地域に残りたいな、と考えています。最近はそんな計画を練って、役場や農協へ新規就農の相談に行くような日々。農地と、ビニールハウスもしくはハウスの部材を譲っていただける方を絶賛募集しています。

海が好きな想いも忘れず海とのつながりも保ちつつ、せっかく自然体験や環境教育といったものを専攻してきた経歴もあるので、農業にも教育の要素を取り入れていって、町を訪れる方々との交流もより深まるような、そんな農業をしていけたらいいなと思っています。

最近の暮らしのテーマは“アナログを楽しむ”。手回しのミルでコーヒーを挽いたり、レコードで音楽を聴いたり、フィルムカメラで写真を撮ったり。町の豊かな自然資源やエネルギーを活かして、アナログで丁寧な暮らしをしていく、農業もその一つかなという気楽な気持ちで、今後もこの町で楽しく健やかに生きていきたいなと思っています。

 

「熱狂の火種はどこにある?」 南三陸の魅力向上に向けてセミナー開催

平成29年度には、商店街の本設オープンなどから過去最高となる観光入り込み数を記録した南三陸町。より一層お客様に愛され、持続可能なまちづくりを行なっていくために「滞在型魅力向上セミナー」が開催され、各事業者がファンづくりのポイントなどを学びました。

観光入り込み数は過去最高も、宿泊客は右肩下がり

三陸自動車道が南三陸町まで延伸し、さんさん商店街が本設でオープン。さらにはサンオーレそではま海水浴場の再開など、ポジティブなニュースが多かった平成29年度は、年間の観光客入り込み数が140万人を突破した南三陸町。震災前も含め過去最高の入り込み数となりました。
しかし、アクセスが向上したことで逆に宿泊数は右肩下がりとなっています。いかに地域の魅力を再度掘り起こし、滞在時間を伸ばすことができるかが大きな課題となっています。
南三陸の観光のシンボル「さんさん商店街」

町では、こうした課題を解決すべく今年度、「滞在型魅力向上ワークショップ」を立ち上げ、宿泊施設や観光施設等を運営する民間事業者と協議を重ねてきました。11月6日(火)には、観光協会宿泊部会と合同企画として株式会社エーゼロ取締役の但馬武(たじまたけし)さんを招いて「南三陸滞在型魅力向上セミナー」と題した講演会を実施しました。

ファンを獲得するためには「最愛戦略」

「最高品質もしくは、最低価格での勝負となってしまうと資本力があって技術力があるところが勝ってしまう傾向にある。そうではない企業が、持続可能な産業としていくためには、いかにお客様に愛されるような商品やサービスを生み出すことができるかという価値判断による”最愛戦略”こそが大切になってくる」と話す但馬さん。

株式会社エーゼロ取締役の但馬武さん

「人は物語がとても好き。物語に巻き込まれて、熱狂していく。そのストーリーをどのターゲットにどのように伝えていくか、が大切になってくる。南三陸には人を魅了できるストーリーがたくさんあるはず」と訴えます。

顧客を虜にして、熱いファンを生み出す、最愛戦略の柱は「共感」「愛着」「信頼」の3つあると話します。

「共感がファンの熱狂を生み、愛着から関係性が深まっていくことによって唯一無二の存在となり、信頼が応援へと変化していく。それこそが、地域が目指すべき方向性ではないか」

熱狂の火種を見つけキャンプファイヤーへ

「南三陸の”強み”、”弱み”はなんでしょうか?」とこの日イベントに集まっていた約50名の町民に但馬さんは問いかけます。

「この場所にしかないニッチなコンテンツがある」「移住者などよそ者に対して寛容」などの強みがあがったものの、「地域のブランドとして統一感をもって発信できていない」「アクセスが悪い」「冬のコンテンツが弱い」などの弱みが会場からはあがってきました。

弱みのほうが多くでてくる傾向にあるというこの問い。

しかし但馬さんは、ある視点からは弱みであることも、角度を変えて見たり、違う枠組みにはめてみると強みに変わることもあると話します。「愛される地域となるためには、熱狂の火種を見つけることが必要。さまざまな角度から物事を捉える必要がある」と説きます。

「熱狂となる可能性のある火種を見つけて、その火種が好きそうなファンを見つけ、集め、大きな火としていく。そのストーリーを顧客に伝え、顧客も巻き込んでいく。一つの大きなキャンプファイヤーではなく、地域のなかにいくつもキャンプファイヤーができるようなイメージが理想ではないか。この流れそれこそが愛される地域・ブランドづくりに必要なプロセス」と話します。

原点に立ち返り、魅力を見直す機会に

東日本大震災から7年半。震災後、南三陸町が観光交流事業に着手できたのは、震災前から行われていた観光のまちづくりによるものが非常に大きな要因となっています。復興支援や復興応援での誘客に陰りがみえる今、改めて「この町の魅力はなにか」「なにを発信していくべきか」を、事業者それぞれの立場で原点に立ち返り、考え直す機会になったのではないでしょうか。

南三陸町長も「この町の最大の資源は“人”」と話しているように、ストーリーに富んだ人が多くいます。愛される地域となっていくには、人の存在は欠かすことはできない要素となるでしょう。一過性の観光ではなく、持続可能な交流を育み、南三陸町を発展させていくために。地域をあげて、熱狂を生む火種探しは続いていきます。

返礼品がリニューアル!「ふるさと納税」で南三陸との縁を紡ぐ。

南三陸町のふるさと納税の返礼品がリニューアルされました。そこにあるのは、震災から7年以上が経ち「復興して元気にやっています!」という想い。南三陸と縁を紡ぎ、第二のふるさとへ。南三陸のふるさと納税について企画課・高見里奈さんに話を伺いました。

全国から応援の声とともに寄せられたふるさと納税

寄附を通じて地域の自治体、そこに住む人を応援し、受け取った返礼品でさらに地域の魅力を知ることができる「ふるさと納税」。「生まれ育ったふるさとに貢献したい」や「頑張っているあの町を応援したい」といった想いを寄附金として形にできるだけでなく、近年、ユニークな返礼品が届くなどで、テレビ等でも取り上げられ、話題となっています。

総務省の実績データによると、平成23年度と平成29年度を比較すると、全国で集まった寄附金は約30倍と急成長。いかに多くの人々にとって身近なものになっているかがわかる数値です。

「南三陸町でも『ふるさと納税』に取り組んでいます。とくに東日本大震災以降、町の復興を応援したいという想いで寄附をしていだくことが多かったですね」と話すのは南三陸町企画課の高見里奈さん。さんさん商店街の本設オープンや役場庁舎の開庁など話題も多かった昨年度は全国から700件以上の寄附が集まりました。

「地元出身の方はもちろん、テレビで南三陸を知ってくれた方、ボランティアで訪れていた方などさまざまな方から申し込みをしていただきました」

復興して元気にやってます!の想いを返礼品に乗せて

「この町になにかしらの縁が生まれ、継続して関わってくれている皆様方に”恩返し”の強い想いを込めて、今年度、寄附いただいた方への感謝の品をリニューアルしました」と話す高見さん。
これまでの返礼品は、海産物を中心とした南三陸の旬を詰め込んだ「特産品セット」と、町内で使用できる「みなさとクーポン」に限られていました。

「震災から7年以上が経って、町内の業者・事業者も、『復興して、元気にやっています!』というメッセージを伝えたいという想いから、町内の事業者に返礼品への協力の呼びかけを行いました」

すると19もの業者が協力を申し出。

「海産物はもちろん、里山で育まれる農作物やお菓子から雑貨まで、多種多様な返礼品を用意することができました。これだけバラエティ豊かな返礼品が町内の事業者のみで実現し、改めて森里海がコンパクトにまとまっている南三陸の良さを実感しました」と話します。

◆返礼品の例

町内で使用できる「みなさとクーポン」。大人気のキラキラ丼も食べられます!
ASC国際認証を取得した牡蠣
町内のバイオガス施設から出る液体肥料を用いて作られたお米
食料品だけでなく、雑貨類も充実している

19業者28商品もの返礼品が。返礼品リストはこちらをご覧ください。

寄附金で町に賑わいが生まれる

みなさまから協力いただいた寄附金を、南三陸町では以下6つの柱を中心に、まちづくりを進めるためのさまざまな施策や事業の財源として活用をしていきます。

1.震災の伝承((仮)震災伝承館の建設等 )
2.協働による安全安心なまちづくり( 防災、防犯、交通安全等 )
3.なりわいと賑わいのあるまちづくり( 産業振興、観光振興等 )
4.快適でいきいきと暮らせるまちづくり( 福祉、健康づくり、子育て支援等)
5.地域を守り創造を育むまちづくり( 教育、スポーツ、文化振興等 )
6.戦略的で持続的な地域経営の展開( 効率的な行政運営、情報化の推進等 )

そのなかでも特徴的なのが、「おらほのまちづくり支援事業補助金」という補助金に充てられている点です。これは交流人口拡大のためのイベント開催、移住定住支援、コミュニティ再構築などを、民間の担い手が主体的に行う事業に対して応援する補助金。つまり、公共事業ではなかなか手の届かないような、南三陸町民自身が自分たちの町を盛り上げようと実施するアクションに「ふるさと納税」の寄附金は使用されています。

今年度「おらほのまちづくり支援事業補助金」を活用して開催されたイベント

そのため補助金を使用して開催されたイベントに、ふるさと納税寄附者が実際に参加をして、町民と交流を深め、さらに町の魅力を知って継続的に関わっていただく機会になる、といったことが期待されています。

感謝の想いを表現する場

ふるさと納税の申出書にあるコメントには「毎年南三陸町に行っています」「南三陸町に来てみて、人も優しくて、温かい町なんだなと思いました」という言葉が並んでいるといいます。

「寄せてくださるコメントを見て、『やっぱりこの町はいいところなんだなぁ』と実感しています」と目を細める高見さん。自身も南三陸町の出身。中学生のときに震災を経験したからこそ、継続的に関わってくれる人々に感謝の想いが尽きないと話します。

「町内の頑張っている事業者さんと協力をして、寄附をしてくださる皆様方に感謝の想いを伝えられたらと思います」

豪華な返礼品ありきのモノのやり取りではない。寄附者にとっても、町民にとっても、「ありがとう」「がんばってね」の想いを表現する場。それが南三陸町の「ふるさと納税」なのかもしれません。南三陸との縁を紡ぎ、第二のふるさとへ。南三陸のふるさと納税詳細については下記のページをご覧ください。

南三陸町「ふるさと納税」概要ページ
https://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/index.cfm/8,12421,41,html

「ふるさとチョイス」南三陸町ページ
https://www.furusato-tax.jp/city/product/04606

今も息づく絹とまゆの文化。入谷養蚕物語。

オクトパス君グッズで知られる「入谷YES工房」には、「cocoon」というまゆ玉を素材にしたハンドメイドクラフトのブランドがあります。かつて入谷で盛んだった養蚕、そしてまゆ細工文化は、今も受け継がれているのです。

かつて入谷の絹は世界一だった……!

こんにちは! ライターの小島まき子です。オクトパス君が大好きで、南三陸を訪れるたびに「入谷YES工房」に立ち寄るのですが、最近は「cocoon」のまゆクラフト製品もお気に入りです。ブローチやマスコットなど、まゆ玉を使ったハンドメイトクラフトに出合ったのは、入谷YES工房が初めて。めずらしいこともあり、どうして入谷でまゆクラフトなのか気になって、工房スタッフの方々に聞いてみたところ……。

「かつて南三陸で、特にここ入谷地区では、養蚕が盛んだったのです。その歴史・文化が、まゆ細工やまゆクラフトという形で今も息づいているのです」と、「cocoon」チームの牧野知香さんが教えてくれました。「『ひころの里』にある『シルク館』に行くと、入谷の養蚕の歴史がよくわかりますよ」と言われ、さっそく行ってみることに……。入谷の養蚕業について学んできました。

ひころの里の敷地内にあるシルク館へ
館内には養蚕に関わる器具や各種資料が展示されており、養蚕の歴史を学ぶことができる

入谷の養蚕の歴史は江戸時代にさかのぼります。その昔、入谷では砂金がたくさん採れて、村はたいへん潤っていました。しかし、やがて砂金は掘り尽くされ、人々は貧困にあえぐように……。そんななか立ち上がったのが、山内甚之丞という若者でした。

当時、伊達藩では絹織物の人気が高く、藩内全域で養蚕業を発展させようとしていました。それを知った甚之丞は、人々の生活を立て直すために養蚕業を広めようと、養蚕技術を学びに福島へ。最新の技術を身につけた甚之丞は、殿様の許可を得て入谷で養蚕を始めました。周辺の地域にも桑の栽培や蚕の飼育について伝授し、養蚕は本吉郡全体に広まっていったのです。

入谷に養蚕を広めた山内甚之丞の功績を紹介

気候が養蚕に適しており、生糸を紡ぐのに必要な水が豊富だったため、入谷では質のよい絹が生産されました。「金華山」と名付けられた入谷の絹は、伊達藩最高の品質と認められ、全国的に有名な仙台平織袴地を生み出しました。さらに、入谷の絹は京都の西陣織にも使われるように。伊達藩の絹織業はますます盛んになりました。

「金華山」で織られた仙台平の袴も展示されている

やがて生糸は外国にも輸出されるように。明治21(1888)年には「旭製糸株式会社」が設立され、宮城県で初めての近代的な機械を備えた大規模な製糸工場が志津川に誕生しました。そして明治33(1900)年にパリで開かれた万国博覧会で、「金華山」はグランプリを獲得。世界一の絹と認められたのです。

しかしその後、産業の変化などにより、本吉郡の養蚕は徐々に衰退。旭製糸株式会社も昭和12(1937)年に廃業となりました。

旭製糸株式会社の工場でつくられた生糸は世界で高く評価された

養蚕の歴史と文化をまゆクラフトで伝える。

養蚕業から生まれたのが、まゆ細工文化です。訪れたシルク館には、まゆで作った色とりどりの花や植木、ブローチやコサージュなどのアクセサリーなどが展示されていました。一瞬ほんとうの花に見間違えそうなほど精巧につくられたものも。年に一度開かれる「シルクフェスタ」には、愛好家たちが集まるそうです。

シルク館で展示・販売されているまゆ細工作品の数々
パーツとなる花びら1枚1枚をていねいに作っていく

シルク館から入谷YES工房に戻ると、ちょうど牧野さんがあじさいブローチを作っていました。まゆ玉からどうやってあじさいを作るのか見せてもらうことに。「まず、まゆ玉を大きさや形によって選別し、用途ごとに分けます。そして洗って、水に浸して、乾かしてから、作るものに合った色に染めます」と牧野さんが工程を説明してくれます。「あじさいの場合は、まゆ玉を切り開いて、花びらの金型で抜きます。それから、こてで熱を加えて花びらを丸くして、穴を開けて芯を通し、ボンドで土台に貼り付けていきます」。細かい作業が多く、かなり手間がかかるのだと知り、驚きました。

あじさいの花びらを土台に貼り付けていく牧野さん
さまざまな色に染められたまゆ玉のカラーバリエーション
やさしい色合いの「あじさいブローチ」はYES工房の人気商品

「入谷の養蚕の歴史とまゆ細工文化を継承し、新しい形で発信したいと思っています。私たちのまゆクラフトを通して、南三陸の歴史や文化、まゆのことを多くの人に知ってもらえたら……。そのためにも、魅力的な商品を生み出していきたいです」と牧野さんは話します。

世界を結んだ絹の道・シルクロードが入谷にもつながっていたとは……! まゆ人形に、歴史とロマンを感じました。

愛らしいまゆ玉人形。いろいろなアレンジができるので、作り手の創作意欲がかき立てられる

企業課題と本気で向き合った1ヶ月!復興・創生インターン報告会

今年の夏、全国から大学生8名が南三陸町に集結しました。彼らは約1カ月、南三陸町に滞在しながら、全力で町内の企業の課題解決に向き合いました。8名と受け入れ企業の声と参加学生の声をお届けします。

3回目の開催となった復興・創生インターンとは?

東日本大震災で被災した、岩手、宮城、福島の3県、各自治体で受け入れを行っている「復興・創生インターン」。一般的な就業体験型のインターンとはまったく異なるのが、このインターンの特徴です。被災地の中小企業が抱えている経営課題に対して、参加学生が経営者の右腕として課題解決に取り組む実践型のインターンシッププログラムです。インターン中は、1ヶ月間、学生同士で共同生活を送りながら各プロジェクトを推進していきます。学生にとって将来を考える機会にもなりながら、マーケティングやプロジェクトメイキング、課題解決能力などの向上も図ることができるようです。

2017年から始まり、夏・春にそれぞれ開催し、今回で3回目の開催。全国から学生92名が被災3県の各ブロックに分かれ活動を行い、南三陸町では株式会社ESCCAと一般社団法人サスティナビリティセンターがコーディネート機関として受け入れ、学生と企業のパイプ役を担いました。町内5つの受け入れ企業で8名の学生がインターンを実施。参加学生の多くが1、2年生で、なかには今年春のインターンに参加した学生もいました。

下記は、今年度夏に行われたインターンの受け入れ企業とテーマです。

有限会社山藤運輸「社長の右腕となり、社員一人一人が主役となる感動創造企業へ向けたひとづくり革命を実行せよ!」

株式会社はなぶさ「中小企業のひとが輝き、会社を変える究極のシネマティックドキュメンタリーを創造せよ!」

NEWS STAND SATAKE「マニアックな店主のこだわりカフェ&雑貨店の認知度を向上させ、顧客の心を掴むコミュニケーション企画を成功させよ!」

株式会社及善商店「日本の食文化を守り育てる若き経営者とともに海外市場に挑戦する足がかりを作れ!」

株式会社ヤマウチ 「若者視点のマーケティングを駆使して箸が止まらないヒット商品を生み出せ!」

9月14日に行われた、最終成果報告会では受け入れ企業関係者など約30名が参加。それぞれこれまでのインターンシップ期間中の成果を発表。事業所のミッション・課題に対して学生の観点から具体的かつおもしろいアイディアで課題解決の提案をしていました。企業の経営課題を自分ごととして捉え真剣に悩み、考えた姿が容易に想像できるものばかり。

株式会社及善商店でインターンしていた2人は、今後も自分たちが提案した事業を継続してやっていきたいと話していました。学生たちの頑張りを見て、受け入れ企業からは「新卒採用したい」などの声も上がっていました。

学生たちが1ヶ月のインターンで感じたこととは?

成果発表ののち、参加学生それぞれに「どんな1ヶ月でしたか?漢字一文字で表してください!」という問いが出されました。南三陸で過ごした1ヶ月という期間は、企業の課題解決に貢献することはもちろん、それぞれの人生にとって少なくない影響をもたらしたことでしょう。下記に学生があげた言葉と、その理由を並べていきます。この1ヶ月間の充実具合がそれぞれの言葉からにじみ出ています。

「魚」:南三陸に来るまでは、普段食べないし、あまり好きではなかったが、インターンの商品開発を通して魚が好きになった

「知」: “働く”へのイメージが変わった。また新たに知ることもたくさんあった。

「伝」:自分の意見を伝えることがすごく苦手で、インターンでも難しいと感じた。しかし、インターンを通して、改善されたと思う。

「縁」:素敵な出会いがたくさんあった。出会いを大切にしていきたい。

「回」:ひたすら仮説を立てては検証を繰り返し行うことができた。1ヶ月間考えをきらすことなく、ひたすら考えていた。

「人」:人と関わることがすごく多かった。考えを理解し合うことは難しいけど、互いに分かり合えた時すごく喜びを感じた。

「導」:これからの学びの軸をしっかりすることができた。地域で働くべきか悩んだこともあったが、今回参加してビジョンが見えてきた。

「歩」:参加する前は自信が持てなかったが、このインターンで1歩成長することができた。

これからの人生の財産にして欲しい

「挫折や迷走がなかったが、果たしてハードルをもっと上げれば良かったのかというと違うと思う。これまでやってきて、受け入れ企業にも変化があったから今回こういう結果になったと思う。これもまた南三陸ならでは」と南三陸ブロック事務局である株式会社ESCCA代表山内亮太さん話していました。「なにより、この経験を人生の財産にして、今後の学校生活等につなげてほしい」と最後にエールを送っていました。

この一ヶ月で大きく成長した彼ら達。それぞれの地に戻り、学生生活の中でまた大きく成長して町に戻ってくるかもしれません。

2019年春の復興創生インターンの募集も始まっているようです。また春に全国から集まった学生が、どんなアイディアで町を盛り上げてくれるのか楽しみです!

2019年春復興・創生インターンの募集はこちらより

事務局を担った株式会社ESCCAの山内亮太さん
事務局を担った一般社団法人サスティナビリティセンターの太齋彰浩さん

地域に戻り、地域に根差す!歌津寄木の新リーダー

南三陸町で元気にたくましく生きる人たち「南三陸きらめき人」。故郷歌津寄木浜から一度町外に出て戻った。だからこそ、南三陸・歌津・寄木そして人と人のつながりが分かる!笑顔のステキな畠山幸男(さちお)さんを紹介します。

大きな目標を胸に、大海を目指す!

畠山さんは、「親孝行と将来家を建てる!」という目標を立て、故郷歌津寄木浜を出て、宮古海員学校に進学。厳しい寮生活のなか二年間踏んばりました。

卒業後は、大手の船会社に入社して外国航路客船の船員として従事。念願の大海に出て嬉しかったが、当時はキャリアの差(大卒の方と同期)があり、上下関係の壁も厚かったそうです。それでも必要な資格を取得し、船員としてのスキルを高めました。

オイルショック以降は自動車運搬の貨物船に勤務。台湾出身の方と一緒に航海中のある日、パナマ運河でトラブルがあり、言葉が通じないことで四苦八苦したこともあったと振り返ります。

その事がきっかけになったのか、心機一転、熱海市のホテル学校に入学。全く別の世界で修業を始めた畠山さんは、東京晴海の大きなホテルに就職。自動車ショーなど大きなイベントも積極的に手掛けたと誇らしげに語ります。

平成4年、松島湾を眺める大きな老舗ホテルに転職。これまでの経験や技をいかんなく発揮する事になります。売店主任だったころは、一朝で300万円ほど売り上げたこともあったそうです。

また、故郷歌津地域の知人に『還暦記念同級会』の開催を勧めたところ、好評を博し、以降こちらのホテルを利用するようになったそうで、毎年先輩たちの喜ぶ姿に出会えて嬉しかったと話します。

平成16年、家族の事情で歌津・寄木に戻る事になり、新たな環境での生活が始まりました。

経験・技を活かし12年半

故郷で過ごす日常を一変させたのが東日本大震災。

「家族は全員無事だったので、これからは地域の方と協力して暮らしていこう。」

と畠山さんは決意しました。45軒ほどあった寄木集落にも大津波が押し寄せ、被害を免れたのがたったの12軒ほど。自立再建=建て直したのが畠山さんを含め8軒、防災集団移転事業で高台に住む事になったのが22軒だと教えてくれました。

寄木漁港からかつての集落を眺める。ここにはたくさんの住宅が建っていました。

震災直後、宮城県は【東日本大震災復興支援員】を募集し、南三陸町から畠山さんを含む4名が採用されました。翌年からは宮城大学に事業が引き継がれましたが、同じメンバーが被災地南三陸の復興に向けた様々な課題を掘り起こしながら、地域住民の声を聴いて行政につなげる役割を担い、奔走しました。

その頃から、人との交流や会話の重要性を再認識し、住民と関わっている畠山さん。とにかく誰かと話すのが楽しいと語る表情はにこやかです。

寄木漁港。「河口には水門があり、津波に備えていましたが、勢いが凄すぎて…」と話す畠山さん

寄木住民の結びつきは健在

寄木地区の高台移転場所は、特別養護老人施設つつじ苑の東側の山林。地下が堅い岩盤なので造成工事はだいぶ難儀したようですが、昔からの知り合いが隣り合う新興住宅地になりましたと教えてくれました。

寄木地区には『契約講』が現在も存在します。行政区もありますが、地域住民の暮らしや冠婚葬祭におけるつながりは契約講に勝るものはないと力強く話してくれました。この住民組織は、震災後の避難・仮設住宅生活の頃はもちろん、将来の高台移転の不安解消にも力を発揮します。そして全世帯が自立し始めた今、新たなコミュニティ再生においては、契約講と部落会(行政区)が一緒になって支援・応援を繰り広げています。

さらに、復興支援員制度が終了してからも同じメンバーを中心に立ち上げられた『一般社団法人復興みなさん会』の理事としても活躍、住民に寄り沿った活動を展開しています。

寄木行政区長として

平成30年3月に開催された地区総会で次期区長に推された畠山さんは、一旦は固辞しましたが全員一致での要請により4月から正式に南三陸町寄木行政区長に就任しました。さっそく、宮城県地域コミュニティ再生支援事業に補助金申請し、住民交流を密にする行事の開催に取り組んでいます。

「お花見やバーベキュー大会やグラウンドゴルフ大会、カラオケ大会など毎月のように集まる仕掛けを企画、たくさんの住民が集まってくれて嬉しい。」と手ごたえを感じているようです。一方、「子どもの数が年々少なくなり、伝統行事『ささよ』の継承も心配だ」とも言いますが、移住者も仲間に引き入れる温かみがある寄木地域なら大丈夫だろうと感じました。

「長男が松島町のホテルに勤めているがまだ半人前だ」と手厳しい。

「環境が変わり大変だが、家族みんな幸せだなと感じながら暮らしたい。嫁いだ長女と孫に会うのが待ち遠しい。趣味は庭の花を育てるくらいしかないけど、いろいろな方と交流するのも楽しいよ」

最後まで優しい笑顔のステキな畠山幸男さんでした。

ところで、十代の頃に立てた目標『親孝行と家を建てる!』は?

もちろん、どちらも達成したようです。