南三陸に生きる人を巡り、一巡りしていく連載企画「南三陸ひとめぐり」。第27弾は、この春新成人となる大沼ほのかさん。小学校6年生の時に被災。激動のなか成長した彼女はこの4月に古里にUターンし農業を志すという。その想いに迫りました。
この春、Uターンし就農
この春、南三陸では153人が新成人となる。1998年4月2日から1999年4月1日に生まれた人が対象となる今年の成人式。この町にとっても、新成人となった彼女ら彼らにとっても、大きな出来事となった東日本大震災が、古里を襲ったのは小学校6年生のとき。卒業式を目前に控え、これから歩む中学高校という最も楽しい時期を心待ちにしていたことだろう。
町に残った者、離れざるを得なかった者、町に戻ってきた者。さまざまな想いを抱え、ときには自分の意志の及ばぬ決断をせざるを得ないこともあったかもしれない。そんな文字通り、激動の時代を歩んできた若者たちが、晴れて新たな門出となる成人式を迎える。
この春から、南三陸町で新たなチャレンジをする新成人がいる。大沼ほのかさんだ。
南三陸町歌津地区出身の大沼さん。現在は名取市にある宮城県農業大学校で農業を学んでいる。園芸学部に所属し、専攻は果樹栽培。
「学校ではりんご、ぶどう、柿、ゆず、いちじく、梅などたくさんの果樹の栽培を行ったり、実際に収穫して販売をするところまで学んでいます」と実践的な授業の中で農業のスキルを磨いている。「なかでも私が専門にしているのは栗です。卒業論文も栗について研究をしていました」と笑顔で話すほのかさん。2年間で卒業となる農業大学校は、この春卒業を迎える。
「卒業後は南三陸に戻って栗の栽培をします。就農ですね」と生まれ育った町へのUターンを決意する。わずか20歳ながら迷いなき決断をする背景にはほのかさんの両親の影響があった。
夢を実現する両親の背中に憧れて
ほのかさんが小学校に入学するころ、母が始めたクレープの移動販売が町内、そして近隣の町でも大人気となった。
「お祭りのときなどに、お客さんの呼び込みや店番のお手伝いをするうちに、自然と将来はカフェを開きたいという夢をもつようになりました」と話す。しかし、ほのかさんが小学校6年生のとき、東日本大震災が町を襲い、自宅兼加工場を流出した。
その後、一家は北海道で避難生活を送ることになった。震災前までサラリーマンをやっていた父が北海道で養鶏に出会い、それを学んでいった。震災から2年が経過するころ、一家は古里・歌津地区に戻り、父は養鶏を、母はクレープを再び焼き始めた。
「正直、私自身は南三陸に戻ってくるのがそのときは気が進まなかったというか。姉妹3人で帰ってきたけれど、もともと家があったところを見に行くことすら渋っていました。きっと震災があってどんどん変わっていく現実を見たくなかったんだと思います」
それでも両親は南三陸でやることにこだわっていた。
「『根を張っていきたいと思えるところが南三陸だった。この町を発展させたい』って言っていたのを覚えています」
田束山の麓に、平飼いの鶏の鶏舎も自ら建て、仮設だったさんさん商店街の空き店舗を借りて「田束山麓 自然卵農園直営店 自然卵のクレープ モアイ店」をオープン。
再び南三陸の名物を生み出していく両親の背中を見ていたほのかさんは「観光果樹園とカフェをやりたい」という思いを強くしていった。
この町で農業をすることに、意味がある
そんな思いをもって進学した農業大学校では、「クレープはもちろん、さまざまな加工品にできる栗は魅力がたくさん」と栗の可能性を見出し、研究を行い、栗と向き合い検証を繰り返す日々を過ごしていた。そんなほのかさんの研究をまとめた卒業論文が「宮城県農業大学校 2018年度プロジェクト発表会」において最優秀賞を受賞。成果を携え、南三陸に戻って、本格的に栗栽培に取り組む準備を進めている。
しかし、そこで直面したのが土地という大きな課題だった。中山間地でまとまった土地が確保しにくい南三陸町。そして栗に適した土地は容易には見つからなかった。
「一時は隣町の登米市など、南三陸以外で探さざるを得ないかなと考えたこともあった」というほのかさん。しかし、彼女は「南三陸町でやることに意味がある」と町のなかで探し続けることにした。そこには、地元に戻り再生を決意した両親の姿。そして、この町で頑張っている農業者の姿があった。「それで自分がほかの町に行って農業をやっていたら負けのような気がして…」
担い手不足、耕作放棄地の増加など農業の抱えている課題は大きい。それは南三陸でも例外ではない。しかし、「農業は楽しくて仕方ない。最先端の技術を取り入れたり、新しいチャレンジにも積極的に取り組みたい」と意気込む新成人の姿に、これからの南三陸の農業に、大きな希望を感じずにはいられない。