いろいろな人が活躍できる土台をつくりたい。

南三陸町に移住し起業活動をおこなう「地域おこし協力隊」隊員を紹介していく連載企画。第7回は、隊員と町役場そして地域との間に立ち、隊員たちの事業進行をサポートする鈴木麻友さん。いろいろな人が活躍できる町の土台をつくりたいと、自身も神奈川から移住して来ました。

協力隊員と、地域や行政のつなぎ役

地域おこし協力隊の制度を用い、様々な起業家の誘致に取り組む南三陸町。

現在11名在籍する協力隊員たちはみな移住者であり、こうした小さな町で事業を進めて行くうえでは、地域や地域住民との密接な連携が欠かせない。そのためほとんどの隊員たちは、それぞれのプロジェクト内容に応じて、地域のパートナーとなる人物や事業者たちと共に事業を深めていくシステムになっている。

そんな地域のパートナーやそのほか関わる多くの町民の方々、そして協力隊事業の導入主である町役場と隊員たちとの間に立ち、調整役を担うのが株式会社ESCCA「事業コーディネーター」の鈴木麻友さん。

平成29年10月に、勤めていた大手メーカーの技術営業職を離れ、神奈川県から移住してきた。

鈴木さんの所属する株式会社ESCCAは、大きく言うと人を育てることが主たる事業だ。

地域おこし協力隊の制度を利用した起業家の誘致と育成もその1つ。

町での起業を志す人たちに向けた創業支援に関する起業家育成プログラム「SESSIONS」も、1年間の第1期を終え、今年度第2期がスタートした。

そのほか、春夏の年2回開催される復興庁「復興創生インターンシップ」では、町内の企業数社に大学生10名ほどが1ヶ月にもわたり滞在し、経営者たちと共に経営課題の解決に挑むが、鈴木さんたちは地域側コーディネーターとして、経営者らとの事前のプロジェクト設計や、学生が滞在中のサポートを担う。

協力隊員のサポートに関する業務は実に多岐にわたり、まさに着任前から任期満了まで、隊員・行政・地域との4人5脚である。

こんな事業に取り組んでみたい、こんな町にしたい、と夢をもつ事業者や行政メンバーたちと話し合いながら3年での事業化を見据えたプロジェクトを設計し、プロジェクトを推進する人材を募集する。募集にあたっては説明会から選考、着任後の住居探しや自動車の手配などを手掛ける。

もちろん着任がスタート地点。事業立ち上げに関するサポートをはじめ、勤怠や予算の管理なども行政から任されている。

鈴木さんの社内での肩書は「事業コーディネーター」。現在は4名の隊員を担当し、彼らと伴走している。

協力隊メンバー全員での合同ミーティングを隔週で企画し、各々の活動状況や学びの共有、メンバーがより活動しやすい環境整備に向けたアイデア出し、時にはメンバー同士のコラボレーション企画の検討なども行う。

またメンバーそれぞれと一対一の個別ミーティングも定期的に実施し、プロジェクトの進捗やスケジュールの確認、課題の整理、地域の情報共有などを行なっている。

11名の協力隊メンバーたちは、取り組むプロジェクトも様々であれば人間性も十人十色。

個性豊かなメンバーそれぞれと、それぞれに適した接し方をできるのは、まさに明るい鈴木さんの人柄のなせる術だ。

「同時に複数の人々と協働しながら人や事業をつくり上げていくには、前職の時とは違う頭の使い方が必要なところもあり日々試行錯誤の連続。けれどその一つ一つがこの町の未来につながっていくと考えるととてもわくわくします!まちづくり・ひとづくりに関わることで町の土台をつくり、いろいろな人が向上心を持って活躍できる地域を作って行きたいです!」

鈴木さんの移住のきっかけは、こうした町の土台づくりへの興味・関心からだった。

“小さなところから社会を変えて行きたい”

東京都で生まれた鈴木さんは、転勤族だったご両親と共に全国各地を転々とし、移住前は神奈川に在住していた。都内の大学では都市計画を専攻。主にアジアの途上国の国家戦略や発展に関心を持っていたそう。

「バンコクに行った際、高い展望台から町を眺めると、都市と自然の境界線を目の当たりにすることができたんです。こうやって都市が拡大していくにつれて自然が減っていくのだな、と感じ、自然に負荷がかからないよう便利な暮らしが発展していくために、日本のまちづくりのノウハウが活かせないか、と考えました。」

途上国のインフラ整備に関わりたいと、大手メーカーに就職。鉄道やバスなどの公共交通に関するプロダクトの技術営業を4年間経験する。研究職と技術職と営業職の間に立ち、思えば前職も同様に、色々な人たちの調整役を担っていたという。

「大手メーカーに勤めて、日本の高い技術力に触れることができて、こうして戦後の日本は経済成長してきたんだなと、とても誇りを持って仕事をしていました。」

鈴木さんと南三陸町との出会いは、少し時を遡り、彼女が学生の頃だった。

大学4年生の卒業を迎え、大学院への進学を控えた頃に震災が発生。卒業式や入学式は中止となった。

大学院への入学間もない4月の下旬、先輩に誘われ南三陸町へボランティアに。

主にベイサイドアリーナで物資の仕分けや配給の手伝いなどをおこなった。

その後もボランティア活動や研修等で、気仙沼・女川なども含め数回訪問。移住という意識はなかったが、なんとなしに三陸沿岸への関心は持ち続けていた。

そんな折に、現在の勤め先の代表である山内亮太氏に出会い、南三陸での協力隊事業の立ち上がりを知る。

同時に山内氏から、よければ南三陸に来て一緒に取り組まないかと誘いを受けた。

「当時担当していたプロジェクトがひと段落するまでにはもう数年かかりそうで、どうしてもそこまで見届けたかったので、一度はお断りしました。」

業務でアジア諸国と関わる中で、中国や韓国などがより安く早く技術が優れた製品をどんどん世界に送り出していることを感じた。

そんな中で日本が一歩先を行っている点は“他国よりも高齢化が進んでいる”という点だった。諸外国も近い未来に高齢化社会を迎えることを見越すと、日本の“人口減少・高齢化社会の中でのまちづくり”という知見がゆくゆくは他国にも活かせるのではないかと考えた。

「自分の力をそこで活かしたいと思って、それだったら大都市より、より高齢化の進んでいる地方社会の方がいいかも、と思い始めました。」

他地域に行くのであれば縁のある南三陸が良いだろうと、移住に向けて考え始めた。

周りの人に意見を聞いたり、自分の将来年表を描いてみたりもした。

現在担当しているプロジェクトを見届けたいという想いとの葛藤の末、このタイミングでの移住を決心する。

「町の復興の過渡期であり、たった1年で町の状況が大きく変化する時期で、ちょうど協力隊事業が立ち上がったばかりでもあったし、行くなら今しかないと思ったんです。」

幸い周りの多くの人にも恵まれていて、プロジェクトの残りは信頼できる仲間たちに任せられると感じた。

上司からの「これで終わりではなく、またどこかで一緒に仕事ができるといいね」という送り出しの言葉も印象深い。

「大きなところは大きな会社に任せ、私は小さなところから社会を変えて行こうと思いました。」

ボランティアで訪れた町が、暮らす町に

転勤族育ちだったため、新しい町での生活には大きな抵抗もなく町へ移住。

町内のシェアハウスで、移住者6名ほどで生活を送っている。時には国内外からやってくる短期入居者が加わることもあり、バックグラウンドが多様なメンバーとの会話から得ることは大きいと言う。

鈴木さんの仕事にかける熱意や、“色々な人が向上心を持って活躍できる地域をつくりたい”と語るまちづくりの想いからは、有り余るストイックさをいつも感じる。

そんな性格が趣味にも出ていて、休日には運動を欠かさない。

「東北風土マラソンをはじめ、フルマラソンは過去3回完走しました。月2~3回くらいはジムやプールに通ったり、自宅の近所でもたまに走っていますね。」

震災から1か月足らず、まだ電気が通ったばかりのベイサイドアリーナにボランティアに訪れ混沌とした雰囲気を味わったのが、現在では居住して同じ施設で身体づくりをしているのが、とても感慨深いそうだ。

最近は役場職員のみなさんと登山にも行っているとのこと。

「昨年秋に訪れた栗駒山の紅葉がとてもきれいでした。ふらっと気軽に、身近な自然に触れられるのが町の魅力ですね。自宅のカーテンを開けると田んぼが見えて、四季を映し出していて。三陸道で夜帰ってくると、町に入った瞬間にふっと星がきれいに見えたりもして。」

「地域の食材が美味しいし、産直に通い始めたら、それ以外で買い物する気がしなくなってしまいました。神奈川にいた頃は“○○産”と有名な産地が書いてあるだけで美味しそう、と思っていましたが、考えてみれば地元の神奈川産の方が当然新鮮なはずで、地元産のものをもっと食べていればよかったな、とこちらに来て気づかされました。」

と、美しい自然と豊かな食に包まれた現在の暮らしをとても満足げに語ってくれた。

移住して早1年、新たな仕事を始めてからどんどんと知り合いも増えている。

「とにかくいろいろな業種業界の人と関わるようになって、いろいろなことに興味を持つようになりました。何を見ても好奇心が湧いてきて、もっと知りたいと思って以前よりも本を読むようになりましたね。アウトドアチェアを買ったので、温かくなったら海辺でコーヒーを飲みながら本を読むのが楽しみです。」

 

12月・1月と新たに3名の協力隊員が着任した。

ランナーである鈴木さんにとって“スタートダッシュ”はとても重要だ。

新メンバーたちの事業が今後どういう風に進んでいくのか、上手にスタートダッシュが切れるようサポートしたい、と抱負を語る。

「総勢11名になるゆかいなメンバーと、50年・100年後を見据えて、今を楽しむ人々が集まる町をつくっていけるよう、万全の体制で挑んでいきます!」

鈴木さんの伴走のもと町の未来へ駆けて行く地域おこし協力隊を、ぜひ応援してください!

南三陸の高校生が米国研修を通じ、まちの活性プランを企画!

南三陸町の高校生が3月下旬からアメリカのワシントンD.C.などに訪問し研修を行います。志津川高校、佐沼高校、気仙沼高校など5校の1、2年生計16名が参加。地元活性化のリーダーとなる人材へと成長することが期待されています。

16名の生徒が、約10日間の米国研修に参加

南三陸出身の高校生が対象となって米国研修などを行い次世代リーダー育成を目指す「TOMODACHI 日本アムウェイ財団 東北ミライリーダー・プログラム」。このプログラムは、日米の次世代リーダー育成を目指す公益財団法人米日カウンシルージャパンTOMODACHIイニシアチブが主催し、日本アムウェイ財団協賛のもと実施されます。

特に観光分野において、東北地方の次世代リーダーの育成を目指したプログラムとして実施。初年度となる今回は、南三陸町出身の高校生が対象となり、志津川高校、佐沼高校、気仙沼高校、石巻高校、仙台育英高校の5校に通う1,2年生16名が参加。今年1月から英会話レッスンなどの事前研修を行い、渡米に向けた準備を進めてきました。3月23日〜4月3日の10日間米国に滞在し、現地の高校生と共に米国の観光に対する取り組みを学ぶほか、ニューヨークでは9.11メモリアルミュージアムの視察、ニュージャージーではハリケーンにより大きな被害を受けた地域の視察も行い、大きな災害等をどのように語り継ぎ、再建していくのかも学びます。

米国を訪れて終わりでないのがこの研修の特徴です。帰国後、米国での経験をもとに9月までの期間を使い、南三陸町の活性化を図る観光プラン等を策定します。さらに9月には一般に向けた成果発表も予定されており、9ヶ月間という長期の研修プランとなっています。

南三陸ポータルセンターは、本プログラム協賛の日本アムウェイ財団が建設を支援

町を背負う人材となることを期待

米国研修に先立ち、2月23日には、事前オリエンテーションが開催されました。

日本アムウェイ財団代表理事の佟嘉楓さんは「米国でよい出会いをして、素晴らしいアイディアに出会ってほしい。そしてそこからインスピレーションを感じてほしい。世界に南三陸の素晴らしいスピリットをどのように伝えていくのか、一人ひとりがプロデューサーになったつもりで滞在して、南三陸町に戻ってきてほしい」とエールを送りました。

佐藤仁南三陸町長は「東日本大震災の際にはアメリカにも助けられたことが多い。そのときの協力に感謝の想いをみなさんにまずは伝えて欲しい」とメッセージを送りました。さらに、「訪問先のことはもちろん、南三陸町のことについてもたくさん勉強してから出発してほしい。アメリカでの経験やその後の研修を通じて、未来の南三陸を背負ってもらえるような人材となっていってほしい」と激励しました。

震災当時は小学生だった16名の参加生徒。「東日本大震災以降、苦しみもがきながらも前に進んできた大人たちの後ろ姿を見て、みなさんは育ってきた。これからは先頭に立って、一生懸命やっていく姿を見せてほしい」と話す佐藤町長。

南三陸町の良さをどのように発信するかーー。外からの視点も交えた参加生徒のまちの活性化プランづくりに期待がかかります。

緊張した面持ちの参加生徒たち
3月3日には町内で漁業体験など体験型ツーリズムなどを体験した参加生徒たち

物語と共に海産物を届け、漁業の活性化に携わりたい!/井口雅子さん

南三陸に生きる人を巡り、一巡りしていく連載企画「南三陸ひとめぐり」。第28弾は、今まさに旬を迎えている牡蠣を扱う「たみこの海パック」に勤める井口雅子さん。2017年10月に移住し、漁業の活性化に携わりたい!と意気込む彼女の想いに迫りました。

ボランティアで気付いた海産物のおいしさ

2017年10月に南三陸町に移住した井口雅子さん。現在は海産物のギフトなどを取り扱う「たみこの海パック」で広報や営業などを担っている。

東京生まれの井口さん。小さいころにアメリカに住んでいた経験をもとに、設計会社で海外案件を担当するなど英語を生かした仕事を行っていた。そんな折、東日本大震災が発生した。

「震災の前年にたまたま東京から岩手まで海沿いをドライブしたことがあって。シュノーケリングが趣味だったので、ちょこちょこ車を降りて、入れそうなところに入ったりして。あんなに奇麗だった海、そして温かく迎えてくれた町や数多くの人々の命が奪われたことにショックを受け、気になっていたんです」

実際に足を運んだのは2014年7月。自身もシュノーケリングをするなど海が大好きだったことから、漁師のもとでボランティアに参加した。震災から漁業再開へ、必死の思いで立ち上がって来られた漁師さん達の力強さ、ひたむきさ、当時を朗らかに語る器の大きさに魅了された。

「新鮮な海産物がこんなにもおいしくて、養殖業がこれほどまでに手のかかるものだったことを初めて知りました。東京に戻っても、養殖物の成長が気になったり、漁師さんとそのご家族に会うのが楽しみになっていました」

そして2016年に、南三陸町戸倉地区の牡蠣養殖が日本初となるASC国際認証を取得。震災後牡蠣養殖棚を3分の1に減らし、「奪い合う漁業」から「分かち合う漁業」へと、環境に配慮した漁業のあり方に転換したことに、「もともと海が好きで、海洋資源の保全に興味があった」という井口さんは大変感銘を受けたという。

後悔したくないの一心で移住を決意

そうした考えをもっているなかで、女性の雇用の場を大事にし、おいしい海産物を物語とともに届ける阿部民子さんに出会った。

「ブランド化することも、営業の経験もない。そんななかで自分が行ったところで何かできるのだろうか?と考えたり、すごく悩んだ」と振り返る井口さん。ただ、「挑戦してみればよかった、と後で後悔したり、現場も知らずに頭でっかちになることが嫌だなって。現場に身を置いて信頼関係を築いたり、東京にいた感覚を持ち合わせることで、自分にできることを悔いのないようにやってみよう!」と移住を決断した。

たみこの海パックで活動を始めてから、間もなく1年半が経とうとしている。経営面や商品内容を民子さん、そしてスタッフとともに検討することから、広報や営業、発送処理など幅広く仕事をする。ASC認証の戸倉っこ牡蠣の販売も手掛け、そのおいしさと取り組みのストーリーから知名度が上がっていることを実感しているという。

「選りすぐりの海産物がお客さんに喜ばれることが何よりの喜び」と話す。

漁師のストーリーを全国、世界へ

「漁師さんは自分が育てた海産物を『おいしい!』と食べてもらえることが何よりもの励みになる。生産者と消費者が交流できるようなイベントを企画してみたい」

台風、低気圧、貝毒の発生……。海産物が消費者の元に届くまでには多くの試練があることを目の当たりにしてきた。移住して、現場の生産者により近いところで毎日過ごしているからこそ、生産者のストーリーを伝えながら海産物を届けたいという想いが強くなっていった。

そして、その伝える相手は国内にとどまらない。海藻について学び、オリジナルのふりかけを作る人気のワークショップは、これまで海外の方も複数回受け入れを実施。「日本の食文化を海外の人にも伝えていきたい。前職の英文事務の経験を生かして、インバウンドにも積極的に挑戦していきたいですね」と意気込んでいる。戸倉から全国、そして世界へ。井口さんが惚れ込んだ海とそこで生きる人々のストーリーが海を渡っていく。

海外からのお客様にも好評をいただいているワークショップ

隊長と呼ばれる地域のリーダー

シリーズ「きらめき人」。元航空自衛隊隊員。退官後の平成14年、故郷南三陸に戻り地域に溶け込もうと積極的に動いた。その有言実行する力は、現役時代の厳しい鍛錬と持ち前の社会性にありそうだ。

部活帰りにかけられた声

南三陸町チリ地震津波災害30周年記念誌(平成2年発行) から引用

志津川町荒砥地区で生まれ育った佐藤良夫さんは、地元荒砥小学校を卒業した後、志津川中学校に進学した。部活として野球部を選んだので、毎日の自転車通学はそれだけでも鍛錬になっていたのかもしれない。が、成長期の少年にとっては、疲れと空腹感でヘトヘトの帰り途だったろう。

昭和35年5月24日早朝に襲来した「チリ地震津波」により、三陸沿岸の町や村は壊滅的被害を被ってしまった。中学校に入学したばかりの良夫さんは、当時のことは忘れられない日々だと語る。

部活が終わりいつものように自転車をこぐ帰宅途中の平磯あたりで、自衛隊員から声をかけられた。

「兄ちゃん、腹減ってないか?俺たちのカレー食って行けよ!」

津波の後、自衛隊や警察官たちが残骸だらけの街に入り復旧活動や捜索をされていたのは知っていたが、中学生から見たら怖い風貌の大人から声をかけられる。友人と顔を見合わせながら少しビビっていた。

「いえ、大丈夫です」

何と言って断ったかは覚えていないけど、学校や親から寄り道しないで帰るようにとも言われていたせいもあり、その場をすぐ去りたかった。

「そんなこと言わないで、食って行けよ。美味いぞ!!俺たちが作ったんだから」

何度も勧められるものだから、意を決してごちそうになることにした。

「うめ~、これ、うまい!!」

確かに空腹だったからかもしれないが、本当に美味しかったと振り返る。

南三陸町チリ地震津波災害30周年記念誌(平成2年発行) から引用

一見屈強で怖い存在の自衛隊員がすごく格好良く感じた時間で、カレーをほおばりながら尊敬の念も芽生えた出来事だった。

オレもこんな大人になりたい!

憧れを強く感じた良夫さんが自衛隊員になることは自然の流れだった。

航空自衛隊に入隊してからは、厳しい訓練に明け暮れた。松島基地や熊谷市など各地の基地に配属、主に空中輸送機に搭乗したそうだが、特に硫黄島での訓練は筆舌に尽くしがたいと教えてくれた。

激しい異臭(硫黄)が漂う小さな火山島には、湧水がなく雨水を溜めたり泥を含む貯水池をろ過するなどの作業を課せられた。食料も不足するなか、今でいうサバイバル生活は本当にきつかったと語る。

そんな経験を経てやがて若い隊員を指導する立場になった良夫さんは、任務中は鬼のように厳しく振る舞う上官になっていた。現在の温厚さからは想像できないと言うと「訓練は有事を想定しており、ちょっとしたミスが命を左右する。真剣に向かわないと死ぬこともあるからね」鋭い眼光で答えてくれた。

ところが、仕事が終わると優しい面倒見の良い「兄貴」に一変するらしい。そのことは、退官後現在も全国にいる部下や後輩から慕われているという話からも実感できる。

「やってみて、言って聞かせてやらせてみせて、褒めてやらねば人は動かず!」

佐藤良夫人生訓=座右の銘だと胸を張る。続けて「リーダーとは、責任と決断と信頼を持ち合わせなければならない。そんなことを言い聞かせながら部下を育てた」

災害派遣で気づいたこと

自衛隊員は、災害派遣されることが往々にしてあるのだが、とある被災地で活動しているとき、地元の住民からとても感謝されたと語る。

東日本大震災の時は、とっくに退官して南三陸町で隠居?生活していたのだが、当時の気持ちが蘇り、復旧活動に汗を流す後輩の自衛隊員たちに対し、出来る限り協力したいと申し出た。

「自分が被災者になって解った。受けた恩があったから、今みなさんにお返ししている」

そう語るときの良夫さんの目は、とても穏やかだ。

震災直後、誰とも連絡が取れない時期があったが、安否が無事確認されると多くの友人知人が支援に来てくれるようになった。

「ありがたいね。昔からつながりがあったからだな」

「良夫さんって、本当に皆さんから慕われているのですね」と言うと「そうかな~」と照れながら小さく笑った。

町を訪れる方々に東日本大震災の様子や現状を紹介する震災語り部活動も行っており、その時知り合った人との交流も続いているという。わざわざ良夫さんを指名してくれる方もいるそうで、語り口調はもちろんだが、本人のお人柄に惹かれるのだろう。

岬の公園を復活させよう!

良夫さんが毎日通学していた袖浜地域には、海にせり出した岬に小さな公園があった。

「その頃は…アベックがよく来ていたんだよ!アベックって知ってる?今でいうカップルだな」

志津川湾が一望できる岬の公園は、ちょっぴり薄暗くて雰囲気が抜群だったという。

「良夫さんも彼女と来たことがあるんですか?」

「だ~れ~、オレはまだ幼いから彼女なんていなかったよ」

そう笑い飛ばす良夫さん、高校時代の思い出が苦かったのか甘かったのか詳しくは教えてくれなかった。

かつて、袖浜海岸も志津川町民に親しまれていた海水浴ができる砂浜だった。その海岸の東端、明神崎という岬の一角に、当時の志津川町が遊歩道と東屋を作り、夏は海水浴客、シーズンオフはカップルや家族連れがやってくる憩いの場となっていた。やがて袖浜海岸は漁港として整備、荒島付近には人工海水浴場(サンオーレそではま)と芝生の公園が新設され、明神崎の憩いの場を訪れる方は激減、その存在すら忘れられてしまった。もちろん、良夫さんも町から離れたのでそんな経緯は知らない。

東日本大震災後、袖浜地区内の復興支援活動に汗を流していた良夫さんは、仲間との会話の中で明神崎も一緒に復興させてはどうかと提案した。賛同した公園地所有者の佐々木昌則さん(袖浜・民宿経営)も意を決して動き出す。しかし、廃れた公園は竹や雑草がうっそうと茂る誰も近寄らない場所で、自分たちのグループだけで整備するのは難しいと感じていた。

良夫さんたちは、単なるミニ公園の復活ではなく地元の若い世代を中心とした癒しの場所に作り変えたいと『明神崎岬復興志縁道プロジェクト』を立ち上げた。その前年にスタートさせた『南三陸牡蠣倶楽部』の牡蠣小屋から岬へ通じる散策路整備に、たくさんのボランティア(学生・企業のCSR活動)の協力を頂けたことが実にありがたかったと話してくれた。

復興の姿を誇れる町に

「雑木や竹の伐採から始まった活動は、延べ700人を超えるボランティアさんを受け入れて少しずつ進みました。入口の看板も大学生が書いてくれたし、散策路の階段や広場の花壇づくりにもアイディアや力を頂き感謝の気持ちでいっぱいです」と感慨深げに語る。

良夫さんは、この岬を「恋人たちの聖地」と名づけ、公園の整備とともに【幸せの鐘】の建立と【命名石碑】の設置にも取り組んだ。構想から約3年、平成30年7月27日(金)ついにオープニングセレモニーが開催された。

良夫さんは先日古希を迎えたが、鍛えた体は健康そのものだ。旭ヶ丘地区の行政区長として地域住民を引っ張りながら、持続可能な地域社会づくりにも貢献している。未来の南三陸町について想いを伺うと、「間違いなく人口減少は続く。それでも、十分自然と共生できる環境にあるし、ボランティアや応援してくれる全世界の方々とともに復興の姿を誇れる町にしたいと思う。微力ながらお手伝いしていきたい」と話す。

航空自衛隊員の経歴やリーダー的な人柄から、親しみを込めて【隊長】と呼ばれる良夫さん。もう飛行機を操縦することはできないが、愛車を駆使して毎日精力的に飛び回っている。

2019年2月28日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

写真をクリックまたはタップすると大きくなります

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

パノラマ

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

パノラマ

パノラマ

パノラマ

パノラマ

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

パノラマ

他の定点観測を見る

かつて志津川にあった映画館が「新志津川みなと座」として一日限りの復活

かつて志津川の町中にあった映画館「みなと座」。構想3年、企画3か月。新しい高台の造成地にて一日限りの「新みなと座」として復活しました。昭和を懐かしむ多くの住民で賑わいをみせていました。

新しい暮らしの中で

平成30年4月、高台に新たに造成された志津川東地区内に「みんなの居場所・ささえあいの拠点」が完成、「結の里」と名付けられました。役場や病院が徒歩圏内にあり、復興住宅の戸数が町内で最も多いこのエリアでは、高齢者の数も多くなっています。新たな環境で知り合いを増やしながら生活していくための相互協力や課題解決が必要になります。

「結の里」は、志津川地区デイサービスが併設されていますが、町民の誰もが安心して暮らせるよう、福祉・生活支援サービスを提供するとともに、子どもから高齢者まで気軽に集まって交流したり、お互いに支え合うことのできる地域づくりを目指す拠点として、社会福祉法人南三陸町社会福祉協議会(以下「社協」という)の職員が常駐、管理運営しています。

この施設が完成する前の平成29年8月、「(仮称)地域ささえあいモール」をどのように活用すべきかをテーマに住民会議が開催され、ワイワイガヤガヤ新たな暮らしを楽しく過ごせるような期待感溢れるアイディアがたくさん出されました。この話し合いが、後々の住民交流活動の基礎になります。

施設内にある『えんがわカフェ』には住民の手作り作品の展示販売コーナーもあり、利用者や来訪者が気軽に利用できる癒しの空間になっています。

実行委員会イベント部会が映画会を企画

「走らないミニ運動会」を実施したイベント部会のメンバーは、「ミニ食堂」や「ほっとカフェ」などの分科会メンバーと共に施設オープンの際も準備に携わってオープニングセレモニーを盛り上げました。

結の里イベント実行委員会と名称を変えたチームは、時には町外の支援団体とタイアップしたり、社協やLSAの方々のお手伝いをしながら継続的にイベントを開催してきました。えんがわカフェからリアスふれあい広場(デッキ)、さらに東復興住宅第二集会所や芝生広場まで有効に使用できるようになったので、多くの住民を巻き込むことが可能となりました。

2回目の「走らないミニ運動会」を成功させたイベントチームは、さらに次の企画を練っていました。2か月限定の実証実験・めぐるステーション終了後の冬期間は、えんがわカフェにさえも来られない住民が多いだろうと考え、屋内で楽しめるプランとして映画会を企画提案しました。

「仮設暮らしの頃から、震災前の、いや昭和の志津川が懐かしいという声があり、その話題が出ればみんな笑顔になった。特に盛り上がったのが、かつて志津川にあった映画館『みなと座』が賑わっていた頃の街」の話。

そんなバックボーンもあり、その映画会を「みなと座復活!」としましたが、実行委員の方々が賛同してくれたものの、どれだけの方が来て下さるのかは予想がつかず、不安もいっぱいありました。

「どんな映画を流す?」「いつやる?」「どこでやる?」から「こんな風にやれないか?!」まで、延々。

そこで決まったのが公営住宅の集会所を会場にして「平成最後のお正月に平成最初に上映された寅さんを観よう!」でした。

実行委員は午前中から舞台づくりをこなします

新みなと座 準備完了

立て看板「新春ロードショー」に誘われて集会所の玄関を開けると、そこは古き良き昭和の雰囲気。当時街中に貼られていたポスターに懐かしさが倍増!入り口には「もぎり=入場券販売窓口」もある。「今回は著作権の関係で無料上映会とさせて頂きましたが、当時の映画館らしく入場券交換所の窓口を設置しました」

「あら~懐かしいこと~」

「んだよね~!みなと座ってこんな感じでしたか?」

「忘れだっちゃわ~、でも窓口はあったよね」

そんな会話が飛び交っています。

裏方が表舞台に立ってご挨拶

上映間近の短い時間に「はい、舞台挨拶してきて!」と促される。でも、まんざらでもない裏方さんたちは、寅さん以上に笑いを取っていました。

当初の不安をよそに、並べた椅子(40脚)では足りないほどの住民が集まってくれた初の映画会に、化粧を施した実行委員の皆さんも安堵の表情。さらに「こういうの、私たちの得意分野だから!」と開催を苦労と思わない社協職員も感無量といった様子でした。

気を良くした実行委員会では、「次はどんな面白い事仕掛けようかな?!」と既に何かを企み始めているようです。

南三陸町での地域実習を終えた学生にインタビュー!

2018年9月19日から10月30日までの間、大正大学地域創生学部の1,3年生28名が、南三陸町で地域実習を行ないました。長期にわたる実習を終えた学生たちに、今回の実習についてのお話を伺いました。

28人が42日間を南三陸町で過ごす

大正大学地域創生学部の必修授業として行われている地域実習では、1年生と3年生が日本全国のさまざまな地域に分かれて学習します。南三陸班は、1年生18名、3年生10名でスタートしました。

同じ期間を過ごしますが、学ぶ分野はさまざま。1年生は、福祉・移住・水産・観光の4班に分かれて活動しました。3年生は1人1人が自らプロジェクトを考えて実践し、反省を踏まえて改善、再度実践していくというプログラムでした。

実習を終えた、佐々木新菜さん、大池久美子さん、堀遼平さんの3名の学生に地域実習について振り返ってもらいました。

地域実習開始前、これから長期間会うことができなくなる友人に会ったり、震災の本を読んだり、それぞれが心の準備を整えていました。「自分がやりたいと思っていることが、南三陸町で本当にできるのかな」という不安を抱える人もいたようです。

事前学習の様子:地域の課題、住みやすいまちなどについて考えました。

初めて訪れる地域、初めて行なう長期実習、初めての長期間共同生活。楽しみな反面、不安も多い地域実習がスタートしました。

地域実習が始まってからの時間の経過はあっという間だったようです。

堀さん「かなり長い間南三陸にいたね(笑)」

佐々木さん「後半は報告会とかイベントの企画とかあって、時間が足りなくて焦ってたくらい…」

大池さん「4週目くらいから、どうしようもう半分終わっちゃった、間に合わない早くしなきゃっていう気持ちがすごかったです。時間との戦いだった(笑)」

実際に訪れたからこそ分かること

「南三陸町=震災があった町、被災地、震災で有名になった町」

南三陸町を訪れるまで、町に対するイメージはマイナスのものでした。しかし、足を運んでみると、町に対するイメージが変化したといいます。

南三陸町の方々の多くが前を向き、明るく、震災をプラスに捉え、「本当に震災があったの?」と学生が疑問を持ってしまうほどでした。

町の方々が自ら震災についてお話をしてくださったことに驚いたお茶っこ

「他の地域から訪れる人は拒まれるのではないだろうか」という不安も払拭されるほど、温かく迎え入れてもらい、町の方々の優しさを日々感じていました。

印象に残っていることは?

3名の学生に42日間の実習でとくに印象に残っていることを聞きました。

佐々木さん「福祉=ふだんの、くらしを、しあわせに。」

福祉班として活動していた佐々木さん。福祉はお年寄りというイメージを持っていました。しかし、この言葉によって考えが変わり、佐々木さんに大きな影響を与えたといいます。この言葉に出会ったことで、地域実習中の経験や知識の幅が広くなりました。

大池さん「40日間という短い期間しかいないのに、顔を覚えてくれている、声かけてもらえる。」

大池さんが一番印象的だったことは、南三陸町の「人」だといいます。道を歩いているとき、町内のお祭りに参加したとき、ボランティア活動をしたとき。一度しか会ったことがなくても、顔を覚えてくれていることに驚きました。

堀さん「町内どこに行っても、食べ物がおいしい。」

堀さんは、何を食べてもおいしい、タコがとくにおいしかった、と笑顔で話してくれました。また、南三陸町観光協会が行っている“みなチャリ”に参加した際、たまたまいただいた“バナナ焼き”も印象に残っているといいます。「町の人の優しさとか、距離の近さにびっくりしたし、嬉しかったです。」

さまざまな“成長”

何かができるようになった、課題を見つけた…地域実習を通して得た成長について聞いてみました。

佐々木さん「人前に出て話すこと、思いを泣かずに伝えること」

人前に出ることが苦手だった佐々木さんは、実習中、何度も自ら手を挙げて人前に出ました。その結果、大事な場面で、班員を代表して思いを伝えることができたといいます。

「熱意を伝えて!って言われたとき、堂々と言うことができて、自分で自分を褒めました!(笑)」

大池さん「仕切る立場の大変さ」

大池さんは、班を引っ張ろう、グループワークを進めようという焦りから、班員の意見をちゃんと聞くことができなかったことが心残りでした。ですが、“聞くことも大切、しかし、まとめる立場としては決断力も必要”ということに気づいたそうです。実習を通して、自分の弱点に気づくことができました。

堀さん「少し大人になれた」

「班を引っ張ろうという思いがひとりあるきしてしまった」と話す堀さん。自分が思っていることが全て正しいわけではない、と感じたといいます。観光班として学んだ内容だけでなく、グループワークの仕方など、実習中の全てが今後につながるものになったようです。

とにかく感謝を伝えたい

42日間の実習を終えた学生たちは、実習で関わったすべての人たちへ感謝の気持ちでいっぱいです。

「温かく迎え入れてくれて、受け入れてくれて、ずっと覚えていてくれて、すれ違うときに声をかけてくれて、ありがとうございました。」

子どもたちが見つけた「南三陸の宝」とは?KODOMOラムサールin南三陸町開催

ラムサール条約に登録された南三陸町で開かれていた「KODOMOラムサール」。北海道から熊本まで全国の子どもたちが集い、さまざまな体験を通じて「南三陸町の宝」を探し、町民に発表しました。

全国から子どもたちが南三陸町に集い、宝探し

平成30年10月に南三陸町志津川湾がラムサール条約湿地に登録されました。登録を記念して、平成31年2月9日から2月11日の3日間KODOMOラムサールが南三陸町で開催されました。

KODOMOラムサールとは、湿地と人とのかかわりについて調査研究、普及活動を行っているラムサールセンターが中心となり、平成18年から始まった子ども湿地交流イベント。ラムサール条約に登録された湿地を舞台に、全国の湿地で活動する子どもたちが開催地に集合し、開催地の湿地の魅力について学び、考え、行動していく環境教育プログラムです。

地元南三陸町の子どもたちを含む北海道から熊本まで9の湿地から小学4年生〜6年生32名の子どもたちが参加。豊かな海産物を育む海を漁船に乗って見学したり、その海を支える林業の現場を訪れたり、三陸地方に伝わる文化である「きりこ」の製作体験をするなど、南三陸町の豊かな自然を体感しました。

最終日の11日には、それらの体験をもとに子どもたちが「南三陸町の宝」を選出。試行錯誤して宝を選ぶ過程が一般公開されました。

意見を交換し、選ばれた6つの「宝」

それぞれが感じた南三陸町の宝をまとめあげていくにあたって子どもたちは白熱した議論を行なっていました。

「体験を通じて、漁師さんなどがいつもやさしくていねいに接してくれたので”人の優しさ”こそ“宝”だと感じた」

「ASCとFSCはそれぞれ一つ取っているだけでもすごいことなのに、南三陸町は二つもとっているのがすごいと思う。両方とも生き物のためにもなっているし、人のためにもなっている。だからこの二つは“宝”として欠かせない。ラムサール条約をとっている場所はたくさんあるけれども、これを取得しているところはほかにない」

「南三陸に伝わる”きりこ”はこれまでなんども津波が襲ってきたけど、そのたびに立ち上がってきた復興の証のような存在だと思うから“宝”だと思う」

「『世界が認める』という視点で見たら、ウタツギョリュウなどの化石なども“宝”なのでは?」

「何回も津波に襲われているのに、その度に立ち上がって立ち向かう、人の“強い心”こそが“宝”ではないか」

「分水嶺からはじまって、コクガンに至るまで、循環しているサイクルが貴重なので”命の循環”も“宝”だと思う」

「ASCやFSCがとれたのも、漁師さんや林業家など自然に携わる人々がいるからできることのなので、それも大事だと思う」

「復興を願う心とか、立ち向かう強い心とか、見えないことでも大きなものもこの町の大切なことなのではないか」

子どもたちのこうした議論を経て、選ばれた「宝」は下記の6つ。

「ASCとFSC」

「山と海の関係性」

「震災から復興する願いや強い心」

「人のやさしさ」

「コクガンなどの生き物」

「きりこ」

そしてこれらを表現するキャッチコピーとなるメッセージは下記に決定しました。

「人々の守ってきた宝、世界にとどけ!いつまで藻」

豊かな藻場が形成されラムサール条約に登録されたことで集った子どもたち。「藻」がきっかけとなって、見つけた南三陸町の人々が守り育んできたたくさんの宝。それらが「世界に届け!」との想いが込められ、一枚のポスターにまとめられました。

宝をさらに磨き上げるための第一歩

「子どもたちから南三陸に対して大きなエールを頂いた。町民がみんなで志津川湾を守って、使って、交流して一生懸命志津川湾を大切にしていきたいと思います。これからもラムサールの一員としてがんばっていきたい」と最知副町長は決意を述べました。

「初めて宮城県に来たけれど、海や森に行って、たくさんの体験をさせてもらって、地元の人の優しさにも触れて、改めてラムサール条約に登録された意味があったんじゃないかなと思いました」

「たくさんの生き物が見れて、すごい楽しかった。今回たくさんの友達ができたり、発見があったので、地元に帰って友達に話したりしたい」

「ここにしかない自然の形が見れたり、ほかの登録地の子どもたちがどんな活動をしているのかを知れたので、これからの活動に活かしたい」

と3日間を振り返る子どもたち。緊張でいっぱいだった初日から、南三陸町の宝探しを通じて、学びを得ただけではなく、大きな絆が生まれているようでした。

全国でKODOMOラムサールが開催されて以降、開催された地を中心に子どもグループが誕生しているそうです。このKODOMOラムサール開催をきっかけに、南三陸でも子どもたちが町の自然を守り、伝えるための活動が展開されるかもしれません。

今回見つけた南三陸の「宝」。それをさらに磨き上げ、輝かせ続けるために、子どもたちとともに、町民一丸となった活動の第一歩が踏み出されました。

KODOMOラムサールに参加した南三陸町在住の子どもたち