隊長と呼ばれる地域のリーダー

3700

シリーズ「きらめき人」。元航空自衛隊隊員。退官後の平成14年、故郷南三陸に戻り地域に溶け込もうと積極的に動いた。その有言実行する力は、現役時代の厳しい鍛錬と持ち前の社会性にありそうだ。

部活帰りにかけられた声

南三陸町チリ地震津波災害30周年記念誌(平成2年発行) から引用

志津川町荒砥地区で生まれ育った佐藤良夫さんは、地元荒砥小学校を卒業した後、志津川中学校に進学した。部活として野球部を選んだので、毎日の自転車通学はそれだけでも鍛錬になっていたのかもしれない。が、成長期の少年にとっては、疲れと空腹感でヘトヘトの帰り途だったろう。

昭和35年5月24日早朝に襲来した「チリ地震津波」により、三陸沿岸の町や村は壊滅的被害を被ってしまった。中学校に入学したばかりの良夫さんは、当時のことは忘れられない日々だと語る。

部活が終わりいつものように自転車をこぐ帰宅途中の平磯あたりで、自衛隊員から声をかけられた。

「兄ちゃん、腹減ってないか?俺たちのカレー食って行けよ!」

津波の後、自衛隊や警察官たちが残骸だらけの街に入り復旧活動や捜索をされていたのは知っていたが、中学生から見たら怖い風貌の大人から声をかけられる。友人と顔を見合わせながら少しビビっていた。

「いえ、大丈夫です」

何と言って断ったかは覚えていないけど、学校や親から寄り道しないで帰るようにとも言われていたせいもあり、その場をすぐ去りたかった。

「そんなこと言わないで、食って行けよ。美味いぞ!!俺たちが作ったんだから」

何度も勧められるものだから、意を決してごちそうになることにした。

「うめ~、これ、うまい!!」

確かに空腹だったからかもしれないが、本当に美味しかったと振り返る。

南三陸町チリ地震津波災害30周年記念誌(平成2年発行) から引用

一見屈強で怖い存在の自衛隊員がすごく格好良く感じた時間で、カレーをほおばりながら尊敬の念も芽生えた出来事だった。

オレもこんな大人になりたい!

憧れを強く感じた良夫さんが自衛隊員になることは自然の流れだった。

航空自衛隊に入隊してからは、厳しい訓練に明け暮れた。松島基地や熊谷市など各地の基地に配属、主に空中輸送機に搭乗したそうだが、特に硫黄島での訓練は筆舌に尽くしがたいと教えてくれた。

激しい異臭(硫黄)が漂う小さな火山島には、湧水がなく雨水を溜めたり泥を含む貯水池をろ過するなどの作業を課せられた。食料も不足するなか、今でいうサバイバル生活は本当にきつかったと語る。

そんな経験を経てやがて若い隊員を指導する立場になった良夫さんは、任務中は鬼のように厳しく振る舞う上官になっていた。現在の温厚さからは想像できないと言うと「訓練は有事を想定しており、ちょっとしたミスが命を左右する。真剣に向かわないと死ぬこともあるからね」鋭い眼光で答えてくれた。

ところが、仕事が終わると優しい面倒見の良い「兄貴」に一変するらしい。そのことは、退官後現在も全国にいる部下や後輩から慕われているという話からも実感できる。

「やってみて、言って聞かせてやらせてみせて、褒めてやらねば人は動かず!」

佐藤良夫人生訓=座右の銘だと胸を張る。続けて「リーダーとは、責任と決断と信頼を持ち合わせなければならない。そんなことを言い聞かせながら部下を育てた」

災害派遣で気づいたこと

自衛隊員は、災害派遣されることが往々にしてあるのだが、とある被災地で活動しているとき、地元の住民からとても感謝されたと語る。

東日本大震災の時は、とっくに退官して南三陸町で隠居?生活していたのだが、当時の気持ちが蘇り、復旧活動に汗を流す後輩の自衛隊員たちに対し、出来る限り協力したいと申し出た。

「自分が被災者になって解った。受けた恩があったから、今みなさんにお返ししている」

そう語るときの良夫さんの目は、とても穏やかだ。

震災直後、誰とも連絡が取れない時期があったが、安否が無事確認されると多くの友人知人が支援に来てくれるようになった。

「ありがたいね。昔からつながりがあったからだな」

「良夫さんって、本当に皆さんから慕われているのですね」と言うと「そうかな~」と照れながら小さく笑った。

町を訪れる方々に東日本大震災の様子や現状を紹介する震災語り部活動も行っており、その時知り合った人との交流も続いているという。わざわざ良夫さんを指名してくれる方もいるそうで、語り口調はもちろんだが、本人のお人柄に惹かれるのだろう。

岬の公園を復活させよう!

良夫さんが毎日通学していた袖浜地域には、海にせり出した岬に小さな公園があった。

「その頃は…アベックがよく来ていたんだよ!アベックって知ってる?今でいうカップルだな」

志津川湾が一望できる岬の公園は、ちょっぴり薄暗くて雰囲気が抜群だったという。

「良夫さんも彼女と来たことがあるんですか?」

「だ~れ~、オレはまだ幼いから彼女なんていなかったよ」

そう笑い飛ばす良夫さん、高校時代の思い出が苦かったのか甘かったのか詳しくは教えてくれなかった。

かつて、袖浜海岸も志津川町民に親しまれていた海水浴ができる砂浜だった。その海岸の東端、明神崎という岬の一角に、当時の志津川町が遊歩道と東屋を作り、夏は海水浴客、シーズンオフはカップルや家族連れがやってくる憩いの場となっていた。やがて袖浜海岸は漁港として整備、荒島付近には人工海水浴場(サンオーレそではま)と芝生の公園が新設され、明神崎の憩いの場を訪れる方は激減、その存在すら忘れられてしまった。もちろん、良夫さんも町から離れたのでそんな経緯は知らない。

東日本大震災後、袖浜地区内の復興支援活動に汗を流していた良夫さんは、仲間との会話の中で明神崎も一緒に復興させてはどうかと提案した。賛同した公園地所有者の佐々木昌則さん(袖浜・民宿経営)も意を決して動き出す。しかし、廃れた公園は竹や雑草がうっそうと茂る誰も近寄らない場所で、自分たちのグループだけで整備するのは難しいと感じていた。

良夫さんたちは、単なるミニ公園の復活ではなく地元の若い世代を中心とした癒しの場所に作り変えたいと『明神崎岬復興志縁道プロジェクト』を立ち上げた。その前年にスタートさせた『南三陸牡蠣倶楽部』の牡蠣小屋から岬へ通じる散策路整備に、たくさんのボランティア(学生・企業のCSR活動)の協力を頂けたことが実にありがたかったと話してくれた。

復興の姿を誇れる町に

「雑木や竹の伐採から始まった活動は、延べ700人を超えるボランティアさんを受け入れて少しずつ進みました。入口の看板も大学生が書いてくれたし、散策路の階段や広場の花壇づくりにもアイディアや力を頂き感謝の気持ちでいっぱいです」と感慨深げに語る。

良夫さんは、この岬を「恋人たちの聖地」と名づけ、公園の整備とともに【幸せの鐘】の建立と【命名石碑】の設置にも取り組んだ。構想から約3年、平成30年7月27日(金)ついにオープニングセレモニーが開催された。

良夫さんは先日古希を迎えたが、鍛えた体は健康そのものだ。旭ヶ丘地区の行政区長として地域住民を引っ張りながら、持続可能な地域社会づくりにも貢献している。未来の南三陸町について想いを伺うと、「間違いなく人口減少は続く。それでも、十分自然と共生できる環境にあるし、ボランティアや応援してくれる全世界の方々とともに復興の姿を誇れる町にしたいと思う。微力ながらお手伝いしていきたい」と話す。

航空自衛隊員の経歴やリーダー的な人柄から、親しみを込めて【隊長】と呼ばれる良夫さん。もう飛行機を操縦することはできないが、愛車を駆使して毎日精力的に飛び回っている。

いいね!して
南三陸を応援

フォローする