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    南三陸に戻って農を志す。新成人の挑戦/大沼ほのか

    南三陸に生きる人を巡り、一巡りしていく連載企画「南三陸ひとめぐり」。第27弾は、この春新成人となる大沼ほのかさん。小学校6年生の時に被災。激動のなか成長した彼女はこの4月に古里にUターンし農業を志すという。その想いに迫りました。

    この春、Uターンし就農

    この春、南三陸では153人が新成人となる。1998年4月2日から1999年4月1日に生まれた人が対象となる今年の成人式。この町にとっても、新成人となった彼女ら彼らにとっても、大きな出来事となった東日本大震災が、古里を襲ったのは小学校6年生のとき。卒業式を目前に控え、これから歩む中学高校という最も楽しい時期を心待ちにしていたことだろう。

    町に残った者、離れざるを得なかった者、町に戻ってきた者。さまざまな想いを抱え、ときには自分の意志の及ばぬ決断をせざるを得ないこともあったかもしれない。そんな文字通り、激動の時代を歩んできた若者たちが、晴れて新たな門出となる成人式を迎える。

    この春から、南三陸町で新たなチャレンジをする新成人がいる。大沼ほのかさんだ。

    南三陸町歌津地区出身の大沼さん。現在は名取市にある宮城県農業大学校で農業を学んでいる。園芸学部に所属し、専攻は果樹栽培。

    「学校ではりんご、ぶどう、柿、ゆず、いちじく、梅などたくさんの果樹の栽培を行ったり、実際に収穫して販売をするところまで学んでいます」と実践的な授業の中で農業のスキルを磨いている。「なかでも私が専門にしているのは栗です。卒業論文も栗について研究をしていました」と笑顔で話すほのかさん。2年間で卒業となる農業大学校は、この春卒業を迎える。

    「卒業後は南三陸に戻って栗の栽培をします。就農ですね」と生まれ育った町へのUターンを決意する。わずか20歳ながら迷いなき決断をする背景にはほのかさんの両親の影響があった。

    夢を実現する両親の背中に憧れて

    ほのかさんが小学校に入学するころ、母が始めたクレープの移動販売が町内、そして近隣の町でも大人気となった。

    「お祭りのときなどに、お客さんの呼び込みや店番のお手伝いをするうちに、自然と将来はカフェを開きたいという夢をもつようになりました」と話す。しかし、ほのかさんが小学校6年生のとき、東日本大震災が町を襲い、自宅兼加工場を流出した。

    その後、一家は北海道で避難生活を送ることになった。震災前までサラリーマンをやっていた父が北海道で養鶏に出会い、それを学んでいった。震災から2年が経過するころ、一家は古里・歌津地区に戻り、父は養鶏を、母はクレープを再び焼き始めた。

    父親が歌津で始めた平飼いの養鶏

    「正直、私自身は南三陸に戻ってくるのがそのときは気が進まなかったというか。姉妹3人で帰ってきたけれど、もともと家があったところを見に行くことすら渋っていました。きっと震災があってどんどん変わっていく現実を見たくなかったんだと思います」

    それでも両親は南三陸でやることにこだわっていた。

    「『根を張っていきたいと思えるところが南三陸だった。この町を発展させたい』って言っていたのを覚えています」

    田束山の麓に、平飼いの鶏の鶏舎も自ら建て、仮設だったさんさん商店街の空き店舗を借りて「田束山麓 自然卵農園直営店 自然卵のクレープ モアイ店」をオープン。

    再び南三陸の名物を生み出していく両親の背中を見ていたほのかさんは「観光果樹園とカフェをやりたい」という思いを強くしていった。

    この町で農業をすることに、意味がある

    そんな思いをもって進学した農業大学校では、「クレープはもちろん、さまざまな加工品にできる栗は魅力がたくさん」と栗の可能性を見出し、研究を行い、栗と向き合い検証を繰り返す日々を過ごしていた。そんなほのかさんの研究をまとめた卒業論文が「宮城県農業大学校 2018年度プロジェクト発表会」において最優秀賞を受賞。成果を携え、南三陸に戻って、本格的に栗栽培に取り組む準備を進めている。

    農業大学校で管理していた栗の木
    見事に大きな栗が実った

    しかし、そこで直面したのが土地という大きな課題だった。中山間地でまとまった土地が確保しにくい南三陸町。そして栗に適した土地は容易には見つからなかった。

    「一時は隣町の登米市など、南三陸以外で探さざるを得ないかなと考えたこともあった」というほのかさん。しかし、彼女は「南三陸町でやることに意味がある」と町のなかで探し続けることにした。そこには、地元に戻り再生を決意した両親の姿。そして、この町で頑張っている農業者の姿があった。「それで自分がほかの町に行って農業をやっていたら負けのような気がして…」

    担い手不足、耕作放棄地の増加など農業の抱えている課題は大きい。それは南三陸でも例外ではない。しかし、「農業は楽しくて仕方ない。最先端の技術を取り入れたり、新しいチャレンジにも積極的に取り組みたい」と意気込む新成人の姿に、これからの南三陸の農業に、大きな希望を感じずにはいられない。

    イヌワシと共生する林業へ向けた挑戦スタート

    絶滅の危機に瀕するイヌワシの姿を再び取り戻すために、林業の現場から新しいチャレンジが始まろうとしています。2018年12月8日に開催された「イヌワシと共に暮らせる林業を目指して」と第したシンポジウムの様子をレポートします。

    生物多様性の象徴でもあるイヌワシを再び!

    南三陸のシンボルバードは何か知っていますか?

    国の天然記念物にも指定されているイヌワシです。現在、日本におけるイヌワシの推定生息数は150~200ペア、単独個体を含めても500羽ほど(日本イヌワシ研究会)と少なく、繁殖成功率の低下とあいまって絶滅の危機に追い詰められています。

    「気仙沼から牡鹿半島までの南三陸エリアでも、もともと4ペアのイヌワシが確認されていました。しかし、ここ10年ほどで急激に減少。後は1ペアしか確認できず、そのペアも最近ではオスしか見られず、ペアを維持できていないのでは、という現状です」と話すのは、南三陸ネイチャーセンター友の会の鈴木卓也さん。翼を広げると端から端まで2mほどの大きさとなるイヌワシ。「餌となるウサギなどを採るためには草地や伐採地が適していますが、管理がされていない混み合った森が多くなってしまいイヌワシが住みにくい環境になってしまっている」と続けます。

    南三陸ネイチャーセンター友の会の鈴木卓也さん

    南三陸ネイチャーセンター友の会としても「南三陸町のシンボルバードを戻そう!」と活動を開始。山火事の延焼防止のために尾根沿いの木々を刈り払う「火防線トレイルプロジェクト」を開始しました。火防線は山火事の延焼防止の機能はもちろん、イヌワシが狩りをしやすいような環境になることも期待しています。

    「イヌワシが住み続けることのできる森を維持していくことは、生物多様性の象徴でもある」と鈴木さんは話します。

    整備した火防線をトレイルで楽しむ(写真提供:南三陸ネイチャーセンター友の会)

    全国初となる官民連携の取り組み

    こうした状況にある南三陸町において、イヌワシの森を再び取り戻すために、全国初となる連携が生まれました。南三陸町で林業を営む株式会社佐久と東北森林管理局、さらには地元南三陸町がイヌワシの生息環境の再生を目指して連携することを発表。全国初の「官民連携」の取り組みとして、イヌワシの森の復活を目指します。

    「これまではイヌワシの保護と林業は対立することが多かった。しかし持続可能な林業のあり方と生物多様性は重なり合うことも多い。イヌワシと林業は両立するとの立場に立った今回の取り組みは画期的。この取り組みが近隣市町村あるいは全国にも広がっていくことを期待している」と日本自然保護協会の出島誠一さんは話します。

    対象地域となるのは、日本で三番目にイヌワシの繁殖が確認された南三陸町戸倉地区にある翁倉山(おきなぐらやま)一帯。伐採と再植林を計画的に実施することによってイヌワシの狩り場となる山の開けた環境を維持するとともに、民有林と国有林が隣り合うエリアでは作業道や木材置き場などを共同で利用し、木材出荷に取り組みます。

    シンポジウムには町内外から多くの人が集まり、注目度の高さがうかがえる

    イヌワシを守る森として木材のストーリーをプラス

    「イヌワシ配慮型の森林計画を立てました」と話すのは、株式会社佐久の佐藤太一さんです。予定では翁倉山域の林地を5年間で5haほど皆伐を行うといいます。「皆伐をして、再植林をする。植林したての山は、10年間ほどはイヌワシにとっても餌場となるような場所になると考えられます。そして時期をずらして5haほど皆伐していくことで、イヌワシが常に狩りをできるような環境を作っていきたい」と意気込みを話します。専門家のモニタリングを通じて、餌となる小動物や植物の変化などの情報収集を行い、意見交換しながら計画に反映をさせていくと話す佐藤さん。

    さらに、そうして生み出される木材は「イヌワシを育む森」というストーリーも付加価値になることが期待されています。既に株式会社ラッシュジャパンが展開する店舗では、イヌワシを守る南三陸の木材として、イヌワシのロゴマークが刻印され店内の什器として活用されているなど、注目を集めています。

    「木材そのものの質はもちろんだが、国際認証とあわせて、どういうポリシーで山を育てているのか、というストーリを伝えていきたい」(佐藤さん)

    南三陸町のシンボルバード復活に向けて、官民連携して大きな一歩を踏み出しました。復興の象徴として、この南三陸の空を再びイヌワシのペアが羽ばたく日を楽しみに、これからの展開を注目していきたいと思います。

    2018年12月31日/定点観測

    南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

    写真をクリックまたはタップすると大きくなります

    戸倉地区

    撮影場所 [38.642969, 141.442686

    パノラマ

    志津川地区

    撮影場所 [38.675820, 141.448933

    パノラマ

    パノラマ

    パノラマ

    パノラマ

    歌津地区

    撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

    パノラマ

    他の定点観測を見る

    第4話 出産前後に夫にしてもらった4つのこと【前編】

    移住者夫婦である筆者が、南三陸町で妊娠、出産を経験し、子育てに奮闘する中で「え、これって〇〇だったの?!」と感じたことを綴っていく連載企画。今回のテーマは、いよいよ「出産」です!

    出産前後の夫がやるべきこととは・・・?

    さて、いよいよ今回のテーマは出産です。これに関しては書きたいことがありすぎて、何を書いていいのやら・・・というかんじなのですが、陣痛の痛いや何やや生まれて感動!みたいな体験談は巷にあふれているので、今回は出産前後における夫のサポートに的を絞って書いていきたいと思います。

    まず、私の夫について。32歳(当時)。自営業。性格は優しい、人当たり良し、掃除好き。

    特別子ども好きというわけではないものの、私の妊娠がわかるや否やひよこくらぶを買って帰るくらい、第一子の誕生は心待ちにしてくれていました。

    立ち会い出産は迷う余地なく断念

    さて、出産前後における夫の役割というと、まず立会い出産が思い浮かぶと思います。これに関しては、私が出産した石巻赤十字病院では、立会い出産は試験導入として月に数組だけと決まっており、私が受診した時にはもうその枠は埋まってしまっていたので、考える余地もなく立会い出産ではありませんでした。

    (ちなみに、現在は希望すれば立会い出産ができるようになったそうです。また、登米市にあった立ち会い出産OKの産院は今年度で分娩をやめてしまうそうです。選択肢が減るのは残念・・・。)

    しかし立会いといえば陣痛に耐えるのに必死の妻が夫に当たる、キレる、喧嘩になる…といった話もよく聞いていたので、最初からダメと決まってくれてかえってよかったなと思っていました。

    いよいよ出産!試される夫力

    夫の目線で出産前後にやることをあげると、次の4つになると思います。(ここでの「出産前後」とは、出産予定日が近づいてきたあたりから、出産して母子が退院してくるまでとします)

    1、陣痛に備えて、いつでも車を出せる準備をしておく

    2、いつ生まれてもいいようにあらかじめ仕事の調整をしておく

    3、逐一、親族等へ連絡をする

    4、とにかく、妻の側にいる

    改めて考えてみると、出産に関してはこれといって「サポート」というほどのかっこいい役割ってないんですよね。だって病院に着いてしまえば万全の態勢が整ってるし、産んでしまえばそのまま入院だし。ただ、側にいる、これに尽きると思います。その理由については後ほど。

    1、陣痛に備えて、いつでも車を出せる準備をしておく

    私が出産した石巻赤十字病院は、自宅から車で50分ほどかかるところでした。そういうと、「え、そんなにかかるの?心配じゃない?」と思われるかもしれませんが、初産の場合は早くても4時間はかかると聞いていたので、間に合わないということはないだろうと思っていました。しかも、ほとんど三陸自動車道に乗っていれば着くので、渋滞も道路凍結も気にしなくて良いという点ではむしろ安心です。

    ちなみに、入院中、病院から5分のところに住んでるのにもかかわらず、急にお産が進んでしまって自宅で産んで母子ともに救急車で搬送されて来ちゃったよあはは。という人に出会いこっちが肝を冷やす思いをしたので、油断は禁物ですが・・・。

    前置きが長くなりましたが、夫としての第1のミッションは、陣痛が始まった妻を無事に病院まで送り届けることです。

    よく育児雑誌には、臨月近くなったら運転は控えて、と書いてあったりしますが、私の場合は体調も良かったので普段通り運転していました。妊娠中は車移動が本当に楽です。妊娠8ヶ月の時に東京出張に行ったことがあり、ドキドキしながらマタニティマークをつけて電車に乗ったら見事に立ちっぱなしで、東京の妊婦さんは大変だなあと心底思いました。

    しかし、いくら健康な妊婦でも、さすがに「陣痛来たかも…」となったら自力で運転はできません。(病院でも、必ず誰かに乗せてきてもらうように言われました)いざその時に「あ、ごめん俺お酒飲んじゃったわ」だと話にならないので、予定日間近になったらお酒や飲み会のお誘いは控えてもらいます。というか、車社会なので車はいつでも出せるので、お酒を飲まない、ただこれだけですね、はい。

    私の場合は明け方4時半頃、お腹が痛くて目が覚めて、痛さの波の時間を測ってみたら4分間隔。いきなりこんなに間隔短いものだろうかと思いながら、夫を起こして病院に連れていってもらいました。まだこの時は余裕があったので、道中YouTubeで陣痛の時の呼吸法、とか産む直前のいきみ方、とか見てイメトレしてましたね。

    2、いつ産まれてもいいように、仕事の調整をしておく

    夫は自営業で映像制作やデザインの仕事をしているのですが、予定日近くに入るアポイントに関しては「もし出産と重なったら調整させてください」という旨は相手方に伝えてくれていたそうです。

    夫としては、出産の当日さえ調整できればいいだろうという心づもりだったのですが、実はそうもいかないことが判明します。この地域では、海関係、山関係の仕事をしているところでは、子どもが生まれた人間はしばらくは現場に足を踏み入れちゃいけない、という慣習があるのです。

    海関係と山関係っていうと、この町ではかなりの現場が当てはまってしまいます。ちょうど、予定していた水産加工、林業、造船等の現場の撮影は全て延期に。夫は日程を再調整するのが大変だったそうですが、おかげで毎日病院に顔を出せるようになったので、私としては嬉しい想定外でした。

    出産をけがれとみなす文化は古来からあるのでしょうが、それが未だに慣習として残っていることに驚きました。ある会社の専務さん曰く「いやぁ、ぶっちゃけ俺はどうでもいいと思ってるんだけど、やっぱ現場の職人さんは気にするんだよね」とのこと。もしかすると、けがれとか縁起が悪いとかいうのを口実にして、子どもが生まれた直後くらい仕事せずに奥さんの側にいてやんな、という昔の人の優しさなのかなとも思ったりしました。つまり今で言うところの産休?

    男性に強制的に産休をとらせるなんて、昔の人のほうがよっぽどワークライフバランスができてますね。

    ※この慣習の理由に関しては諸説あり、上記は筆者の憶測も含みます。

    というところで、今回はここまで!

    あとの2つは次回をお楽しみに!

    がんばる人に、そっと寄り添う。/大森丈広さん

    南三陸に生きる⼈を巡り、⼀巡りしていく連載企画「南三陸ひとめぐり」。第26弾は、南三陸の復興の象徴でもあるオクトパス君を手がける南三陸復興タコの会、新会長に就任した大森丈広さん。震災後にUターンした大森さんの想いを伺いました。

    大人気の合格祈願グッズ「オクトパス君」

    本格的な冬の寒さを感じる毎日となり、いよいよ本格的な受験シーズンに突入しようとしている。これまで努力を重ねてきた受験生にとって、プレッシャーや重圧を感じる季節。これまでの成果が発揮されるように、験担ぎや縁起物で気分を盛り上げていきたいもの。

    「オクトパス君」はそんな合格祈願グッズのひとつ。オクトパス君が誕生したのは、東日本大震災前の2009年。当時、産業振興課の職員として町の観光振興に携わっていた阿部忠義さんが、観光協会とともに志津川の名産であるタコをモチーフに、合格祈願グッズとして「置くと」「パス(合格)」する=「オクトパス君」の文鎮を考案した。

    震災で工房は流出し、一度は生産を諦めかけていたが、震災から2カ月後には文鎮の製作を再開。同年6月に「南三陸復興ダコの会」を設立、翌7月には被災した住民の雇用の場として「入谷YES工房」をオープン。主力商品としてオクトパス君グッズの企画・製作を展開した。震災後は合格祈願グッズにとどまらず、ゆるキャラとして南三陸の復興を牽引する存在となっていった。

    そんなオクトパス君を手がける「南三陸復興ダコの会」の新会長が2018年6月に誕生した。震災後に南三陸町にUターンし、YES工房でデザインの仕事を担っていた大森丈広さんだ。

    オクトパス君の未来に、自身の未来を重ねる

    南三陸町志津川の細浦地区出身の大森さん。「おじいちゃんに絵を描いてもらっていたことがきっかけで、小さいころから絵を描くことが好きだった」という。

    イラストやデザインの仕事をしたいと、町を離れ、東京でデザイン会社に勤務していた。アプリを手がけるなど、「好き」を仕事にできることに充実感を感じていた矢先、古里の南三陸を東日本大震災が襲った。

    「家族の近くで過ごしていたい」と南三陸町へ戻ることを決意。ほどなくして、自身のイラストやデザインのスキルを活かすことにできるYES工房に出会った。

    時間が止まったような味のある木造の建物の職場では、のんびりとしたゆっくりと時が流れる。

    「震災で職を失った地域住民の雇用と交流ということが目的で設立されたYES工房では、のんびりとゆっくりとした職場環境があります。都心でバリバリと仕事を働いていたときとはまた違った感覚ですが、働きながらリラックスできたり、訪れた人も気が休まる、こういう場所が南三陸町民にとっても大事なのではないかと思うようになっていきました」と話す。

    さらに、デザインだけではなく、オクトパス君というブランドや世界観を作っていくことのできるYES工房での仕事に非常にやりがいと充実感を感じていた。

    「自分が考えたものが商品化されていくのはとても面白くて。YES工房で活動していくことが自分自身のやりたいことになっていったんです」

    「会長就任は以前から声をかけていただいていましたが、正直悩むこともありました」と話すが、自身の描く未来と、南三陸復興ダコの会の描くビジョンが重なり合ったとき、新会長就任は自然な流れだった。

    Uターンで実感した、古里の魅力

    「一度、生まれ育った古里を離れ、Uターンしてきて気づかされたことがたくさんある」と話す大森さん。とくに感じていることが「自然環境の豊かさ」だという。

    小さいときから、海で釣りをしたり、化石を掘ったり、山でクワガタをとったり、自然のなかで遊ぶことが大好きだったという大森さん。

    古里に戻ってきてからというもの、震災後に調査で訪れたさまざまな学者との出会いや、国立公園への編入、ラムサール条約への登録など、「なんとなくよい」と思っていたことが次々に世界的に認められていった。そのことに大森さんは「より一層誇りをもつようになった」という。そして何よりも大森さんがうれしかったというのは、同じような想いをもつ人々と出会ったことだった。

    震災により被災してしまった自然環境活用センターの再興を目指すために有志で集まっていた「南三陸ネイチャーセンター友の会」の活動に参加。

    「初めて活動に参加したのは、Uターンしてから数年たってから、4年くらい前だったかと思います。地元の自然のよさを和気あいあいと話していたそのときの雰囲気がとても楽しかったのを覚えています」

    職場以外で地元のよさを語り合える場があり、仲間と出会えたこと。大森さんにとってそのことは南三陸での暮らしを豊かにする大きなきっかけとなった。現在でも仕事の傍ら、活動に参加し、広報活動などを行っている。「このすばらしい環境をどのように生かしていくことができるか、それがたいせつになってくると思う」

    頑張る人を、そっと見守る存在でありたい。

    震災後立ち上がったYES工房は、「なにごとにもYES!」と前向きにチャレンジしていく、ポジティブに進んでいく南三陸の人々の象徴のようなものかもしれない。

    情報が多く息苦しさを感じ、否定や批判も溢れている現代社会。そんな社会だからこそ、大森さんは「何事も否定せずに、肯定し、ポジティブなキャラとしてオクトパス君を大事にしていきたい」という。

    「既にたくさん頑張っている人に対して、『頑張れ!』とメッセージを送るのは、プレッシャーや重荷になってしまう。だからこそ、オクトパス君はゆるくシュールなキャラで、そっと見守るスタイルで応援していきたい」

    大森さんの柔和な笑顔と、そこから生み出されるゆるいキャラクター。プレッシャーをやわらげ、リラックスすることが必要なのは、受験生だけではない。息つくひまもない、せわしない社会で、多くの人の支えになることだろう。

    さんさんに響く歓声、奥入谷きらめき人達

    シリーズ「きらめき人」。今回は、スペシャルバージョン=きらめき人達を取り上げます。旧林際小学校の校庭にご近所のみなさんが集まってグラウンドゴルフを楽しんでいます。この小学校の卒業生を中心に、入谷8区・9区・10区で暮らす方々の歓声が「さんさん」に響く様子を紹介します。

    定例会は毎月15日

    取材日(10月15日)午前9時、旧林際小学校には続々と住民が集まってきました。

    「農作業や何やらで結構年寄りも忙しいんだ。月に一回しかやれないけど、楽しみにしてくれている」と、お世話役の一人阿部忠雄さんが教えてくれました。

    「あら~、久しぶり。元気だった~?」手を振りながら笑顔で女性がやってきました。

    毎月一回の定例会ですが、おのおのの事情で欠席したり悪天候で中止になったりする場合もあり、全員が必ず参加できるわけではないとのことです。

    「今回の参加者は・・・14人だね。三つの組に分かれてプレイしましょう。今日は、10区に引っ越してきた鈴木さんが初参加です」と、進行役の山内さんが開会の挨拶と筆者を紹介してくれました。

    「こんな山村にお出で頂いて、大歓迎です。ところで、あんだなんぼ(何歳)っしゃ?」

    グラウンドゴルフが楽しみでしょうがないというご婦人が笑顔で問いかけてきました。

    「あ、はい。62歳です。一昨年10区・押舘に移り住みました。よろしくお願いします」少し緊張気味に自己紹介をすると・・・

    「あ~~、あそこの方ね。知っているよ。まだ若いっちゃ、オレよりもとお(10歳)も下だ。いいな~」

    「あんだも10年前は、この人みでぐ(みたいに)若かったぞ」

    「ほだな、(そうだね)もっと先輩いるから、オレも負けていらんねっちゃね~」

    最高齢84歳の方に視線を向けながら朗らかに笑うと、開会式の雰囲気は一気に和みました。

    ナイスショット~!!のはずが…

    さんさん館の校庭には小粒の砕石がきれいに敷き詰められています。もともとは土のグラウンドだったので、雨が降るとすぐぬかるんで使えなくなります。町にお願いして整備して頂いていると伺いました。

    「良~し!、いいぞ。そのままイケー!!」

    いつもの感覚で、狙い通りに打ったティーショットなのでしょう。会心の一打はゴールに向かって・・・「え~、あら~どございぐんだべ~。アハハハ」

    何せ校庭の地盤が軟弱なもので、いくら砕石を敷き詰めても車が走れば轍(わだち)ができる。尖った砕石にボールがはじかれる。このコースは思いもよらないトラップ?(罠)も攻略しなければなりません。そんなハプニングまでも楽しむ皆さんの表情はとても明るく素敵です。

    八つのコースを一巡すると休憩になります。これがまた、入谷らしくてすばらしい。お互い健康状態や近況を語り合ったり、年末に向けての活動等を確認し合ったり。さらに、蒸かした芋やお菓子なども配られます。

    もう少し、やっぺっちゃ~。

    第2ラウンドになると、さすがにグラウンドコンディションが分かったのか、極端にコースを外れたりしないで順調に進む方が多くなりました。一回目よりはるかに速いプレイに満足したのか「え~、止めんのすか~?もう一回やりすぺ」という声も上がりましたが、「何事も八分目が一番良いんだから」とリーダーが笑いながら諭します。

    「週末には、戸倉で大会あるんだけど、出られる方はどれくらいいらっしゃいますか?」

    お世話役の山内さんが呼びかけます。入谷地域では稲刈りや脱穀もほぼ終わりですが、農家の仕事や土日の用事も重なり出場できない方が多いようですね。

    「大会に出るのが目的ではない。一か月に一回、こうやって集まって楽しむのが良いんだね」

    気軽にできるグラウンドゴルフは、地域の方々の交流や健康維持にもってこいのスポーツです。

    「また、来月会うべしね~、倒れねでごじゃせよ~」(病気にならず参加してね)最後まで笑顔の絶えない仲間たち。今月の定例会でも歓声が、秋深まりゆく・さんさん(三山)《惣内山、神行堂山、童子山》に響き渡りました。

    頼られて、慕われて半世紀、まちの床屋のおかあさん

    南三陸町で元気にたくましく生きる人たち「南三陸きらめき人」。旧志津川市街地に理容店を構えたのが1970年という事なので、間もなく50年=半世紀。地域の困りごとなどを気軽に相談できる「まちの床屋のお母さん」宮川弘子さんを紹介します。

    さんさん商店街で営業再開

    新しくなったさんさん商店街の一角に、おしゃれな理髪店があります。二男と一緒に営業を続けている「BarBerミヤカワ」店主宮川弘子さんに、「被災した住民が高台に住む事になりましたが、なぜさんさん商店街に出店したのですか?」と聞いてみました。

    「中央団地内に新しい店舗建てる事も考えたんだけど、時間がかかりそうだったからね」

    仮設のさんさん商店街(御前下)でも、なじみの方々が訪れてくれて有難かったし、本設の商店街でも同じように続けられると思っていたと答えてくれました。

    子どもたちのために…障がい者への関心を高める活動を実施

    弘子さんの夫は、クリーニング店を営んでおり、どちらの職業も地域の方々とのお付き合いが重要です。夫婦揃って明るく面倒見の良い性格なので、たくさんの方々とすぐ仲良くなっていました。知的障がいのある長男が中学に入るころ、町内の仲間とともに『ひなどりホーム』というグループを立ち上げ、これからの障がい者の暮らし方などについて考え始めました。

    当時は障がい者への関心は決して高くなく、宮川さんたちはその想いを何度も町に訴えていたそうです。時には「もう50回も来ている」と町職員から呆れられたと笑いながら話します。その想いとは、「障がい者だからって家の中に隠れるように暮すのはおかしい。好きな事・興味のある事などを楽しんだり、仲間と過ごす場所が必要だ」という事です。

    ひなどりホーム発足の翌年(昭和60年)、「新装された志津川歌津組合病院に歯科が移ったので、かつての診療所が空いている。そこを使ったらどうか」と町から施設利用の提案があったそうです。当時の勝倉三九郎町長に直談判したのもあったけど、しつこいくらいに足を運んだおかげかも知れないと懐かしむように振り返ります。

    「まだ中も綺麗だし、トイレや水道も完備していたのが嬉しかったのよ」

    町内にいる障がい者の家族に声をかけ、6人が参加し、『のぞみ福祉作業所』としてオープンしました。発起人の宮川弘子さんが初代所長に就任し、事業運営に奮闘していきます。

    作業所とは言え、当初は収入を得る作業はなく、絵を描いたり本を読んだりおしゃべりしたりの毎日だったそうです。しばらくして、社会福祉協議会が運営主体になり、平成4年廻館に整備された福祉の里(旧志津川中学校)に移ります。

    「子どもたちが作業所に来て活動しているのをみると、本当に良かったなあと思うよ。ただ、今後私たち親が亡くなったらどうなるんだろう?という不安はある」と、将来の課題を言っていました。

    なじみの商店主さん達とつながった!

    「宮川さん、のぞみって毎日何やってるの?」

    ある日、顔なじみの商店主さんらから聞かれて、率直に現状をお伝えしたところ、「じゃあ、ウチの製品の箱折り作業をやってくれない?」「わが社でもお願いしたいことがある!」など、多くの申し出がありました。

    「障がいがあっても何かできるはず!」との思いがようやく実現したと感慨無量だったそうです。

    ただ、それは単に地元商店からの内職請負だけではなく、それを通して地域の方々に少しずつでも理解してもらおうという強い信念によるものだと思います。

    作業所に勤務する若い社協職員には利用者一人一人の症状や性格を伝え、一緒に支援する毎日の宮川さんの行動に、多くの方が信頼を寄せるようになっていきました。

    震災前ののぞみ福祉作業所

    東日本大震災から再スタート

    のぞみ福祉作業所が、それまでの南三陸町社会福祉協議会から社会福祉法人洗心会に運営移行されたのが平成22年4月のことです。

    それから一年も経たないうちにあの東日本大震災に見舞われてしまいます。

    天王前にあった自宅・店舗は流失してしまいましたが、避難所や仮設住宅での暮らしにおいても以前と変わらず、いやそれ以上に周りの方々を気遣い、先頭切って活動していました。

    一方、理容店については二男とともに奔走し、知人の土地にプレハブを設置して不自由な設備ながら早めに再開。宮川さんのなかでは、「散髪しながら震災の出来事やこれからの事を話し合える場にできたらいいな」という気持ちがありました。

    それは、その後の仮設商店街移設、そして現在のさんさん商店街での営業につながっています。

    冒頭の質問、「被災した住民が高台に住む事になりましたが、なぜさんさん商店街に出店したのですか?」の本当の答えは、単なるさんさん商店街の散髪屋ではなく、誰もが気軽に寄って、気軽に話せるサロン的な場にしたかったという想いがあることでしょう。

    店頭の看板には、観光客でも予約がなくてもwelcomeと書かれています。常連さんだけでなく、仮設住宅で知り合った町民やボランティアさんも来ていると伺い、宮川さんの人柄や日ごろの活動=生き方に惚れた方がたくさん増えているんだなあと感じています。

    のぞみ福祉作業所再建に向けて

    被災した「のぞみ福祉作業所」は、三回の移転を重ねながら未だ仮設(プレハブ)です。

    ようやく本設再建が視野に入りましたが、宮川さんのお話を伺うとなおさら南三陸地域の障がい者のために奮闘された事が礎になっているんだなあと思わずにはいられません。

    民生委員の他、南三陸町保健福祉総合審議会委員にも就いていますが、本業は・・・「ハサミ握られなくなるまで続けるよ!」まだまだ明るく元気な宮川弘子さんです。

    震災から7年半経つ『のぞみ福祉作業所』不自由なプレハブですが、来年春には再建される予定です