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    【福興市100回開催に向けて②】笑顔に会うため、岡山から通う/上一枝さん

    東日本大震災からわずか1ヶ月半で立ち上がり、南三陸の復興を象徴するイベントとなった福興市。2020年4月の100回開催に向けて、福興市に関わる方々の想いを伺っています。今回紹介するのは、岡山県笠岡市から通い続ける上一枝さんです。

    福興市のたびに、片道1100kmを運転して南三陸へ。

    2019728日に開催された「志津川湾夏まつり福興市」(第92回)。たくさんの屋台が並び、大勢の人で賑わうなか、子どもたちに人気のコーナーが。オクトパス君を釣り上げるゲームです。「わぁ上手上手! 釣れたね~」と子どもたちに明るく声をかける女性が、今回話を伺う上一枝さん。ほかのメンバーと一緒に岡山県から駆けつけ、福興市をサポートしています。

    釣りゲームコーナーで子どもたちの相手をする上一枝さん

    岡山県笠岡市に住む上さん。南三陸町と笠岡市の商店街が、有事の際に支援し合う「全国ぼうさい朝市ネットワーク」に加盟していたので、震災発生後、そのネットワークを通じて上さんも義援金や物資を送っていました。そして20117月に福興市が行われた際に、初めて南三陸を訪問。笠岡の商店街のメンバーと一緒に福興市を手伝いました。

    以降、冬場を除き、ほぼ毎月の福興市に足を運んでいます。「ざっと数えたところ、今回で通算63回になるかと…」と上さん。片道約1100kmの道のりを、交代で運転しながら通っているというのです。そのバイタリティ、エネルギーはどこから来るのでしょうか?

    南三陸や福興市への想いを笑顔で語る上さん

    福興市を支え、南三陸と岡山をつなぐキーパーソン。

    福興市に通いだした当初から、上さんは釣りゲームを担当しています。「子どもたちの笑顔が見たくて、楽しく遊べる場を設けようと考えました」と話します。また、着物が好きなことから、浴衣を集めて夏まつり福興市で町の人たちに着てもらう企画を実施したことも。

    このように福興市を支えてきてくれた上さんですが、「むしろ私のほうが元気をもらっているんです」と言います。「南三陸に行くのは、人に会うためというのが大きいですね。福興市には人が集まるので、さらに色々な人と会えるのがうれしいです。そこで新しいつながりが生まれることもありますし」と上さん。

    また、「南三陸のことを多くの人に知ってもらいたい」という上さんの想いをきっかけに、南三陸と笠岡の縁が広がって、岡山県倉敷市で「ミニミニ福興市」が開かれるようにもなりました。2018年7月の豪雨で被害を受けた倉敷市に、南三陸から支援を届けるなど、交流や支え合いが深まっています。このように南三陸と岡山をつなぐキーパーソンが、上さんなのです。

    上さんと一緒に今年の志津川湾夏まつり福興市で釣りゲームを出店した、倉敷の「いぐすぺ!南三陸」のみなさん

    「福興市もですが、とにかく南三陸が大好きなんです。みなさんが私のことを家族のように迎えてくださるのが、ほんとうにありがたいことで…。これからも、たくさんの笑顔が集まる福興市を毎回楽しみにして、通い続けます!」

    上さんの笑顔に会いに、福興市に遊びに来ませんか?

    シリーズ 入谷は民話の宝庫なり 第3景 巨石~坂の貝峠

    目的地「巨石の森」からの戻り道、神行堂山の中腹からはこんな光景が広がります。正面奥にはスタート地点『ひころの里』があるはずなのですが、押舘集落までしか見えませんね。ここから歌津・払川地区に向かう峠道があるので、登ってみることにします。

    道のわきにも巨石?!

    「巨石の森」出口から登ること数分、道端に大きな石がゴロゴロと…。細長いものや丸いものなど形は様々ですが、看板には「なまこ石」と書かれています。そう言われれば海のナマコのようにも見えますが。

    *言い伝え(坂の貝峠・なまこ石)

    けど(街道)を歩いていた旅人が、一服すっぺって(ひと休みのつもりで)腰かけた大きな石が、突然揺れたりめろめろめろ~って動き出したりと驚かされたんだと。 そのたんび(度)に「はっはっはっ」と大きな笑い声が土の中から聴こえてきたんだとさ。ふもとの集落に住んでいる侍が、「化け物石のせいで旅人が難儀するのはダメだ。おれが退治してやんねげねぇ(やらねばならないだろう)」と言いながら旅人のふりをして峠登ったと。そして石に腰かけたっけ、ぐらぐら~と揺れたからすぐ立ち上がった。そしたらその石がめろめろめろ~って動きだしたので居合抜きに切りつけたらばっくり二つに割れたんだと。

    それからは、もう旅人を驚かすようなこともなく、もとの御影石に戻ったんだと。

    民話はここで終わるのですが、この峠道を整備するようになったころに、道路工事の作業員が引っ張られるような感じがしたり体調を崩したりしたことがあったそうです。そこで、その大きめの石を一か所にまとめて工事の安全を祈願したそうです。それからは、事故や体調不良を訴える人もなく工事も無事に終了したことから、割れた石が昔のように合わさって喜んでいるのかもしれないなと話す地元の方もいらっしゃいます。

    なお、退治したのは侍という話の他、ダンポさん(警察官)だったという説など、様々あります。

    ちょぺっと寄り道…金次郎仏

    なまこ石が置かれているところからわずか数メートル、「金次郎仏」と書かれた板看板が建っています。看板の奥には小さなお墓のようなものがありますが、薄暗く足元も悪いので踏み入れられませんでした。ここには、哀しいお話がありました。

    *言い伝え(坂の貝峠・金次郎仏)

    入谷中の町(鏡石)に大繁盛の染物屋があってな、気仙から金次郎という若者が奉公に来たんだと。金次郎はとっても真面目でよく稼ぐ男で、技術をしっかり覚えてお金も貯めたんだと。何年か後、気仙に帰って染屋を開く事を決めたら、旦那さんも女将さんも喜んで祝儀まで出してくれたと。お世話になった人たちに御礼語って、その人たちに見送られて意気揚々と坂の貝峠へ向かった。民家が途切れた石の平を過ぎたあたり、ほっかぶりして目だけ出した男がやぶからぼっぽら出はった。

    「やい、有り金全部置いていきな!」「な~に、てえした銭もっていねえ」「いやいや、歩く姿でわかるんだ。同巻きさ、いっぺえ入ってるはずだ」「だ~れ~、長い事一生懸命に働いて稼いだお金だ。気仙に帰って店ば開くんだおん、なんとしたっておめさやれね!」

    金次郎は山賊相手に必死に抵抗した。山賊は聞く耳持ってなくて金次郎を刃物で刺し殺してしまったんだと。そんな悲惨な事件に村の人たちが可哀想だと言い、その場所に金次郎を埋めてモミの木を植えたんだと。話を聞いた染物屋の人たちも仏石一本刻んでお墓を建ててねんごろに弔ったんだとさ。

    「うなぎは水を汚して潜って逃げた。それからその辺の井戸水は濁ったままだ」という民話もあります。

    恐怖伝説・血の池

    金次郎仏から急に上り坂になる坂の貝峠。何回かカーブしていくと、道の右側の林に「血の池」と書かれた板看板が建っています。「血の池」とは、何ともおどろおどろした名称で、その由来を聞くのもちょっと覚悟が必要になります。

    *言い伝え(坂の貝峠・血の池)

    入谷に住むある男の人が、親戚に法事があったので歌津に出かけたんだと。

    その頃の法事はだいたい午後に開かれていたから、帰りは暗くなると思い、膳の湯(蕎麦湯)も飲まず急いで峠を越えたんだと。小さな池のふちを歩いていたら、一人の男に声をかけられたんだ。

    「そば食ってきたか?」「うん、戴いて来すた」「膳の湯は飲んできたのか?」「いや~、遅くなっと悪いから飲まないで来たでば!」

    そしたらその男、正直に語った村人を襲って腹ば引き裂いて胃袋からそばを取り出して池で洗って食ってしまったど。そのせいで池の水は真っ赤に染まってしまった。それから、村では【そばを食ったら膳の湯を飲むもんだ!】と言われ続けたんだと。

    血の池があったとされる林の反対側には、小さな沢があります。この峠を越える方にとって貴重な水分補給できる休み場になっていたはずだとも教えていただきました。

    坂の貝峠は、視界良好の「山がんの里」

    神行堂山・坂の貝峠を越えた先は歌津・払川となり、峠からは遠くに太平洋も臨めます。入谷側を振り返ると一段と立派にそびえる童子山と戸倉に続く分水嶺の山脈が広がります。入谷で聴いた怖い話や哀しい話は、戒め・教訓なども含まれていましたが、地形や人々の暮らしも垣間見える民話として後世に伝えたいものです。

    峠道は、自動車も行き交うように平成13年に拡幅・舗装され整備工事が完了しました。峠のてっぺんには「山がんの里」という広場ができて、展望台と四阿も作られました。完成記念として、当時の町長や地元選出国会議員などの関係者そして地元林際小学校児童たちが植樹した、ぶな林が「木漏れ日の道」を醸し出しています。

    木製品を身近に。その可能性を追求する。

    木製のスプーンやヘラなど、手作りのカトラリーを手がけるのは阿部伸さん。入谷出身の阿部さんは自衛隊員として職務を全うしていたとき、旅行先で目にした木製のターナーを見て「自分にもできるのではないか」と思い、仕事の合間を縫って制作を始めたという。「でも難しくてさ、試行錯誤の連続。1年くらいヘラだけ作っていたけどまともに作れなかった。スプーンも作ってみるかと思いやり始めたけどまともに商品になるのに3年はかかったね」

    制作を始めてから5年ほどたったとき、自分の作品を販売する機会が訪れた阿部さん。「思いの外、たくさんの作品を手にしてくれて、購入して喜んでいる姿があって、それがうれしくて」と目を細める。

    自衛官を退官後、3年ほど前から地元入谷でも拠点を持って活動。この地では、“木組み工法”と呼ばれる伝統工法に出会い、木の可能性をさらに感じているという。「ITを活用した最新技術と、鎌倉時代から続く伝統工法の力。アイディア次第でいろんなことができる可能性がある。考えることから始まって、動いて、削って、組み立ててできるって過程すべてが面白い」

    そうイキイキと語る阿部さんの手からどんなものが生み出されるのか。今後に期待したい。

    2019年9月30日/定点観測

    南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

    写真をクリックまたはタップすると大きくなります

    戸倉地区

    撮影場所 [38.642969, 141.442686

    志津川地区

    撮影場所 [38.675820, 141.448933

    歌津地区

    撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

    他の定点観測を見る

    残暑のなか大盛り上がり「結の里☆青空レストラン」

    「風が涼しくなってきたね~。やっと猛暑が終わって過ごしやすくなってきたよ」という挨拶が交わされるようになってきました。が、そんな秋の始まりに待ったをかけるような厳しい残暑、むしろ酷暑となった9月8日(日)に行われた結の里の賑やかなミニイベントをリポートします。

    結の里で「秋まつり」も、やりましょうか?

    大阪の支援団体が中心となり開催された「踊れ!結の里の夏まつり」からわずか3週間。9月に入れば残暑から秋風がそよぐ時季になるのだろうと考えた実行委員会の面々です。

    そもそも「お祭り」とは地域の神社に、住民の安寧や作物の豊作を祈願する伝統行事でもあるのでしょう。震災で新しく生まれ変わった街では、これからずっと暮らし続ける住民の交流(繋がり)を密にする歴史を始めようとの想いも含んだイベントです。

    結の里運営委員会と社会福祉協議会生活支援係・LSAの皆さんが主催する秋まつりは、南三陸の食材をふんだんに使ったパーティーにしようと企画段階で盛り上がりました。馬も肥える高い晴天を期待して「結の里☆青空レストラン」と命名し、短い期間のなかで住民が協力しながら企画を実施しました。

    食材等は町内有志ならびに企業団体から無償提供したいとの申し出があったため、参加費の300円は「九州北部大雨被災地」への義援金として寄付

    みんなで準備、これもまた重要な繋がりです

    「結の里」が開設されてから、ここで展開される様々な活動やイベントは、地域住民の協力なしには考えられません。運営協議会や実行委員会で出された住民の案をみんなで話し合い取り入れます。これにより、住民が「言い出しっぺ」になるので、準備段階から参加します。この日もテント設置やテーブル・椅子の搬入などに汗を流しました。

    午前11時、青空レストラン開店で~す!

    早朝8時過ぎから始まった準備が終わり、協賛出店の方々も万端のようです。が、近所の皆さんは10時過ぎから興味津々に集まってくれています。(毎度の事なので、皆さん待つのは慣れたもの・・・)

    定刻11時、「最初にお詫び申し上げます。台風接近で中止になるのが嫌だったのでお天気祭りをしてきました。が、やり過ぎたようで、こんなに猛暑になってしまいました」と笑いを誘った後、「お待たせしました。結の里・青空レストラン開店で~す」と高らかに開会宣言。地元の銀鮭と野菜などを使ったちゃんちゃん焼きがメインメニューです。

    渡辺博道復興大臣もご来店!

    今回のイベント開催にあたり、渡辺博道復興大臣より是非住民交流の時間を設けたいとの意向が出されました。

    佐藤町長、最知副町長、及川企画課長などもご来店、見知った住民と挨拶を交わしながら先に食事を済ませて大臣到着を待ちます。

    結の里には8月にも視察に訪れた復興大臣ですが、地域住民と親しく交流する時間はありませんでした。今回の訪問は大臣自身も楽しみにしていたそうです。のぞみ福祉作業所や風の里のブースでは、日ごろの活動を聴きながら作品を手に取り気さくに声をかけて下さったうえ、お買い上げいただきました。

    10月開催予定の「走らないミニ運動会」の体験コーナーや、入谷ビーンズクラブ、ウイメンズアイのブースも回られ、みなさん食堂のメンバーから「銀鮭ちゃんちゃん焼き」やデザート等の説明を受けた後、住民と同じテーブルに着き食事をしながら楽しく懇談して頂きました。

    南三陸町はじめ東日本大震災の被災地はどこも復興途上です。現場の状況をよく知る復興庁の役割は重要ですので、担当大臣が地域住民と交流する機会も継続的に行われると良いけどねという感想も随所で聞かれました。

    注)3日後に公表された内閣改造人事で、渡辺復興大臣は退任されました。

    炎天・酷暑でも大いに盛り上がりました。

    「9月にしては厳しい残暑だったのですが、熱中症を含め事故もなく盛り上がったのは、協力して下さった全ての皆様のおかげです。復興大臣来店というサプライズもありましたが、これからもみんなで楽しくワイワイやりましょう」と結んだ頃には、秋空の気配がちょっぴり・・・来月は、大学生や幼稚園児も参加する「ミニ運動会」開催予定です。お楽しみに!

    レジンに込める町のヒカリ〜及川美樹さん〜

    南三陸町の手仕事を紹介するこのテーマ。二回目は町内外のイベントで作品を出品している装飾具屋Ventの美樹さんです。様々なものをレジンで包む作品と、自然と創造性の交差点をお話していただきました。

    風のような作風を求めて

    「ちょっと作業しながらでもいいかな、新しいのがあるんだよね」
    そう言うと美樹さんはカバンから様々な道具を取り出し、手袋をはめていつもの仕事を始めた。

    UVレジン(紫外線硬化樹脂)を塗る美樹さん

    「Ventはフランス語で“風”って意味があってね、風のように自由な作風を、って意味でつけたんだ」

    元々は仙台の雑貨屋でスタッフをしていた美樹さん。お店で作っているうちに自分でもやってみたいと思い立ちオリジナルのものを作り始めた。
    「それが大体13年くらい前で、そこからお店を手芸屋さんに変えて、物作りの知識をゲットしながら働いていたかな。そして平成20年に町にUターンで戻ってきてからフリーランスとして働き出したの」

    お店の社員で趣味として始めたハンドメイド。町に帰ってきてからはバンドの物販品を作成するなどの活動をしていたが、当時は今のように「フリーランス」という働き方は珍しく、戸惑うことも多かったという。

    当時は今のような機材も道具もなかったので工夫して作品を作っていた

    「帰ってきて何してるの?って聞かれても、その時はまだ趣味の範囲で作っていたからね、周りに同じような働き方をしている人もいなかったし、大変っちゃ大変だったねぇ」

    美樹さんがもがきながらも自身の活動を続けている最中、東日本大震災が起きた。

    自分に出来る事、作品で伝えられる事

    美樹さんの創作活動は震災がターニングポイントになった。

    「最初は、親戚が作っていた“ふのり”をどうにかして形に残したい、っていうところから始まったかな。」時間が経てば無くなってしまうものをどうすれば残せるのか、思いついたのがレジンだった。

    「レジンは乾燥しているものであればなんでも中に入れられるの!で、ふのりを入れてみたらすごく良くって、こういう風に残していくのもありだなぁって思ったの」

    どこにもないオリジナリティがここで生まれ、どんどん活動の幅を広げていった。
    しかし、まだこの段階では「趣味」の範囲を抜け出せないでいた。

    たくさんの声を聞き、次々と新しい作品に挑戦し続けている

    葛藤とジレンマと活路

    何をするにしても「震災」や「被災地・被災者」というレッテルが付いてしまっていた時期。

    「震災があったから。被災地だから。と見られていたし、それに従うことが正しいのかと思っていた。でもそこに違和感を感じている自分もいて、やりたいことはそれなのかって」

    震災に関係なく、南三陸らしいものを作りたい。そんな時に「ハンドメイド塾の講師」をすることになった。

    「私が講師で大丈夫なのかなって思ったんだけど、やってみたら仙台から来る人もいたりカップルで参加する人もいてびっくりした!そうして教えているうちに吹っ切れたね」

    新作のネックレスのパーツ。藍染めした羊毛を丸めてレジンに内包しているという

    吹っ切れてからはまさにVentの名の通り、南三陸らしさを交えた自由な作品をどんどん公表していった。講座を始めてから3年目、徐々にハンドメイドの輪は広がっていった。
    「田舎だからこそハンドメイドが生きる。近隣の地区でもそういう場所があるから南三陸でも出来るはず」力強い眼差しは未来を見つめていた。

    文化としてのハンドメイドを

    「今はまだだけど、将来的にはこの町に根付くような文化にしていきたい。」

    ハンドメイドを始める敷居を低くする、誰もがハンドメイドを出来るような環境にしていきたいと美樹さんは意気込む。

    「楽しいから続けられているし、今は周りにフリーランスの人が増えたから心強い。」

    働き方を若者から学んでいるのよ、と移住者やUターンで新しく仕事を始めた人たちとの交流も楽しみにしているという。

    「野望というか、夢ではあるけどね。ハンドメイドのイベントが馴染んでいくように頑張りたいな」

    南三陸の「光るもの」を発信できる作品を目指して

    以前にも増してオリジナリティ溢れる、マニアックな注文も多くなったそう。

    「前に『ネギの何かを作って!』と言われた時はびっくりしたけど、作ったピアスを町の外で着けてファッションとして楽しんでいるのを見てすごく嬉しかった!」

    地元×マニアという新しい発想は、まさにVentにぴったりだった。

    ウニの口をレジンで加工。綺麗なまま作品にするには数々の工夫がなされている。

    「今は材料も簡単にネットで手に入る時代だけど、あくまでも取り寄せじゃなくて自分で手に入れて加工したい。このウニの口も、知り合いの漁師さんのところに手伝いに行った時にもらってきたの。」

    これがここにしかない強みよ。と言う美樹さんの表情には、これまで積み上げてきた周りの人との信頼関係が伺える。

    いつの日かハンドメイドをする人が集う環境を夢見て、自由な風は今日も空高く舞い上がっていた。

     

    コミュニティの再生へ!住民たちで企画「おきなぐら納涼まつり」開催

    暑さも落ち着き始めた8月10日。戸倉公民館グラウンドで「おきなぐら納涼まつり」が開催されました。復興が進む中で、コミュニティの再構築が課題と言われている南三陸町。昔のようなコミュニティを取り戻そうと住民が主体となり、手作りお祭りを開催しました。主催者の想いと祭りの様子をお届けします。

    住民達による手作り夏祭り

    8月10日、戸倉公民館グラウンドで「おきなぐら納涼まつり」が開催されました。震災後初めて、住民が中心となり行われたお祭り。震災前は地区ソフトボール大会や地区ビニールバレー大会、町民運動会など盛んに行われていました。また各行政区で子ども会が中心に、盆踊りやクリスマス会も実施。しかし、震災後は、住む場所が大きく変化したことや子ども会が機能しなくなったことにより行政区ごとの催し物は、ほとんど実施されていませんでした。

    そんな中、戸倉地区では昨年から戸倉公民館が中心となり戸倉地区ビニールバレー大会を開催。今回のおきなぐら納涼まつりでは、戸倉コミュニティ推進協議会と住民が主体となり、昔のような賑わいを取り戻そうとの想いから企画されました。

    開会の挨拶ではコミュニティ推進協議会会長の佐藤泰一さんが「子どもから大人まで楽しみ、“絆”を深める祭りにしましょう」と述べました。震災により多くの人が戸倉地区を離れた人と言います。離れてしまった人も、足を運べる機会になればとイベントにはたくさんの想いが込められています。

    第一回のお祝いして、大漁餅まきも行われた

    たくさんの出店に、様々な催し物で会場は大盛り上がり

    会場の中心には、やぐらが組まれ、それを囲うように特設ステージや戸倉の各行政区からの出店が並びました。特設ステージでは、郷土芸能である行山流水戸辺鹿子躍を披露。その後は民謡や歌謡ショー、カラオケ大会などが行われたほか、戸倉の子ども達が中心となって活動している戸倉心輪会によるヨサコイも披露されました。

    先日、日本ワインコンクールで受賞したばかりの、南三陸ワインも提供された

    最後はやぐらを囲んで盆踊り。震災により音源が流失してしまっていた戸倉浜甚句もレコーディング後、初のお披露目となりました。昔は祝いの席で披露されていた戸倉浜甚句。数年ぶりの復活に、住民は想い想いに輪に混ざって踊りました。その後は、トコヤッサイなど、合計4曲で祭りの締めを飾りました。

    震災後、初披露となった戸倉浜甚句

    8年前多くの命を奪った場所が、地域の輪を広げる場へ

    今回開催してみて「思っていた以上に若い人や子どもが多いことに気づかされた」と佐藤泰一さんは話します。夕方になるにつれて会場にはお年寄りから子どもまで、多くの人が来場しました。

    8年前、当時避難所で多くの人が避難した戸倉中学校。しかし、大津波は戸倉中学校まで押し寄せ、多くの命を奪っていきました。そんな場所が震災前のように地域の人が集い、交流を深め自然と笑顔になる場所になっていました。大人は震災前を懐かしめるような、子ども達にとってはひと時の夏の思い出になったのではないでしょうか。震災を乗り越え、今を生きる人は強いと改めて感じました。ぜひ来年度も開催できることを願っています。

    時代と共に変化してきた郷土芸能~長清水鳥囃子~

    南三陸町で継がれている郷土芸能を紹介する連載「願いと揺らぎ~南三陸で紡がれる郷土芸能~」。今回は戸倉地区長清水(ながしず)集落に伝わる、「長清水鳥囃子(ながしずとりばやし)」のご紹介です。幾多の災害を乗り越え、時代と共に変化して現代に残されています。その保存会の会長を勤めている佐藤泰一さんに話を伺いました。

    起源は不明、歴史的資料も一切ない~長清水鳥囃子~

    南三陸町の中でも、南側に位置している戸倉地区。その戸倉地区の先端の方にある長清水(ながしず)集落で継承されているのが今回ご紹介する「長清水鳥囃子(ながしずとりばやし)」です。

    長清水は山と山の間の平地にある、小さな集落です。昔は炭焼きや塩造りが盛んな集落でした。災害が多く、中でも火災が多く数年に一度大火事があるほど。昭和28年頃にあった大火事では約30件あった家の10件が消失しました。8年前の東日本大震災でも大きな被害を受け、集落は壊滅状態となりました。

    昔から多くの災害に見舞われていることから、長清水鳥囃子に関する歴史的な資料は現代には一切残っていません。起源として言われているのは、現在の登米市から木を切りに来ていた人達に教えてもらったということ。夜の宴で披露したことが始まりではないかということです。「鳥獣や害虫を追い払い、安泰祈願」の意味が込められていると言います。しかし、それらも資料がないことから頼りは言い伝えられている記憶のみ。今では、どの時代のどこから継承された郷土芸能なのか知る人はいません。

    震災直後、復活の後押しとなった子ども達の集合写真。

    派手さがない、型にはまらない芸能

    長清水鳥囃子の特徴として、「単調なリズムで派手さがない」ことだと現保存会会長の佐藤泰一さんは言います。本来お囃子ですと集落を練り歩いたり、派手な衣装や変化のあるリズムなどそれぞれに特徴があることがほとんどです。

    長清水鳥囃子も“昔は部落を歩いていたのかもしれない。一部のリズムしか覚えてなかったのかもしれない”とさまざまな憶測があります。長清水鳥囃子の継承では、途中途切れていた時代もありました。再起した時は、リズムは一定で何も変化も派手さもなかったと言います。そのため、周辺地域のお囃子を参考に考案・改良されたのが、現在に残る長清水鳥囃子です。今の演目は獅子が転がったり、リズムが早くなったりとステージ向けに考案された演目になります。歴史的な資料がなかったことで型にはまることなく、変化して来たのも今ではこの長清水鳥囃子の特徴だとも言えます。

    基本的には獅子がステージを行ったり来たりする(提供:南三陸町立志津川中学校)
    参考:入谷打囃子では衣装や飾りが派手な上、獅子が跳ねたりする。

    保存会設立とその後の広がり

    現在保存会の会長を勤めているのは、佐藤泰一さん。保存会が設立されたのは、佐藤さんが20代の頃でした。JR陸前戸倉駅の開業式典に出演依頼があり、その依頼を機に保存会を設立。当時は契約講(※)の講員を中心にメンバーが集められ、道具も保存会の設立に伴い一通り揃え、継承活動を本格スタートさせました。佐藤泰一さんは「当時はやらされている感じが強かった」と振り返ります。そのため、やる気に差があり、得手不得手から投げ出す人もいました。

    その後は、小学校で披露するなどして長清水集落を中心に活動を広げていきました。平成になってからは、ふるさと学習の一環として中学生を対象に郷土芸能の継承活動が始まりました。震災後閉校してしまった旧戸倉中学校では毎年文化祭に合わせて、生徒達が練習。長清水鳥囃子と以前ご紹介した行山流水戸辺鹿子躍の2つの郷土芸能を文化祭で披露していました。震災により道具は流失し、一時は継続することも危ぶまれました。しかし当時の教員や子ども達の後押し、支援もあったことでなんとか復活を遂げました。現在では統合先の志津川中学校で、継承活動が行われ文化祭で生徒たちが披露しています。それでも年々生徒数は減少しているためか、思うような人数は集まっていません。一部の演目を変更することで継続しているのが現状です。

    ※昔の村落組織の1つ。家の建築やふき替え、冠婚葬祭など生活互助の役割を担っていました。

    長清水鳥囃子保存会会長の佐藤泰一さん

    継承が難しい時代に「不撓不屈」

    どの郷土芸能も継承が難しい時代に来ていることは間違いありません。継承するのにも人やお金が必要です。これからの時代「なんとしても残すんだと強い意志がないと難しい」と佐藤泰一さんは話していました。演目の最後は獅子がくわえた垂れ幕を下し、掛け声と共に演目が終わる長清水鳥囃子。昨年度の文化祭で、垂れ幕に書かれていた文字は、強い意志をもって、どんな苦労や困難にもくじけないという意味の「不撓不屈(ふとうふくつ)」。これからの時代に向け、佐藤泰一さんが未来をつくる子ども達と長清水鳥囃子継承の想いが込められた四文字に感じられます。

    昭和から平成。そして令和と時代の変化は大きく、生活の在り方も大きく変化してきました。郷土芸能も継承の歴史の中で型にはまるだけでなく、何かしらの変化をしていくことも時には必要なのかもしれません。いつしか若き継承者が現れ、今後も続くことを願っています。

    「不撓不屈」:どんな苦労や困難があっても、強い意志を持ってくじけないこと。(提供:南三陸町立志津川中学校)

    【福興市100回開催に向けて①】不屈の商人魂。市から福を興す/山内正文さん

    東日本大震災からわずか1ヶ月半で立ち上がり、南三陸の復興を象徴する存在となった福興市。2020年4月に100回開催を迎える福興市に向けて、関わる方々の想いを届ける連載企画です。今回は福興市実行委員会実行委員長の山内鮮魚店山内正文さんにこれまでの福興市を振り返っていただきました。

    絶望のなか、市から福を興す

    2011年3月11日、東日本大震災によって壊滅的な被害となった南三陸町。家も、商店も、工場も、なにもかも失ってしまった町に絶望を覚えた日。しかし、その日からわずか50日余り。避難先のひとつ、町立志津川中学校には多くのテントが並び、商人たちの威勢のよい声が響いていました。それこそ、南三陸福興市。

    「単なる復興ではない。市から福を興す。そう願いを込めていました」と話すのは、福興市実行委員長の山内正文さん。町を代表する魚屋さんの一つである山内鮮魚店の2代目社長でもあります。自らも、自宅、工場、店舗を津波によって失ったなか、決して下を向くことなく、商人の復活に向けて歩みを進めたのでした。

    「今振り返ってみると、本当に困難な状況でのスタートでした。ただ町が全滅したときに、なんとかしなくちゃいけないという想いがあった。どんよりとした空気のなかで、まずは商人だけでも元気にならなくちゃいけない、そう思っていました」

    志津川中学校で開催された第1回福興市のようす

    震災前に築いたネットワークが功を奏す

    震災からわずか50日余りでの福興市開催は、全国の商店街と連携した「ぼうさい朝市ネットワーク」の支援により実現しました。

    この「ぼうさい朝市ネットワーク」とは、震災前の平成20年から、津波などの有事の際にお互いに支援し合うことを目的に始まった取り組み。山内さんが震災前に店を構えていた「おさかな通り」の商店主たちは実行委員会を組織し、このネットワークに加盟していました。

    今現在でも南三陸との強いつながりをもつ、山形県酒田、岡山県笠岡をはじめとして、鹿児島、愛媛、福井、兵庫、愛知、和歌山、長野など全国各地の商店街の店主が、南三陸の窮状に立ち上がりました。
    「今考えると、普段からのお付き合いが本当に大切なんだなって実感します。震災前にも、みんなに怒られながら全国で開催される市に出店したり、モノを送ってやったりしていたんだけどさ。そういうなかで生まれた繋がりがこんなにも生きるんだもんな」と感慨深く振り返ります。

    売るものも十分でないなか、全国のネットワークや近隣の町から物を取り寄せ、販売しました。「なによりも商売ののろしをあげることが大切だった」と山内さんは話します。

    2011年4月29日、30日。震災からわずか50日たらず。多くの町民の避難先でもあった町立志津川中学校の校庭で開催された福興市には多くの町民が駆け付けました。震災以降、離れ離れになっていた町民が、被災後初めて再会し、抱きしめ合い、涙を流す――。そんな光景を見ながら「続けられるところまで続けよう!」と決心したといいます。

    南三陸のファンになるきっかけにも

    毎月最終日曜日を基本として開催された福興市は、町民のみならず多くのボランティアも集う場になっていきました。会場で交わされる地域の人々の声や、会場を埋め尽くすほどの賑わいは、「こんな何もなくなってしまった状況で、店の再建なんて無理だ」と諦めかけていた商店主の心に再び火をつけました。

    「福興市を続けてきたことで、商店主の自信にもなったんだよね。それがきっかけで、仮設商店街の立ち上げに至った。今の南三陸を象徴するさんさん商店街やハマーレ歌津は、ここからはじまっている」と山内さんは話します。

    さんさん商店街の商店主や仲間たち

    「単純にボランティアして終わりじゃなくて、福興市があることで、楽しんだり、お買い物できたり、町民とお友達になったりできた。それが大事なことだった」

    たくさんの南三陸ファンを生み出すきっかけになった福興市。

    「100回の記念開催の時には、今まで関わってくれた方々を呼んで、御礼して、みんなでお祝いしたい。商人が楽しんで、お客さんも楽しんで、そして物が売れることが町の力になる。それはこれまでも、これからも変わらない」

    100回の開催のあとはどうするのか?そう尋ねると、

    「この市がみんなが集まるきっかけになっているし、復興の力になっているのは間違いない。そのあとも続けていくことができれば…」と話します。

    震災翌月から南三陸の復興に挑む商人たちの象徴ともなった福興市。「毎回開催のたびにいろんなドラマがあったなあ」と振り返る山内さん。

    不屈の魂をもつ商人たちはもちろん、全国から駆け付けた企業やボランティア、町内有志団体など多くの人々の支えによって、福興市は100回開催を迎えます。本連載では、そんな福興市に関わってきた人々へのインタビューを通じて、これまでの福興市を振り返るとともに関わってきた方々の声を届けていきます。