7年ぶりの再開。「サンオーレそではま海水浴場」

震災で大きな被害を受けた「サンオーレそではま海水浴場」が2017年7月15日に、7年ぶりに再開しました。海水浴場と隣接する荒島パークには、さっそく地域の子どもたちの笑い声が響き渡っています。

さまざまな尽力によって復活した南三陸の海水浴場

「サンオーレそではま」は、平成11年7月に人工海水浴場としてオープンしました。

「サンオーレ」は砂浜の全長の3(サン)0(オー)0(レ)、300mに由来します。おだやかな波と白い白浜、そして三陸ならではの山々と志津川湾のコントラストが美しい海水浴場として、震災前は年間5万人以上が訪れる、県内屈指の海水浴場でした。

しかし、そんな砂浜も東日本大震災では大きな被害を受けました。70㎝以上も地盤沈下したうえに、砂が流され、大量のがれきが流れ着いていました。

佐藤仁町長は「震災後、この砂浜に船が打ち上げられているのを見て、サンオーレそではまの復活は正直難しいのではないかと思った」とオープニングセレモニーの挨拶で振り返るほど、大きな被害を受けました。

およそ3万立方メートルもの砂が運び込まれたビーチは、さまざまな人の尽力によって復活を遂げたサンオーレそではま。2017年7月15日に7年ぶりとなる待望の再開となりました。

約6000トンもの砂が運び込まれた海水浴場

当日は海の安全を祈願する神事が執り行われたあと、海開きセレモニーとして、特別ゲストの森田智己さん(アテネオリンピック銅メダリスト)と地元の子どもたちが海開き宣言とともに海へと飛び込んでいきました。

「やっぱりこの町は『海と生き、海と親しむ町』。この地元の海で子どもから大人まで、たくさんの歓声や楽しみが生まれる場所になってほしい」と話すのは観光協会会長の及川吉則さん。きっとこの夏、この場所でたくさんの笑顔と笑い声が生まれることでしょう。

海の家もオープン。震災前にも営業をしていた店舗もあり、賑わいの復活を店主も喜んでいた

7年ぶりの「地元の海」を待ち望んでいた子どもたち

7年という月日がたち、待望の復活となった本日。地元の子どもたちを中心に待ち望んだ一日となりました。「海開き」の合図とともに、海へと一目散に飛び込んだのは、地元志津川小学校の6年生の同級生たち。

「震災前、まだ小学校入学前だったころに、サンオーレそではまで遊んでいたことがあるんだ」と話してくれました。小学生になる前の小さな子どもが、今では小学6年生に。7年間、待ちに待った地元の海。水をかけあい、泳いで、楽しい笑い声に満ちた空間となっていました。

多くの人が訪れた海開き初日

隣接する荒島パークには、南三陸らしい遊具も

また「サンオーレそではま」に隣接する「荒島パーク」も一部がオープン。真新しい遊具も設置されました。この遊具は、赤い羽根「被災地の子どもたちへの遊具を贈ろう!プロジェクト」様から素敵な遊具が寄贈されたもの。南三陸のオクトパス君をモチーフにした遊具は一台でさまざまな遊び方ができます。さっそく子どもたちは思い思いに楽しんでいるようでした!

「このかわいい遊具で友だちとたくさん遊びたい。ずっと大切にしていきたいです。ありがとうございました」と子どもたちがお礼の言葉を述べていました。

「海と生きる町 南三陸」にまたひとつシンボルとなる場所が生まれました。この夏はぜひ南三陸のサンオーレそではまに遊びに来てください。

インフォーメーション

サンオーレそではま海水浴場

宮城県本吉郡南三陸町志津川字袖浜地内
海水浴場に隣接および周辺に無料駐車場有

●仙台から約2時間/約120km
●三陸自動車道南三陸海岸ICから約5分/約3km

遊泳期間は7月15日~8月20日
午前9時30分~午後4時まで
詳細は観光協会HPから。

<7月12日放送>みなさんぽ

今週の「みなさんぽ」は、この夏のバーベキューにぴったりな南三陸の大きな「ホタテ」からスタートしました。インタビューは、いよいよ今週末7年ぶりのオープンを迎える「サンオーレそではま」で、商工観光課宮川舞さんに話を伺いました。

オープニング

南三陸のホタテのおいしさを、南三陸町歌津泊浜の金比羅丸・高橋直哉さんにホタテをご提供いただきました。

「世界三大漁場のひとつといわれる三陸沖の豊富な栄養分と、南三陸の山々から流れる豊かな栄養分の、ふたつの栄養分をたっぷりと食べているからこそ、このおいしさなんですよ」と高橋直哉さんは話します。

ぜひこの夏のバーベキューの主役に南三陸のホタテを食べてみてはいかがでしょうか?

インタビュー

いよいよ7/15(日)にオープンを迎える「サンオーレそではま」。かつて年間5万人もの方が訪れた県内屈指の海水浴場に、青い海と白い砂浜のコントラストが震災以来7年ぶりに戻ってきました。

砂浜の全長が300メートルあることから「(3)さん・(0)おー・(0)れ、そではま」と名づけられました。

この場所は震災の津波で砂が持っていかれただけでなく、地盤沈下したことから、大量の砂が必要だったそうです。大型トラックで実に6000台分という膨大な量の砂が運ばれてきたのだそうです。

隣接する荒島パークには、南三陸らしいかわいい遊具もお目見えするとのことです。

【サンオーレそではま海水浴場】
OPEN期間:7月15日(土)〜8月20日(日)
午前9時30分〜午後4時
(悪天候の場合遊泳禁止の可能性有)

※7月15日は安全祈願祭実施のため10時30分開場です

月間プレゼント

今月の月間プレゼントは大好評の「南三陸おふくろの味研究会」の缶詰から「ホヤの4種セット」をプレゼントいたします。応募方法は番組にてご紹介しています。番組の感想とともに、ぜひご応募ください!

聞き逃した方はradikoでお聞きいただけます

パソコンやスマホでラジオが聴けるradikoでは、過去1週間以内に放送された番組を後から聴くことのできます。残念ながら聞き逃してしまったという方はぜひこちらでお聞きください!

http://radiko.jp/#!/ts/DATEFM/20170712123000

地域に寄り添う神主に/上山八幡宮宮司 工藤庄悦さん

900年の歴史がある上山八幡宮の第25代宮司に昇格した工藤庄悦(くどうしょうえつ)さんにお話をうかがいました。現在は志津川地区にある5つの神社(上山八幡宮・古峯神社・保呂羽神社・西宮神社・荒嶋神社)を中心に職務にあたっていらっしゃいます。その誠実な人柄と優しい笑顔で、「志津川の宮司さん」として、地域の方々にも親しまれています。

お菓子屋の息子が、神主に転身

神主の世界に入ったのは(上山八幡宮の跡取りである工藤真弓さんとの)結婚がきっかけですね。それがなければ神主になることはまず、なかったですね。私は町内のお菓子屋の息子だったので。町内の祭事には参加してましたけど、お付き合いで参加していたというだけで神様の存在も、気にもしたことがなかったですね。

先代の宮司からお話があった時は「私みたいな者でなれるんですか?」って聞いたんですよ。やっぱり神主というのは、「偉い人がなる」もの「立派な人がなる」ものだと思ってました。でも「信頼は後からついてくるから。ちゃんとやってれば大丈夫」と。

実家のお菓子屋と神社での仕事を両立させる生活が5~6年経ったころ津波(東日本大震災)がきました。震災後、その実家のお菓子屋がなくなったので、もう神主しか仕事がなくなったんです。ですが、震災から一年間は、催事もほぼなかったんですね。私もすごく不安になって、何もしない訳にはいかず、コンビニでバイトしたりしてました。

奥さまの工藤真弓さんと

震災後の地鎮祭や安全祈願を任せられ、一人前に

震災から一年が経った頃、地鎮祭が増えてきたんですね。宮司に「大丈夫だ」と言われ、一人で行くようになって。ハウスメーカーから頼まれることも多く、気仙沼や、古川など、どこにでも行っていました。当然ですが私を知らない人は、私のことを「神主さん」としか見ないですよね。だからもう、堂々とやるしかない、と。そんなことを一年、二年と続けていくうちに、いつのまにか自分が「神主」になっていたような気がします。

宮司も80歳近かったので、工事の安全祈願なども「もう一人で大丈夫だから」と任せられてしまいました。その時には、私も「継がなければならない時期なんだな」と感じてはいました。

それから間も無く、平成27年の10月半ばに先代宮司が亡くなったんです。本来私が宮司になるには、もう一段階資格が必要だったため、「宮司代務者」という肩書きで、その後勤めることとなりました。そんな折、資格免除での通知を頂き、晴れて今年宮司に昇格させて頂くこととなりました。

これは本当に、先代宮司のお導きだと思っています。

「神主は偉くない」の言葉に救われて

研修や他の神主さんから教えられた、印象的な言葉があります。

「神主は何も偉くない。一般の人が神様にお願いをする時は、神社等に来て拝めばいい。でも、もっと丁寧に祈りを捧げる為に、私たちがいる」と。

祝詞って、聞いていて分かるところと分からないところがありますよね。あれは、神様に伝える為の昔の言葉で読むから、祈祷に参加する人たちの気持ちを、祝詞で伝えるんです。仲介・通訳と言えるかも知れません。

「神主は偉くない」という言葉を聞いて、心が楽になりました。「言葉と作法を勉強して神様に伝えるだけの立場です」と言えますからね。私は今も、偉くなりたいと思いませんし、ただただ「この神社を守る」という存在でいたいと思います。

南三陸はやっぱりいい町、そう思います

子どもの頃は、家の近くに川があったので、鮎やハゼを釣って遊んでいました。ただただ自然の中で、自転車で駆け回っていた記憶があります。高校を出てからは、仙台と沖縄のお菓子屋で約5年間働き、22歳の頃実家に帰ってきました。

外から帰ってくると、ここ(南三陸町)の気候も、水も、食べ物も、みんな素晴らしいんだということに気づきましたね。若い頃は、知り合いばかりで過ごしづらい町だと思っていたんですが、結婚してからは、そのおかげで安心できる町でもあるんだなと思いました。子どもがいれば尚更ですね。津波がきてバラバラになって、また戻ってきた時にも、そう感じました。いい町なんだなと。その想いは、年々強く感じますね。

神社離れ・お寺離れというのは南三陸町だけではなく、全国的な現象ですので、それは仕方ないですね。そんな中で、自主的にお祭りに関わって頂ける皆さまに対しては、本当に素晴らしい方々だなと思って感謝しています。神社は神主だけでは何もできないので。

最近の傾向では、町外から来た方の方が興味深く、熱心に協力して下さる方が多くなってきました。ありのままの現状を受け入れて、それでも協力して頂ける方が。不思議なことだと思っています。

町の人のくらしや価値観に寄り添った神主になりたい

年に一度のお祭りが、神主である私を通して、神様に祈りを捧げる場だとすれば、何も私を通さなくとも良いとも、思うんですよ。個人個人で祈りを捧げても。心のどこかに常に、神様の存在を持っていて欲しいなと。「バチがあたる」なんて言葉も最近、忘れがちですよね。『神様がどこかで見ている』という意識も、薄れがちなのかな、と思います。

私は、いわゆる「神主らしい」立派な言葉は、言えないし、言いたくないんですよ。神社経営の為の会社みたいになってしまいそうで。ただ私は町の皆様といい関係で、自分の役割をしっかり勤めて、やっていきたいだけなんです。だから、今のこの町の人たちの暮らしや価値観を変えたいとは思っていません。お祭りのご案内をして「本業で忙しい」というお返事なら、仕方のないことです。私も勤め人の経験があるので、気持ちが分かりますからね。

よく町の人たちと「神様がいる・いない」の話になるんですが、その時には自分のことを話します。「こんな私が宮司になれたのは、神様がいなければなれる訳がない、説明がつかない」と。

私は婿ですし、全国でも直系の女性の宮司の事例は多くあります。妻の方が町の人に信頼があるし、話がしやすいし、適任だと思っています。妻が宮司になって、私が陰で支えるべきだと。だから今回は、神様から抜てきされた想いですし、不思議だなと思っています。

ご祈祷中の庄悦さん

インタビューアーより

南三陸町に生まれ育ち、導かれるように神事の世界に足を踏み入れた庄悦さん。「宮司」「神主」という肩書きに思い悩んだ時期がありながらも、多くの方々の支えとご自身の成長により乗り越え、そしてご自身ならではの「神主のあり方」を確立された方でした。謙虚な姿勢で「南三陸町の今と未来」を語られる。

庄悦さんは、笑顔は優しさで溢れ、そして決意に満ちていました。これからも「神様の仲介人」として南三陸町の文化に寄り添い、多くの町の人たちに親しまれる「神主さん」であり続けて欲しいと思いました。

ふるさと納税を活用し、町が民間の事業を応援。「おらほのまちづくり支援事業」

災害公営住宅の整備が完了するなどハード面の整備が整えられる一方、ソフト面での充実が求められている南三陸町。ふるさと納税を財源とし、民間の主体的な事業を応援する「おらほのまちづくり支援事業補助金」について南三陸町担当課に伺いました。

民間の自由な発想を町が応援!

――「おらほのまちづくり支援事業補助金」とは、どういったものでしょうか?

行政という枠に縛られず、民間の自由な発想のもとに主体的に行う事業を、町が補助金という形で応援する町独自の制度です。震災前から行っておりましたが、震災があり一度途絶えたあと、平成25年から本格的に再開しました。

高齢者支援などの公益の事業、交流人口拡大のためのイベント開催、町への定住を促す活動、結婚、子育て支援など支援対象は多岐にわたっています。平成25年度から昨年度まで、累計51事業、3000万円の補助を行ってきました。

――南三陸町民がやりたい事業を町が応援してくれるということですね。申請の審査にあたってはどのようなことを重視しているのでしょうか?

もちろん公費を使うので、自由とはいえ一定のルールや制約があり、審査もあります。「公益性」「全町規模」「集いや賑わいの創出」などといった言葉が申請書には書いてあります。しかしそれ以上に大切なことがあると私たちは考えています。

それは、「自ら進んで主体的にやること」「長続きすること」「活動の先に見据えている未来があること」「スタートアップのきっかけ」となる事業であることです。

失敗を恐れずに、挑戦する心意気が大切。動かなければなにも始まらないですから、町としては、短期的に事業が成功するかどうかよりも、積極性や将来性を評価していきたいですね。

財源は、ふるさと納税の寄付金

――この補助金は財源にもこだわりをもっていると伺いました。財源はどのようになっているのでしょうか?

はい、この支援事業は、全国のみなさまからいただいた「ふるさと納税」の寄付金を活用しています。平成27年度には1000件を超える「ふるさと納税」を南三陸町はいただきました。

「震災があった南三陸町であっても、豊かな自然に恵まれたなかで、明るく、楽しく、住民がイキイキとした町であってほしい」と寄付者の方々は思っていることでしょう。

住民自らが主体的に町を盛り上げようとする「おらほのまちづくり支援事業補助金」の予算にあてることが、そうした寄付者の想いにこたえることにつながると考えています。

――ふるさと納税の使途が目に見える形で表れていることは、寄付する側にとってもうれしいですね。

まさに、それを期待しています。補助金を使っているイベントや事業に、寄付をしていただいたみなさんも参加するなど交流を深めることによって、町とのより深い関係づくり、南三陸町のファンになるきっかけとなることも期待しています。

「おらほのまちづくり支援事業補助金」を使って開催された「芋煮会」。関東などからも多くの参加者が駆けつける秋の恒例イベントとなっている

主催者も参加者も町に誇りを感じる事業

――震災から6年以上がたった南三陸町で、これから求められる事業とはどういったことになるでしょうか?

「おらほのまちづくり支援事業」に以前採択されたこともある「盆踊り大会」がひとつのヒントになると考えています。

以前から各地で行われていた盆踊りが、震災後途絶えてしまっていました。そんなとき、町に住む若者が自ら、「仮設のさんさん商店街で、盆踊りをやりたい」と声をあげてくれたんです。「おらほのまちづくり支援事業補助金」でも協力し、たったひと晩の開催でしたが、被災者が昔のお盆の夜を思い出しただけでなく、震災後集まってきた移住者との交流、帰省客が郷土愛を育むことにつながっていました。

主催者の若者たちは、このイベントを通じて達成感や充実感を感じられたのはないでしょうか。もしかしたら、こうしたイベントがあることが主催した若者の定住につながっているのかもしれません。

企画をした人も、企画に足を運んだ人も、共に満足感を得られるイベント。これは、決してお金に換算できるものではありませんね。

南三陸ふっこう青年会が企画する盆踊り

――行政が主導で、住民がやらされているのではなく、住民自身が声をあげ主体的にやったからこそ、参加者も主催者も満足できるものができあがったのですね。

こうしたイベントは行政が主導して、かっちりとしたものでは面白いものはできないと思っています。

町民が意欲的に、楽しみながらやっていることを支えるのが行政の仕事ではないか?発案者はあくまで町民であり、行政に求められる役割としては、何を支えるのかを判断することだと考えています。

民間の自由な発想こそが、役所の苦手なソフト事業を豊かにする。民間と行政のお互いの強みを生かし、補完しあうことこそが「協働」ではないか、と考えています。

震災から6年の今こそソフト面の充実を

――民間の得意分野と、行政の得意分野。それぞれが得意なことを担う「協働」の事業が大切になってくるのですね。震災後6年というタイミングだからこそソフト事業が求められるのですね。

災害公営住宅も完成し、高台移転もすすんでいます。新たなコミュニティの再構築が必須となり、よりいっそうソフト面の充実が求められています。そして、それこそ民間の力が存分に発揮できる分野であると思っています。私たち行政としては、面白い事業、プロジェクトがどんどん町民から提案されることを期待しているのです。

――これまで支援を行ってきた51もの事業。具体的にどのような目的で、どのようなプロジェクトを行っているのか。また、それぞれがめざす「おらほのまち」とは?「南三陸なう」では、今後1年間かけて、さまざまな事業に迫っていきたいと思います。

<7月5日放送>みなさんぽ

今週の「みなさんぽ」は、南三陸町歌津の寄木にある「丸七水産」からスタートしました!いよいよ旬を迎えたウニのおいしさの秘密も語ってもらっています。インタビューでは、夏休みの自由研究にも活用できそうな「たみこの海パック」の体験プログラムについてお話しを聞きました。

オープニング

「ウニのことならこの人に聞け!」と地元漁師さんに紹介いただいたウニのプロフェショナル、丸七水産の高橋英樹さん。南三陸のウニがなぜこんなにうまみがあっておいしいのか、それには理由があったのですね。

いよいよ旬真っ盛りを迎える、南三陸のウニ。ぜひこの夏みなさんも味わってみてくださいね!

大好評の「キラキラウニ丼」としてもさんさん商店街、ハマーレ歌津などの各店舗で提供されています!

インタビュー

今週は『たみこの海パック』代表の阿部民子さんにお話を伺いました。

「たみこの海パック」として南三陸の選りすぐりの海産物のギフトとして好評の民子さんが始めた新たな体験プログラムがあります。その名も「オリジナルふりかけ作り」。

ふのり、とろろ昆布、干海老、ふのり、めかぶ、塩蔵わかめを混ぜ込んで作る「オリジナルふりかけ」は世界にたったひとつのオリジナル品。作りながらも、海藻の歴史や、紹介などいろんなお話がきけるのも楽しいポイント。
子どもたちの夏休みの自由研究にもおすすめですね。
【たみこの海パック】
体験メニューから『ふりかけ作り』や『養殖体験』の詳細をご覧いただけます
https://www.tamipack.jp

聞き逃した方はradikoでお聞きいただけます

パソコンやスマホでラジオが聴けるradikoでは、過去1週間以内に放送された番組を後から聴くことのできます。残念ながら聞き逃してしまったという方はぜひこちらでお聞きください!

http://radiko.jp/#!/ts/DATEFM/20170705123000

町内の小学生が「ふるさと学習会」で南三陸BIOを見学

南三陸町内の小学校6年生が、町の魅力にふれあう「ふるさと学習会」の一環として、バイオガス施設「南三陸BIO」を見学しました。生ごみからエネルギーや肥料に変わる様子を見学し「分別をしっかり行いたい」と学びを深めていました。

町内全校の小学6年生が参加する「ふるさと学習会」

南三陸では、町の郷土文化や産業を深く学び、自然豊かな南三陸の恵みと魅力を再認識する「ふるさと学習会」が開催されています。現在は「春」と「秋」の年2回開催され、町内の小学校6年生全員が参加しています。町のよりよい未来を考えるとともに、他校の同学年の子どもたちとの触れ合いを通じて、学区域の枠を超えた仲間づくりを図っていくことを目的としています。

今年度のふるさと学習会は、町内から出る生ごみをエネルギーにするバイオガス施設「南三陸BIO」を視察しました。参加したのは、志津川小学校、戸倉小学校、入谷小学校、伊里前小学校、名足小学校の6年生、計102名が参加しました。

生ごみからエネルギーになる過程を学ぶ

南三陸BIOでは、それぞれの家庭や民宿や飲食店、コンビニエンスストアから出た生ごみを、分解してメタンガスと液体肥料ができる過程を学びました。

「昨年に続いて、ふるさと学習会で南三陸BIOを訪れるのは2回目です。身近なごみを再利用しているということを子どもたちが学んでもらえれば」と町の担当職員は話します。

さらに、「この機会に分別の大切さを学んで、家庭でお母さんやお父さんにそのことを伝えてほしい」と話すのは南三陸BIOを運営するアミタ株式会社の職員。今まで「ごみ」だったものが、大切な電気や肥料になっているということを子どもたちが理解すればするほど、町の掲げる循環型社会は、よりすすんでいくことでしょう。

「分解システムは人間の消化システムに似ているので、人間が食べられないのは取り除くこと」と分別の方法を学ぶ

「家でしっかり分別をおこないたい」

映像を見ながら、ごみがエネルギーに変わるまでを学んだり、施設を実際に見てまわったり、液肥散布車の試運転などを体験したりしました。子どもたちは、真剣にメモをとり、さらには質問や感想をそれぞれ言葉にするなど積極的な様子が伺えました。

名足小学校6年生の加藤穂香さんは「生ごみが電気や液肥に変わることがわかった。おうちでもしっかりと分別できるようになりたい」と話しました。

志津川小学校の及川莉央くんは「生ごみがエネルギーに変わることが印象的でした」とそれぞれ分別の大切さを実感しているようでした。

町民が「先生」となる「ふるさと学習会」は秋にも開催

今回の「ふるさと学習会」では志津川―戸倉コースとして南三陸BIOのほかに、荒沢神社、大雄寺、神割崎、ギンザケの養殖なども見学をしました。秋に開催される今年度2回目の開催では、入谷―歌津コースをまわる予定です。南三陸町の自然や風土、産業を町の人たちが「先生」となって案内する「ふるさと学習会」。きっと子どもたちの脳裏には、町で働く大人たちの輝く姿が残っていくことでしょう。

「袖浜」とともに、これからも。/明神崎荘・佐々木昌則さん

南三陸に生きる⼈を巡り、⼀巡りする連載企画「南三陸ひとめぐり」。第14弾は、この夏待望の再オープンを迎える「サンオーレそではま」の近くで「明神崎荘」を営む佐々木昌則さん。その激動の人生に迫りました。

袖浜の海で遊びつくした少年時代

「サンオーレそではま」のある南三陸町志津川の袖浜地区は、震災前、小さな集落に10軒以上の民宿がある民宿街だった。海水浴に訪れたお客さんが民家の縁側で休憩をしていったことが、この地域の民宿の始まり。そのうちに「ご飯食べていくか?」「お酒飲んでいくか?」「泊まっていくか?」というようになっていき、今のような民宿のスタイルになっていったという。

海水浴場にほど近い佐々木昌則さんが育った家も、そのひとつ。養殖業を営んでいた父親が、民宿「向」として営業を始めたのは佐々木さんが中学生のときだった。自然を満喫しながら、水揚げされたばかりの魚介類を楽しめる宿は一度訪れるとファンになり、リピーターが多かった。

佐々木さん自身も、生まれ育った「袖浜」の海が大好きだった。

「海開きすると、岸から一斉に泳いで、みんなでいかだを目指して競争していましたね。夏は毎日朝から日が暮れるまで海で遊んでいたのを記憶しています」と笑う。

東日本大震災で民宿を流出

高校卒業後、町外で仕事をしていた佐々木さん。電子機器メーカーでソフト開発などの仕事に精を出していた。30代後半となり、仕事の上でも脂がのってきたときだった、民宿と養殖業を営む父が脳腫瘍で倒れた。すでに病が進行していて、余命数カ月だった。平成18年、佐々木さんは民宿と養殖業を継ぐために志津川の町に戻ってきた。

サラリーマンから、民宿の経営と漁師への転身。右も左もわからない状態だった。しかし、不思議と不安はなかったという。「民宿のことは母親に教えてもらいながら、海のことは同級生などに教えてもらいながらなんとかやっていました」

東日本大震災による大津波が襲ったのは、それから5年後。「ようやく宿が軌道にのってきたころです。夏は海水浴客で賑わい、お客さんも増えてきて、改築して部屋数を増やそうと許可を取った矢先のことでした」

大津波は民宿、自宅、船、養殖場のすべてを飲み込んでいった。「こんなことが起こるのか」と、ただ茫然と、あっけにとられるように、その光景を見ていたという。

避難先で忘れられなかったふるさと南三陸への想い

「先のことはなにも考えられなかった」という佐々木さんは、数日後、奥さんと子ども3人といっしょに奥さんの実家広島県に向かっていた。慣れない土地で道路工事の警備員などのアルバイトや市の嘱託職員をしながら生計をたてていた。

「ただ、子どもたちは慣れるのも早いもので、しばらくすると家での会話も広島弁が出るようになって。でも、私は広島で過ごす日々が長くなれば長くなるほど、ふるさとである南三陸のことが脳裏をよぎるようになっていったんです」

残されたままの土地、仮設住宅に住む母親、町で頑張っている仲間のこと――。

「このまま、ふるさとから離れてしまっていいのかなという複雑な想いをずっと抱いていました。やり残してきたことがあるのに、南三陸から逃げてしまったようで、このまま避難先にいたら後悔するのではないかと感じていたんです」

悲願の再建。2014年に明神崎荘オープン

そんなとき、県が再建費用の一部を補助する「グループ補助金」があることを知った。「民宿の再建などまず無理だろう」とあきらめていた佐々木さんにとって、このグループ補助金は暗闇のなかに差し込んだ一筋の光だった。そこから一気に花開くように民宿に対する想いが広がっていった。

またお客様がゆっくりと泊まれる部屋を作りたい――。

こう決意した佐々木さんは、奥さん、子どもを残し、単身で南三陸に帰ってきた。土地探しや資金集めに苦労することも多かったが、「後悔したくない」の一心で奔走した。

そして2014年3月10日。震災から3年がたつころ、袖浜の高台に悲願の宿がオープンした。「明神崎荘」と名前を一新。以前よりやや内陸の高台に再建したが、宿から見える袖浜の海の美しさは変わらない。

宿から見える袖浜漁港の景色

再建からこれまで数々の出会いがあった。その中でも忘れられない出会いがある。

「ずっと昔、親父の代から来てくれているお客様が来ていただいて。昔の海水浴場の白黒の写真と親父の若いころの写真を持ってきてくれるお客様がいたんです。それをまるで昨日のことのように楽しそうに話すお客様を見ていたら、私たちからしたら日常の一コマでも、お客様にとっては一生の思い出になっているんだなあと、宿をやるということは、そうした一生の思い出作りに貢献することなんだなあと身が引き締まる思いでしたね」

再び賑わう「サンオーレそではま」とともに

震災から6年半がたつこの夏、「サンオーレそではま海水浴場」がオープンする。佐々木さんもこの日を待ち望んでいた。

「ここで生まれ、ここで育った一住民として、ガレキだらけになっていた海水浴場が、以前のようにパラソルでいっぱいになっているのを想像するだけでうれしいですね。前の賑わいが戻るんだなぁって」

海水浴場から歩いて10分ほどの明神崎荘は、休憩所も兼ねる。

「かき氷などはもちろん、つぶ貝やホタテのバーベキューにビールも用意する予定。日帰りのお客さんでもふらっと寄ってもらえたらうれしいですね」と目を細める。

「再建してからというもの、本当に人とのつながりを実感しています。親父の代から常連だったお客さまが来てくれたり、昔の写真を持ってきてくれるお客さまがいたり。小さな宿ですが、一人一人と密な関係をつくれるようなところにしていきたいですね。そしてこの町に来てよかったと思ってもらって、この町のことを好きになってくれたらうれしいですね」

きっとこの夏は、袖浜で生まれ、育った男にとって忘れえぬ夏になる。そして、訪れた方にとっても一生思い出として残る夏になることだろう。

この夏オープンを迎える「サンオーレそではま」

2017年06月30日/定点観測

南三陸町市街地の復興の様子を定点観測しています。戸倉地区、志津川地区、歌津地区の3箇所の写真を公開しています。

写真をクリックまたはタップすると大きくなります

戸倉地区

撮影場所 [38.642969, 141.442686

志津川地区

撮影場所 [38.675820, 141.448933

見晴台より北側

見晴台より東側

見晴台より南側

見晴台より西側

歌津地区

撮影場所 [38°43’5″ N 141°31’19” E

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