県立志津川高校に震災資料室が完成しました。発災直後、避難所として活用された学校の様子や資料、震災からこれまでの取り組みなどがまとめられています。今後は一般住民や視察、学校交流などで活用。震災の風化を防ぎ、次の世代へと語り継いでいく場をめざしています。
震災時、避難所として活用された志津川高校に震災資料室が完成
東日本大震災発生時、高台にあった県立志津川高校は避難所としての役割を果たしました。生徒はもちろん、近隣住民などが身を寄せ合い、不安な時を過ごしていました。震災翌日の報道で流れた志津川高校のグラウンドに大きく「SOS」と書かれた写真を覚えている方も多いかもしれません。
東日本大震災から6年がたち、町なかでは高台造成などの復興工事が進み、震災の状況を知ることは難しい状況になっています。そんななか志津川高校では空き教室を活用し、震災時の様子を伝える物品や震災後寄贈されたもの、震災からの志津川高校の歩みがわかるものなどを展示する資料室を設置しました。震災の記憶の風化を防ぎ、次の世代へ今後も語り継いでいけるように活用していくとのことです。
サッポロホールディングス(株)が「設備一式」を贈呈
この「震災資料室」設立にあたっては、サッポロホールディングス株式会社が大きな役割を果たしました。サッポログループが恵比寿ガーデンプレイス(東京都渋谷区)で2009年から毎年9月に開催している「恵比寿麦酒祭り」。
震災があった2011年からはこのイベントで販売した生ビールの売上相当額を東北復興の取り組みに活用しています。志津川高校生徒の取り組みに賛同し、また震災資料室設置の想いに共感したことから「震災資料室設備一式」を贈呈されました。
「サッポロホールディングスとしては、現地の人としっかりと話し合い、寄り添って、想いに共感したものに対して応援するという活動を行ってきました。そのなかで志津川高校の取り組みを支援することになりました。資料室は各地にあるけれども、ここの特筆すべきは、高校生自らが学び、経験したことを伝える場として活用していく、ということです。弊社の次世代育成、情報発信といった理念に合致していたことが決め手となりました」と話すのはサッポロホールディングス株式会社コーポレートコミュニケーション部部長梅里俊彦さん。
「せっかくできた施設なので、今後どんどん活用して、震災の教訓を伝えていける場としてほしい。これまでの活動を継続してほしい」と話しました。
資料室の設置はゴールではなく、スタート
「現在の高校生は、大震災発生当時小学校3年生から5年生でした。当時の記憶を少しでも後世に伝え、東日本大震災から学んだことを、未来に生きる人びとの教訓とできるようにと震災資料室が志津川高校内に設置されました」と話すのは志津川高等学校校長の山内松吾さん。
震災直後からこのような資料室を設置したいという思いがあったそうです。それが震災から6年以上たって、さまざまな支援もいただきながら空き教室を活用した資料室が完成しました。
「資料室の設置は、ゴールではなくスタートであると考えています。志津川高校の生徒たちや、地域の皆様とともにこの教室を共に育てていきたい」と期待を胸に抱いています。
志津川高校では震災前から、志津川高校情報ビジネス科による「南三陸モアイ化計画」という南三陸町の活性化の取り組みを行ってきました。オリジナルのモアイ缶バッヂやストラップを製作・販売し、その収益金によって町民の足となる「モアイバス」を昨年12月に寄贈するなど、震災後にも地域に多大な貢献をしてきました。この資料室も「地域とともに」歴史を重ねていくことになるでしょう。
資料室を活用し、世界にメッセージを発信し続けたい
避難誘導や避難所運営の協力など志津川高校の生徒が発災時に果たした役割は決して少なくありません。開室式では、震災前の南三陸町の様子、震災発生時の志津川高校周辺の様子、震災後の志津川高校の取り組みなどが志津川高校生徒会のみなさんにより発表されました。
「震災後、全国、世界中の学校と交流を行ってきました。交流会では私たちが経験したことを語り継いできました。志津川高校では、今後も震災に関する取り組みを伝えていく義務があると思っています。今後はこの震災資料室を利用してメッセージを送り続け、震災を風化させないようにしたいです」と生徒らは意気込みを話しました。
資料室の開室式が開催された5月24日は昭和35年のチリ地震津波から57年目にあたる日です。地震や津波の被害を少しでも減らすために次世代へ語り継ぐ場となっていくことを期待しています。