南三陸から能登への架け橋へ。災害派遣の記録。

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南三陸町役場での出発式

2024年の元日に発生した石川県の能登半島地震。復興に向けた動きが始まる中、全国の自治体から応援職員が駆けつけました。南三陸町から2度能登町に派遣された職員に、現地の様子を伺いました。

ふるさとの力になるために

役場職員の阿部克浩さん(38歳)。南三陸町出身で東日本大震災当時は宮城県警に勤めていました。

写真右が阿部さん

「当時は被災地での捜索活動や被災者対応をしていました。その中で地元のために何かできないかと漠然とですが思っていました。平成23年度中に自分が受け持っていた仕事がひと段落したのを機に3年半勤めた県警を退職し地元に帰る決意を固め、平成24年の10月から町役場で働き始めました。」

こうして南三陸町に帰ってきた阿部さんは町役場職員として復興に進むふるさとで尽力する日々を送ってきました。

能登町への派遣

そんな中発生した2024年1月1日の石川能登半島地震。お正月の元旦という誰もが「まさか」と思うタイミングで起きた大災害。連日映し出される現地の被害状況は、東日本大震災当時の南三陸町や三陸沿岸部と酷似しているように見えました。

混迷しながらも前に進む能登町に全国各地の自治体から続々と職員が派遣され始め、南三陸町からも役場職員が現地に向かうことに。

1回目の派遣が1月26日から2月2日、2回目が3月14日から21日、それぞれ2名の職員が派遣され阿部さんは2回参加しました。

「現地では主に被災家屋の被害認定調査を行いました。1回目の時は能登町の内陸部を、2回目は内陸部と沿岸部の地域を周りました。津波の被害は無かった場所でしたが、同じエリア内でも建っている家とそうではない家が隣接している場所でした。」

被災家屋の外観調査

被災した家屋の被害判定は被災者からの申請を受け実施されます。現地調査をし、被害判定を役場に届ける仕事ですが、ここの被害判定によって今後受けられる補償が変わってくるため、取りこぼしのないように細かく見て回ったそうです。

「1次調査の時は主に外観で、2次調査(再申請)の時は外観調査では分からない家屋内部の傾きや破損箇所をチェックしました。そのため、1軒につき1時間程度かかり、1日で見て回れるのは4軒前後でしたね。」

道路がひび割れなどで寸断され、地元の職員の案内で迂回して調査に向かう。

調査の際には住民の方とお話しすることもあり、現在は住んでおらず遠方に避難していて調査に合わせて帰ってきた方や、休日に合わせて自宅の清掃作業をする方もいたそうです。

「母家が被災して住めないが、新しい倉庫は無事だったのでそちらに住まわれている方もいました。他には土地の特性上、瓦屋根が使われている大きな古い家が多くありましたが、瓦が地震の被害に遭って落ちてしまったりズレて雨漏りの原因になってしまうのなども見受けられました。」

揺れで倒壊してしまった家屋。

古い家が立ち並ぶ農村部は、南三陸町の入谷地区と風景が似ているのが印象的だったと阿部さんは言います。東日本大震災時の被害と異なるのは、被害に遭った家が点在しており、同エリア内の公費による解体の同意が得られにくいなどまだまだ課題は多く残った状態だそうです。

倒壊した家屋とそうでない家屋が隣接して立ち並ぶ。

南三陸町から能登町へ。

東日本大震災を経た南三陸町だからこそ、出来ることはあるのでしょうか。

「これは私の個人的な考えですが、商業関連の復興に南三陸町の福興市のノウハウなどが活かせるではないかと。また、能登町は基幹産業は漁業でイカが特産品です。そういったところも似ているので抱える課題も同じものがあるのではないでしょうか。産業関連のコラボやイベントを定期的に開催するノウハウや集客の仕方など、南三陸町だからこそ出来ることだと思います。」と阿部さんは能登町と南三陸町の共通点を比較しながら答えてくれました。

南三陸町の復興の原動力とも言える福興市。町内外の方々を数多く奮い立たせてくれたあの空間は、生きる力と生きる喜びを分かち合った場だったのではないでしょうか。

【福興市100回開催に向けて①】不屈の商人魂。市から福を興す/山内正文さん

先の見えない暗い夜道が続いていると感じている被災地の皆様へ。
私たちだから言えることは、諦めずに歩けば光は差すということ。
無理なく、自分にできることをできる範囲で。

13年前にもらった恩をそれぞれの形で、関わり方で返せるよう考えていきたいです。

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