三陸沿岸に広く伝えられている「きりこ」。今では神棚飾りに欠かせないものになっており、生活と共に生き続けている文化の1つです。各家庭では新年を前に、新たなきりこに取り替えられ、新年を迎えます。今回はその「きりこ」について、上山八幡宮の宮司を務める工藤庄悦さんに話を伺いました。
紙切遊びが流行った江戸時代が起源
南三陸町の住民にとって生活の一部になっている神棚飾りの「きりこ」。
三陸沿岸を中心に、今も継承され残る文化の一つです。起源は江戸時代中頃と言われ、紙の普及に伴い、紙切文化や紙切遊びが身近なことになった頃から始まったと言われています。
昔は天災や飢饉の影響により、不漁不作の年がありました。それでも神様へのお供え物をしたいという人々の想いからお供えものを、半紙を切り抜いた「きりこ」で表現しました。しかし、時代の流れと共に物流が盛んな地域では、きりこは根付くことはありませんでした。逆に物流が盛んではなかった沿岸地域を中心に生活の一部として、きりこ文化が自然と溶け込んでいきました。
地域によって様々な絵柄を見せる
きりこには決まった型がなく、代々それぞれの神社では、代々口伝で宮司に継承されています。そのため、途中で途切れてしまった地域もあるそうです。
また神社によって、描かれている絵柄は様々で、同じものを表したきりこでも神社によって異なります。例えば海が近い地域では、鯛が描かれたきりこがあります。一方で内陸に行くと、馬が描かれたきりこがあり、その土地の歴史や風土を色濃く表現されています。
一つ一つに想いを込めることに意味がある
お正月の前に古いきりこは降ろされ、新たなきりこが飾られます。
そのため12月にきりこの最盛期を迎えます。御餅や御酒、知恵袋といったお供え物を描いたきりこをはじめ、神様の依り代とされる御幣や鯛飾りなど、何種類ものきりこをこしらえます。中でも鯛飾りは縁起物とされる鯛や扇が、網にかかった様子を描いており、1年間の大漁祈願の想いが込められています。
上山八幡宮の宮司を務める工藤庄悦さんは、昨年、御幣200体と鯛飾り80体ほどをこしらえました。震災後、一時はきりこを飾る家庭は減少したものの、再建が進み震災前と同じ数に戻りつつあると話します。昔は小刀、今ではカッターで1枚ずつ丁寧に切り出されていくきりこ。
「時代が進み便利な道具もあるが、1枚1枚想いを込めて切ることに意味がある」と言います。
人と人も繋ぐ、生き続ける文化
民衆の中で、自然と生まれ発展し、中には消えていったきりこ。
「1度飾って終わりなら、今まで継承されていないだろう」と工藤さんは話します。
お正月を前に古いきりこを下し、新しいきりこを飾ります。そして新年に新たな神様を迎え入れる。1年間飾り、お役目を終えたきりこは焚き上げられる。毎年取り替え、作り続けることに意味があるように感じられます。
風によってヒラヒラと揺れ動くことで、人々は神様の存在を感じ「人と神様とのつながり」を感じていました。
それが今では、長い歳月と共に人々の生活の一部となり、神棚飾りにはなくてはならないものになっています。
取材を通して神様との繋がりだけでなく、過去と現在、人々も自然と繋いでいるようにも感じられました。昔の人々の想いや歴史が込められている「きりこ」。人々の生活と共に、今もなお生き続ける文化です。