南三陸町の復興計画ができるまで / 前副町長 遠藤健治さん 長編インタビュー

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「スピードよりも命を守るまちづくり」南三陸町の復興計画ができるまで / 前副町長 遠藤健治さん 長編インタビュー

町の復興の方針となる「復興計画」(現在は総合計画に含まれます)。その策定に至るまでにはどのような経緯があったのでしょうか。震災後の復旧の最前線を担ってこられた前副町長 遠藤健治さんにお話を伺いました。

「災害に負けないまちづくり」を進めていた矢先の東日本大震災

―今日はよろしくお願いします。遠藤さんは、平成19年から震災発生までの4年間と震災後の4年間の計8年間、南三陸町の副町長をつとめてこられました。震災前は、どのような町の計画があったのですか?

南三陸町は平成17年10月、志津川と歌津の二町が合併してできた新しい町でした。私が副町長に就任したのは合併後の平成19年4月です。「新町建設計画」という10ヵ年の計画に基づき、ハード面や制度面の整備が良いスピードで具現化されていき、2期目の次の5年間で、南三陸としての一体感をどのように醸成していこうかという時期でした。また、2000年(平成12年)に宮城県沖地震の想定が発表され、今後20年間で99%の確率で、宮城県沖地震が起こると言われていました。そこで、災害に負けない安心安全なまちづくりのための、ハード・ソフト両面での対策が最重点事項となっていました。

―その矢先の東日本大震災だったんですね。

この町は、歴史的に見ても何度も津波の被害にあっているし、1960年のチリ地震津波を経験した人もたくさんいます。町民の危機意識は高いという自負はありました。しかし、実際に襲ってきた津波は、全く想定を超えるものでした。被害に「想定外」はないとは言われるが、我々は、いわゆる科学的な知見に基づいた宮城県沖地震の被害想定というものを基準にして、防災計画の策定と防災活動を進めてきました。結果として、それまでの計画が役に立たないほどの大きな津波に襲われて、800名からの犠牲を出してしまったというのは、悔やんでも悔やみきれない。町長とは、この辛さ、悔しさは墓場までもっていかなきゃいけないと話していました。

みんなが財産、家族、思い出までも全てを失ったなかで、どうこの町を再建していけばいいのか、直後は考えも及びませんでした。しかし、町政を担う我々が立ち止まっていてはいられないとの思いで、とにかく目の前の課題に対し、無我夢中になってやってきたという感じです。

「正しく自然を畏れる」という前提の上にある、安心安全なまちづくり

―そんな中で、どのように復興計画を作っていったんですか?

まず考えたのは、これだけの大きな犠牲を出してしまったという教訓をどう生かすか。この町で生きていく以上は、津波との戦いになる。これまで、我々は自然と対峙しながら生きてきました。今回、多くを奪った海ですが、我々はこの豊穣の海に育まれ、生活を送ってきたのです。海に対する畏敬の念は私たちの生活のベースになっていく。正しく自然を畏れるという前提の上にある、安心安全なまちづくりを考えていかなければならない。今後、どんな災害があっても、命だけは守るということ。これを基本としてきました。

―どのようなプロセスがあったのですか?

2011年の7月頃、町長と二人で二次避難所をまわり、「今回の復興計画では、命を守るということを優先します。そのために、今までみなさんがお住まいになっていた地域は使いません。高台に生活の場を移し、万が一、夜寝ている時に災害が起こっても、命だけは守る町づくりを進めたい」ということを説明し、町民のみなさんの声を聞いて回りました。結果として、スピードよりも命を優先した復興計画になっています。

―住民の方々の反応はいかがでしたか?

高台に生活の場を移すということに関しては、住民からほとんど異論は出ませんでした。というのは、この100年の間に4回も大きな被害を受けており、今回は家だけでなく多くの命まで奪われた。もう二度と、次の世代にこんな思いはさせたくないというのが根本にあると思います。ただ、今になってみると、沿岸部が10メートルも土が盛られて、「こんなに高くするんなら、そこに家建てさせてよ」っていう思いはみんなあるでしょうけどね。

―そうして町の基本方針が決まったわけですね。

その他、産業の復興だったり、全体的なことに関しては、大学の先生方や学識経験者の意見も聞きながら、もちろん住民懇談会も開きながら、素案を固めていきました。9月の時点で素案ができていたのですが、11月の国の補正予算で復興予算が承認されるのを待って、12月に正式決定しました。

町の復興の鍵は漁業

―策定後はどのような流れでしたか?

2012年に入ってから、本格的に復興事業に着手しました。まずは住まいの再建、そして次は産業の再建です。しかし、産業の再建というのは基盤整備が進まなければ始まらないという問題もあり、なかなか難しかった。

―中でも、「漁業の再生なくして町の復興なし」と、水産業の復興は町にとっても重要なファクターでしたね。

津波の被害の大きい沿岸部には、当然漁民(漁師)が多く住んでいました。多くの漁民は船舶や養殖施設だけでなく、財産も家族も失いました。南三陸のたくましい漁民でも、今回ばかりは立ち上がれないんじゃないかと、そう思ったこともありました。しかし、彼らは強かった。漁民というのは、ちょっと低気圧災害がくれば、1年手塩にかけて養殖したものが一晩で流されたり、毎年、大なり小なり自然に翻弄されて生きています。それでも、自然なんだからしょうがない、とすぐに切り替えられる強さがあるのです。

―津波も自然のひとつだと。

それに、自分たちが生きる術は漁業しか無いという気持ちが強いのです。自分たちの生活の再建のためには、今すぐにでも漁をはじめなきゃいけない、こんな時だから助け合わなきゃいけない、とすぐに立ち上がった。これには、町の復興を進めていくうえでも我々も大いに力づけられました。漁民の皆さんががんばってるんだったら、自分たちもがんばろうとね。彼らのがんばりが、他に波及した影響というのは本当に大きかった。

本当の「復興」はこれから

―こうして復興計画のもと、急ピッチで復旧事業が進められてきましたね。

ようやくここに来て、生活基盤、産業基盤も整って、住民のみなさんにそれぞれの生活に打ち込んでもらう用意ができました。しかし、そうは言っても5年・・・。被災者の方々にとっては、辛くて長い5年だったと思います。みんなで作り上げた復興計画ではあるけれども、時間がかかりすぎた。その中で、南三陸が嫌いになったわけではなくても、町を出て行かざるを得ない方もいました。それが人口減少という新たな不安要因となってしまっているのも事実だと思います。

―復興ができても、また次の課題が、というわけですね。

今はまだインフラができただけであって、まだまだ自分の生活を立てなおしていかなきゃいけない人たちもいます。土地の引き渡しを受けて自宅を再建したって、復興が完了したわけではありません。ここで安心して暮らせるのは、新しい町にコミュニティができて、生活の糧を得られる仕事があって、買い物施設や賑わいもできて、それで初めて復興したと言えるんだと思います。

今だから話せる町への思い

―激動の中、復興に邁進されてきたと思いますが、今あの頃を思い出して苦労された思い出はありますか?

この5年間は、行政を担う我々も、また住民の方々も「この町をどうにかしなきゃいけない」という同じ思いでやってきました。なので、苦労は無いといえば嘘になりますが、それは苦労とは言いません。

―副町長を退任されたときはどのような思いでしたか?

在職中、ある程度復興計画に沿って進んできているのを見て、後は時間が解決するだろうなというのを感じました。もう一期副町長をやれば自分も70をすぎる。ちょうど地方創生も始まった時期で、新しくできた基盤に色を付けていく作業は、次の世代にバトンを渡そうと思い、2015年の3月、任期満了で職を辞させてもらいました。

―退任されてからは町をどのように見られていますか?

実は、楽しみなんですよ。震災後、これまで縁もゆかりもなかった若い人たちや、様々な感性や才能をもった人たちが町に入ってきました。それによって、確実に今まちの中枢を担っている世代の方々の考え方も柔軟になってきている。外からの新しい風を受けながら町づくりを進めていければ、これまでにないすばらしい町ができると思います。

―期待している部分はなんですか?

一番期待しているのは、今の中学生や高校生です。彼らは、震災を経験して、全世界の人に支えられてここまでこれたという思いをもっている。機会あるごとに、彼らの口から「今度は自分たちがこの町を作っていくんだ」という言葉を聞いてきました。これがやっぱり、南三陸にとって宝だと思いますね。失ったものは大きいけど、それに代わるものとして、若い力が生まれてきている。今がんばらないと、自分からやらないと、と思って若い人たちががんばってきた結果が、5年たって、今随所にあらわれてきている。産業でもそうだし、まちづくりのソフトの部分でもそう。

―これからどんな町になってほしいと思いますか?

どんな町にというのは、私は特に考えてないんですよ。それはこれからの世代の人たちが考えることだと思うから。とにかく彼らが、こうすれば住みやすい町になるんじゃないかとか、みんなが元気になるんじゃないかと考えることを、思いっきりやってほしいですね。私はそういう人たちの応援団として、残りの人生を使っていきたいと思っています。

―本日はありがとうございました。

「スピードよりも命を守るまちづくり」南三陸町の復興計画ができるまで / 前副町長 遠藤健治さん 長編インタビュー

温かい口調で町を語る遠藤さん

驚くほど詳細に震災後の出来事を語る遠藤さん。一方で、震災前のことに関しては、あまり覚えていないのだとか。それだけ、町のことで頭をいっぱいにしながら激動の5年間を走ってこられたのだろうと思います。「この町をどうにかしなきゃいけないという同じ思いでやってきたので、苦労は無い」と語る遠藤さん。その言葉の奥に、自分を奮い立たせながら様々な課題を乗り越えてきた力強さを感じました。

インタビューをしていて感じたのは、町や行政という硬い内容を話しているのにもかかわらず、その口調が、町民一人一人の顔を思い出しながら話しているようで、とても暖かかったこと。役場の仲間たちや町民たち、それぞれのがんばる姿をつぶさに見てきたからこそ、このような温かい口調で町を語れるのだろうと感じました。南三陸が乗り越えてきた5年間の重みを垣間見たインタビューでした。

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ライター 安藤仁美
1988年愛媛県生まれ。2011年3月、大学卒業と同時に内定取り消しにあったことをきっかけに、南三陸町で支援活動を開始。2012年より、大学職員として地域連携に従事し、東京と南三陸の二拠点生活を送る。2015年4月より移住し、南三陸研修センターのスタッフとして働いている。趣味は旅行とマラソン。