余命宣告、震災…何度も何度も危機を乗り越えた元気女将!/松野三枝子さん

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シリーズ「きらめき人」第9弾。いつも笑顔と元気な声で迎えてくれる『農漁家れすとらん・松野や』の女将、松野三枝子さん。実は何度も生死を境にした経験をお持ちです。だからこそのパワーを炸裂させた接客と生きざまを紹介します。

病気と闘っていたが、もっとすごい敵が現れた!

南三陸町志津川汐見にあった公立志津川病院に入院しながら治療を続けていた松野三枝子さん。2011年3月11日午後2時46分、巨大地震が発生した時は入浴中だったそうだ。あまりにも揺れが大きすぎたので、すぐには逃げられず恐怖におののいているばかりだった。

約5分後、揺れがおさまったころ浴場のドアを開けたところ誰もいない・・・しばらくして看護師さんが見回りに来てくれた。「松野さん、ここにいたのね。すぐ上の階に逃げましょう!歩ける?」

最上階に続く階段まで連れてきていただき少し安心したが、想像以上の津波が見えたときには愕然として足が動かなくなっていた。病院には、ベッドに寝たきりの患者さんも多数いたので残念ながらそのまま波に呑まれてしまったケースも少なくない。まるで地獄絵図を見ているようだったと振り返る。

「あ~、あの若い子の代わりに私が死んでもいい~~」三枝子さんが絶叫した。

「バカなこと言わないで、あなたは生かされたのよ!」そばにいた看護師長から一喝されたという。

余命宣告

末期のスキルス性胃がんという診断を受け、余命わずかと言われた。

「53歳で私の人生終わるのか…」と気落ちしながらも治療が始まり、食道・胃・胆管・胆のう・脾臓・片腎を摘出した。

手術を行った仙台市内の病院から公立志津川病院へ転院して治療を続けていた最中の東日本大震災。九死に一生を得た瞬間から病気のことは頭から離れたかのように被災者のために動き出した。入谷の実家に戻ると「人は食べないと絶対ダメ」という想いが強まり、炊き出しに奔走した。

夢中で活動している中、奇跡が起こる。再検査をしたところ、がんが消失したと説明されたのだ。

余命宣告されたはずの体は、震災後の環境変化で健康を取り戻したのかも知れない。

ならば、もっと働きたい!かつての夢を実現させたい!! どんどん前向きになっていった。

あの時、看護師長から一喝された言葉が励みになったと笑顔で語る。

夢…それは「いつか『農家レストラン』を出したい」ということ。

還暦を迎え、同級会で仲間に打ち明けたところ、心強い応援の声を頂いてものすごくうれしかった。そんな後押しや全国各地からの支援もあり、念願のレストランをオープンすることができた。2014年1月『農漁家れすとらん松野や』開店。余命わずかと宣告されて12年後のことだった。

大願成就

これまでも、イベント等で販売していたのが『海鮮はっと』『ウニ飯』『ホタテ飯』など。どこの会場でも大評判だった味を常に提供できる場ができたのは、志津川中学校時代の同級生はじめ多くの方々の応援があったからと目を細めた。板倉工法で建てられたお店は、木のぬくもりがとても良く感じられる空間となっており誰もが癒される。

オープン直前のある日、松野さんを知るたくさんの町民がお祝いに駆けつけた。震災後から定期的に支援活動を行っている『JAZZ FOR TOHOKU』のメンバーによるミニライブも同時に開催、みんな大喜びだった。

一陽来復

「生まれ育った家庭は志津川の街の中、仕出しやコロッケ販売等で忙しい家業でさ、小学生のころから店を手伝っていたよ。忙しくて学校を休むと、仲の良い友達が勉強を教えてくれた。『その代わり、コロッケ3つな!』って笑いながら言われたよ。同級生って良いよね~」と言いながら、日替わりランチを出してくれた。

『はっと』がメインのメニューは、ボランティア活動や復興事業等で町を訪れる方々にも大好評で、時間があると震災の出来事=生き延びた体験を涙ながらに語ってくれる。その鬼気迫る話にはもらい泣きする方も多く、「今度私の町に来てもっとたくさんの方に聞かせてください」と講演依頼も殺到している。

定休日やイベント出店の合間を縫って全国各地で語り部活動もこなし、講話では「まずは自分の命を守ることを考えてほしい。普段から家族で避難先を決めておくことも重要」と付け加えているそうだ。

何度も奇跡的に命を救われた松野三枝子さんの言葉は実に重い。

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