これまで南三陸町を担う人材を多数育ててきた宮城県志津川高校(愛称「志高」)は、大災害を経て町の様子も変わった今、何を目指して進んでいるのでしょうか?その舵取りをする山内松吾校長にお話を伺ってきました。
少子化でも光が見える場に
山内校長は、南三陸町入谷出身の志高卒業生です。福島の大学を卒業した後、気仙沼市を中心に宮城県内の高校や支援学校を歴任し、昨年より志津川高校に校長として赴任しています。「学校に来るのが楽しくてしょうがない」と顔をほころばせながら話す山内校長は、社会の中での“学校”の役割を自らに問いかけ、実践しつつその謎解きを楽しんでいるようにも見えました。
「南三陸町は、もともと少子化が進んでいた中、東日本大震災が起こり、震災復興と地方創生の大きな波の中でどういう道を歩んでいくのか、という課題を課せられています」と山内先生。
「(生徒には)自分のために勉強することはもちろん大切だけれども、そういった努力をすることで町に何かを寄与できることを身をもって学んで欲しい。そのために、多様な人に学校に入って来てほしい。先生の話を聞くだけでは学べないことを学んでほしいと思います」
その一環として、昨年から授業に取り入れられたのが、“ふるさと南三陸を学ぶ講話”です。講師には、若者から年長者、町内外の会社の経営者、専門家、職業人、教育者が登壇し、様々な生き方、考え方、役割などを学ぶプログラムになっています。
志高には多様な目標をもった生徒が集ってきます。進学希望者もいれば、就職希望者も、漁業を継ぐ生徒もいれば、公務員、会社員として働きたい生徒、未来を手探りしている生徒もいます。少子化の波は否応無く押し寄せてきますが、「少子化であっても光が見えるような方向に進みたい。そのためには町や地域の人のサポートが必要です」と山内先生は言います。
今年から、震災前からやっていた就職のための心構えを学ぶ授業も再開されました。民間企業からだけでなく、銀行や役場、郵便局、消防署などからも協力があり、協力団体は以前より増えているそうです。震災の経験は人材育成の重要さを町全体に再認識させたのかもしれません。
人づくりの土壌を肥やした震災経験
震災が破壊したものは大きかったけれど、その経験がもたらしたものも少なくありません。町の中心部が破壊され、危機的な人材不足にみまわれた経験は、人づくりに対しての大人たちの意識を変えてきたようですが、子供たちや若者はどうなのでしょう?志津川高校生徒会長の大坂日菜さんにお話をうかがいました。
日菜さんに投げた「震災前と後で何か変わりましたか?」という質問には、迷い無く「変わりました」と答えが返って来ました。震災時に小学6年生だった日菜さんは、避難した先の鳴子中学校の入学式で、慣れ親しんだ同級生が誰もいないことに気付き、「(自分から)伝えなきゃ」と強く思ったそうです。そして、高校生になった日菜さんは、生徒会長に手を上げました。「震災を経験して、子どもたちが期待されているのを実感しました。どこへ行っても『頑張ってね』と応援されるんです」と。
日菜さんの夢は、南三陸町で幼稚園の先生になることだそうです。現在、隣町の登米市から通っている日菜さんも、卒業後は進学のために町を離れることになるかもしれませんが、いつかは南三陸町へ帰って来たいと思っているそうです。
5年間で育まれた信頼関係
志高の文化祭。ダンボールで作った大きなお面を着けて歩く生徒、全身白塗りの異様な様相、ジブリのアニメから出て来たちょっとおかしなキャラクターたち。毎年の文化祭には高校から商店街まで、仮装行列で町内を練り歩くのが恒例になっています。志高から出て来た手づくりの仮装パレードを待ち構えていたのは楽しそうに手を振る仮設住宅の住民の皆さんです。
「“めんこい”っていうか、“かわいい”っていうか……」仮設住宅の敷地から手を振って応援していた女性たちに声かけすると、暖かみのこもった口調で高校生のエピソードを聞かせてくださいました。仮設住宅の敷地が高校の校庭なので、野球部やサッカー部、陸上部の練習場面に出会うことも日常で、「孫も『おにいちゃん、がんばって!』と応援するんです」
「保育所に行っている子どもが、『ひかりありぃ、ひかりありぃ』といつの間にか、志津川高校の校歌を覚えてねぇ」「仮設自治会から栄養ドリンクを野球部に送ったこともあって、その時は、生徒が一戸一戸訪問して、そのお礼を言いに来たんです」まるで身内のことのように語る様子からは、単なるお隣さんというだけでなく、確かな信頼関係が見えて来ました。
校庭に住宅があるという普通ではない状況は、決して喜ばしい状況ではないだろうけれど、結果的に学校と住民の距離を縮めることに寄与したのかもしれません。気が塞いでいる時も、『こんにちは!』と元気よく挨拶されると、『落ち込んでなんていられない』と励まされたそうです。そんな関係ができていた仮設住宅の住民の方々も10月が引っ越しのピークだそうです。「さみしいけど、高校生に(運動場を)返さないとね」と話されていましたが、信頼関係の蓄積は、仮設住宅が解体されても、関わりのあった生徒や住民の皆さんの心の中に何かを残したのではないでしょうか。
志高からの発信
志津川高校では、校外の人が訪れる機会も設けていますが、生徒自らが外で活動する機会も積極的に設けています。
今では南三陸町の観光物産としてしばしば登場するモアイですが、チリ地震津波(昭和38年)をきっかけにチリから送られたモアイ像を地域起こしに活用しようと“モアイ化運動”を始めたのは志津川高校の情報ビジネス課だったそうです。福興市で高校生がモアイ焼を販売している場面に出会ったことはありませんか?町内の小学生がモアイのカルタをしたと話していませんでしたか?それらは、モアイ化運動の一環で行われた活動です。
また、志高では、積極的に校外への情報発信もしています。インターネットを通してホームページ、facebookで発信する他、「志津川高校通信」を広報に折り込んで全戸に配布しています。全国的に少子化が進む今、文部科学省や地方公共団体の教育委員会が実施するモデル事業に指定された“拠点校”に人が集まる傾向にありますが、拠点校でなくとも志津川高校は独自の取組みをしていることを、町民の皆さんに知って欲しいという思いが形になったものでしょう。
伝えたい想いが土壌を肥やす
「外に出て帰って来ない人もいるだろうけれど、町のために何かしてほしい。鮭のように、大海で経験を積んでコミュニケーション能力を高めて、また戻って来て欲しい」という山内校長先生の希望は、町の大人たちの声を代弁しているとも言えます。その校長先生を喜ばせたのは、昨年度の卒業生(110人程)ひとりひとりに面接した際、半数以上から町のために地元に残りたい、あるいは、町を出てもいつか帰って来たいという意思表明があったということでした。
形になって現れてくるのはこれからなのかもしれませんが、大人が正面を向いて人づくりをしている姿は確かに伝わっているようです。「町に残っている生徒も中途半端な生き方はしていない。大学を卒業しても、南三陸町へ帰って来てNPOに入って頑張っている卒業生もいます。町と何かしらの関わりを持ちたいという生徒が増えています」と山内校長先生は確かな手応えを感じているようでした。
志高は、人を育む土壌であり、町の人々の想いを継ぐ場でもありました。大災害を切り抜けて来たしなやかさ、強さで、押し寄せる厳しい時代を迎えても、光を見つけて人を育んでいく場でありつづけることでしょう。