250年の伝統とプライドが、黄金色の里に舞う入谷打囃子

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今週末、9月17日に行われる「入谷打囃子」は宮城県無形民俗文化財です。それを執り行う「当番講」。時代が変わっても少しずつ形を変え、受け継がれるコミュニティを取材してきました。

入谷八幡神社例祭と打囃子の歴史

昔、入谷に信四郎という猟師がいて、狩りの合間に休んでいたところ、突然猪が飛び出して来た。待ちに待った獲物だと銃を撃ち放ったところ、一発で仕留め、喜んで持ち帰ろうとしたところ、突然やってきた数人の見知らぬ猟師に「この猪は自分たちが撃ったもので、ここまで逃げてきて死んだのだ。それを勝手に持ち去るとは何事だ。」と怒鳴りつけられた。

もちろん信四郎は自分が入谷側で仕留めたものだといい、口論になった。ちょうど登米と入谷の村境あたりでの出来事で双方引かず、大喧嘩になり、信四郎は登米の代官所の牢屋に入れられてしまった。

双方の意見が対立し、らちが明かないと役人も困り、どちらの言い分が正しいのか役人が現地を訪れ村境について調査することになった。

その間、入谷の村人は信四郎を大変心配し、入谷側の勝利と信四郎の無罪を毎日入谷八幡神社に祈願した。

そして、もしこの紛争に勝てたなら祭典日には盛大な踊りを奉納いたしますと神に誓った。

結果、入谷側が勝利し、信四郎は放免、人々は八幡様に感謝をした。

誓い通り踊りを奉納すべく、時の肝入り、山内甚兵衛(山内甚之丞の息子)が村人3人を京都へ派遣し、祇園囃子をはじめ各地で打囃子を習得させ、入谷八幡神社の祭典日に奉納した――

これが入谷打囃子の始まりであるとされています。

 

こうして始まった打囃子は250年以上の歴史があると云われ、その間に様々な存続の危機がありました。

明治以降、凶作や不況、伝染病の発生などがあれば中止となり毎年奉納とはいかなかったそう。

第二次世界大戦時には終戦まで奉納が見送られ、ようやく復活したかと思えば、資金難や時代とともに変わった敬神宗祖の考えなどで、行事に参加する人自体が減り継承が厳しくなりました。

危機のたびに、保存会を設立したり、小学校のふるさと教育で打囃子を取り入れたり、各地で公演をして回ったり、関係者の並々ならぬ努力で今日まで受け継がれてきました。

そして平成11年に宮城県の無形民俗文化財に指定されました。

「当番講」とは? 打囃子にかける想い

そんな歴史を持つ入谷打囃子は地区ごとに担当の年が決められており、今は4つのコミュニティが持ち回りで執り行っています。

それが「四沢の打囃子講」、そしてその年担当する講を「当番講」と呼んでいます。

  • 桜沢大船(さくらざわおおぶね)講
  • 桵葉沢(たらばさわ)講
  • 水口沢(みずぐちさわ)講
  • 林際(はやしぎわ)講
各講のおおまかな地図 (出典:「入谷の祭りと打囃子の由来」より)

今年の当番講は林際講。9月に入ると毎夜、太鼓や笛の音が聞こえてきます。

練習場所になっている旧林際小学校(現さんさん館)の体育館は夜7時になるとわらわらと車と人が集まってきます。小学校低学年くらいの子から80歳は超えていそうなご老人、練習を見守りお世話をする女性たち。

まだ小さな子供たちも小太鼓の芸者として師匠の指導をうけます。練習は夜9時ころまで続き、普段ならすでに夢の中であろう子どもたちは少し眠たげです。

秋の夜は肌寒いというのに、大太鼓、笛、獅子愛子、獅子舞、どの芸者さんも師匠からの熱い指導をうけ、汗を流していました。見ていると結構な運動量です。どの雅楽も舞も動作が大きく派手でかなりの消耗をするようです。練習の後は足腰にきて、しゃがむこともままならないというお話もありました。

そんなハードな練習を乗り越えるためには食事も用意されており、これも当番講の女性たちが受け持ち毎夜お世話をしているそうです。

他にも隣の部屋をのぞいてみると「あわじ」と呼ばれる水引の飾りものや「梵天」を作っている方々が。

近くの集会所に行ってみると総務方や事務長、書記方など様々な方が集まっています。

入谷小学校裏にも行ってみると今度は一面ピンクの花飾りとたくさんの人。

この花飾り、毎年手作りで1500個近く作るそうで、一つの花が4個~8個のパーツで出来ています。

白の半紙を型抜き→食紅で染色→折り→組み立て→貼り付け

というなんとも手間のかかる作業です。

「普通の糊で付けてるだけだから雨降ると一発で取れちゃうんだよ。湿気でもポロポロ落ちてな~」

「そうそう!八幡様についたらほとんど残ってかったりしたらどうすっぺ!?雨だけは降らねーでほしいよ」

と顔を見合わせながら笑う男性たち。それを横目に黙々と花を貼り合わせる女性たち。

今の時代既製品でいくらでも色紙や取れにくい糊などがあるにも関わらず、ずっと昔から同じものと方法で作っているそうです。

「お祭りってーのはやっぱりそうじゃなきゃな!こうやってみんなで絆とか関係を作ってるんだよ」

という男性。それが「粋」なんですね。

当番講100戸以上のみなさんが2週間毎夜作業と練習に励んで出来上がる打囃子。そのつながりは、コミュニティというより大きな絆のように思いました。

「ほかの講には負けたくない!」山内講長の想い

林際の講長を務める山内敏裕さんにお話しをうかがいました。

山内さんもこの文化の中で育ってこられたお一人です。小学生の時には小太鼓、中学生で大太鼓、27歳の頃には大太鼓の師匠役をされたそうです。昔は体育館も集会所もなかった為、今のように体育館ではなく、練習や全ての準備を「宿」といって個人宅でしていたそう。山内さん宅も過去3度の宿を引き受けており、物心ついた時から今まで打囃子に携わってこられた大ベテランです。

年々、人口減少がすすみ、とくに、子どもの減少で配役を決めるのも大変。昔は女性がお囃子をすることはできなかったそうですが、今は女性なくして執り行う事も出来ず、準備をする人も足りず、本番が迫ってくると夜だけでなく日中も準備や稽古をすることもあるそうです。さまざまなご苦労が伺えましたが、お話しをしてくださる山内さんのお顔はやはり楽しげ。エネルギーと笑顔にあふれていました。

そんな山内さんにお客さんにどんなところを見てもらいたいか、見どころを聞いてみました。

「実は講によって少しずつ違いがあるんだよ。大船の方とは太鼓が違うところが2カ所くらいあるし、笛も微妙に違うんだ。そういうところも見てもらいたいし、何よりも他の講に負けたくないんだ!見ている他の講の人達に、すごいなと思われるような、満足してもらえる打囃子をやりたいね」

と勢いよくおっしゃる山内さん。

「これは講ごとの競い合いだからさ!自分たちの流儀の違いを発表する場だから」

とそれを隣で聞いていた水口沢講長も同意されます。決していがみ合うような口調でも態度でもなく、お互いを尊敬し合ういいライバルのようです。競い合いだと言っても打囃子は入谷のみんなの宝物。大切な宝を守る同志のような関係のように見えました。

世界遺産 平泉、中尊寺で舞う入谷打囃子

本番を終えた翌週の9月24日(日)、岩手県にある世界遺産平泉、中尊寺で「三陸郷土芸能奉演」が行われます。

入谷打囃子はこの奉演に参加するため、例年にもまして準備が忙しいとのこと。打囃子を中尊寺で行うにはくみ上げた屋台とばれんを、一度ばらして現地で組みなおさなければならない、そのためには芸者も含め90名近い人を連れて行かねばならないので、費用もものすごく掛かるそうです。

地元の企業から寄付を募ってなんとか財源を確保し、行くことに決めたと山内さんは話していました。

郷土芸能を通して培われるコミュニティは強い。地域総出で、老若男女が一致団結して何かに取り組む、これほどまでに強い結びつき、こんな光景は他になかなかないのではないでしょうか。

脈々と受け継がれ、数々の危機もコミュニティの力で乗り切ってきた入谷打囃子。「伝統を継承していくことが大事」とよく言いますが、技術や物を後世に残すことだけが大事なのではなく、伝統を受け継ぐ人々の絆を紡いでいくことも大切なのだと、林際講の皆さんをみて学ばせていただきました。

これからもどんな危機が訪れようと乗り越え、10年先も100年先もずっとこの黄金色の里に映える美しい行列と雅なお囃子の音が響き渡ることを願ってやみません。

インフォメーション

入谷打囃子

日時:平成29年9月17日(日)

時間:9:00~12:00

場所:入谷八幡神社~一本松

 

三陸郷土芸能奉演

日時:9月23日(土)、24日(日) 11:00~と14:00~の2奉演

場所:〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202

中尊寺

※行山流水戸辺鹿子躍の奉演もあります。

※入谷打囃子、水戸辺鹿子躍の奉演は24日(日)のみです。

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