経験・知恵を未来へ紡ぐ/首藤和子さん

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南三陸に生きる⼈を巡り、⼀巡りしていく連載企画「南三陸ひとめぐり」。第6弾は、入谷地区に住む首藤和子さん。戦後を生き抜いた知恵・経験、そして出会いが生む豊かな人生に迫ります。

高野会館で過ごした震災の夜

2011年3月11日。和子さんは南三陸町志津川にある高野会館にいた。芸能発表のさなか地震が発生。屋上に避難し、足元まで水に浸りながらその場にいた300人もの人と肩を寄せ合い、耐えしのいだ。

「もうその時は恐怖もなにも感じれなくって。次の日の朝、水が引けたら、ああ生き残っていたんだなって」

町を飲み込んだ津波は内陸部にある夫・和夫さんの家まで押し寄せていた。幸い全壊は免れていたものの、家は瓦礫に埋もれていた。それからの日々、和子さん夫婦は手作業で家の修復作業を行った。

「入谷からおにぎり背負って家に通って片付けていました。うちの歴史はこのあたりでも古くて、墓を見ると、400年も前からこの辺りに和夫さんの先祖が住んでいたみたいなんです。簡単に手放すわけにはいかないっちゃ」

戦後の苦難の時代を生き抜いた技

家が半壊したくらいでへこたれない強さはその経験がなせるものなのかもしれない。時代は戦後すぐにまでさかのぼる。和子さんが小学校2年生のとき、太平洋戦争が終戦した。

「食べものも、着るものも、なんにもなくて。本当に大変でした。自分でなんでもかんでも作らなきゃいけなかった。10人兄弟だったのでなおさら」

魚を腐らせて肥料にして、4反歩ほどの畑で家族分の野菜を作った。冷蔵庫なんてもちろんないから、野菜は乾燥させるか塩漬け。味噌はもちろん醤油などの加工品も手作り。蚕から糸を紡いで着物を作って、藁で草履を編んだ。身の回りのものはすべて手作り。それが当たり前の時代だった。

保存食や郷土料理ーー。苦しい時代を耐え抜いてきた食の知恵は、便利さを手に入れると同時に薄れていってしまった。

和子さんは「地域を学ぶ昼食会」の講師役として、郷土色を伝えていく活動も行なっている。

「地域の幼稚園の子どもたちが、うちの畑さ来て、さつまいも掘りに来るんだ」

かつては当たり前のように畑があったこの町も、震災によって狭い仮設住宅や団地での生活が続き、畑に触れる機会が減ってきてしまう状況もあり、和子さんの畑での農作業が毎年恒例になっている。

経験・知恵を未来へ紡ぐ/首藤和子さん

「出会いこそが人生の醍醐味」

そんな和子さんは「旅行に行くのが楽しみでね、行きたいところをあげたらきりがないよ」と笑う。80歳近い年齢ながら、お友達と北へ南へ旅をする。そして、彼女のうちにもたくさんの国内外の旅人が訪れる。

「南三陸町で震災前に民泊をはじめたときから受け入れをやっていてね。もう何年になるんだか。震災があって少しお休みをしていたんだけどまた再開したんだ。台湾の人なんてまったく会話にならないんだけど、おもしろくて。孫が遊びに来たような感覚だっちゃ」

言葉の壁はあっても、いっしょに火をおこし、くるみを割って、餅つきしたり。いっしょに手を動かすことで心の距離は縮まり、たった2〜3日で家族のような関係になる。

「手を握って別れるときは、なんとも言えない気持ちになってな。しばらくしてから便りが届くとうれしくってなあ」と、いっしょに映った写真を見ながら懐かしむ和子さんの顔がほころぶ。

「出会いこそが人生の醍醐味。まだまだ元気でいなくちゃ」

経験・知恵を未来へ紡ぐ/首藤和子さん

「若い人に町の未来は託します!」

取材の最後に、南三陸に対する思いを聞くと、「もう十分楽しませてもらった。あと、おらは若い人に託します」とまっすぐ前を見つめて話す和子さん。

そしてしばらく間をおいて、「ひとつだけ、いろんなところに旅行に行って感じるのは、地場産品がいっぱい並んでいる道の駅みたいなのが南三陸にもあったらいいなあって。せっかくいいものがいっぱいあるんだから」

志津川に新市街地が完成したとき、和子ばあちゃんにいっぱい自慢しよう。

「ばあちゃん、おらほの町、こんなにもすてきなものいっぱいになったよ!」って。

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ライター 浅野 拓也
1988年埼玉県生まれ。学生時代はアフリカや中東、アジアを旅したバックパッカー。卒業後は、広告制作会社でエディター・ライター業を経験。日本全国を取材で駆け回り、自然とともに生きる人々に感銘と同時に憧れを抱く。そして、2014年に、取材でも縁のあった南三陸町に移住。食・暮・人をテーマにしたライターとして活動している。